仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

タグ:仙台

暖簾を守る会

2016/11/7

暖簾を守る会というものがあります。
歴史が長い短いに関わらず店の暖簾は大事なもの。
その暖簾を守り、また長く使われた暖簾を供養するのがその会の主旨です。

毎年この時期に大梅寺の供養碑にお参りします。
朝雨が降っていましたが蕃山の大梅寺に着く頃にはすっかり晴れました。

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供養の後は総会と会食。

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そして今回は秋保温泉の佐勘の佐藤勘三郎さんにG7仙台財務大臣・中央銀行総裁会議の裏話を話していただきました。
話の内容はここでは言えませんが貴重なお話を頂戴しました。大変なご苦労があったことだけは確かです。

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青葉神社例大祭

2016/11/2

伊達政宗公を祀る 青葉神社の例大祭に参列して参りました。

青葉神社のお祭りは春と秋、そして青葉まつりの三つ。
春は政宗公の命日の5月24日に、
秋は伊達政宗が中納言に任命された日を新暦に換算した10月9日に行われています。

朝、雨が降っていましたが例大祭が始まる頃には無事止みました。

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拝殿に入り、神主がお供えを終えた後、参列者も本殿に向かい一人ずつ玉串奉奠をいたしました。

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一通り終えた後、場所を移動して直会が行われました。

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境内では青葉神社通りまちづくり協議会のテントも出ていました。
ここでは東北工業大学の方が作成した一昔前の通町の町並みが展示されていました。

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ありがとう農学部

2016/10/30

雨宮キャンパス感謝祭が10月28日29日30日の3日間行われました。
これは東北大農学部が雨宮キャンパスから青葉山へ移転することになっているので、今までの地域の皆さんへの感謝を込めたお祭が行われたのです。

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この敷地は農学部以前から歴史があり旧制二高が片平から移転して来たのを始まりに一時期は宮城一女高が間借りした。農学部は昭和49年より、以降都会のオアシス的な存在でもあり緑が楽しめるスペースとしても市民に愛されてきました。

旧制二高当時に建てられた守衛所も現存しているのでどうにか残して欲しいです。

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また周囲には当時の赤煉瓦も残っています。

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色が違うのがわかるでしょうか。
新しい部分は寮の入り口だった所を塞いだものだそうです。
建物の中では昔の写真や説明が展示されていました。見にくる人も昔近所に住んでいた人や当時通っていた人など懐かしいという声が聞こえて来ました。

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また仙台の古いものが無くなる、悲しい。
古いものを壊すのではなく活用して町おこしができないものか。
そんなことを考えてしまいます。


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へくり沢にはもっと上流に源流があった

2016/10/29

柏木市民センターでの事業
「へくり沢ウォーキング」
今回で4回目です。ひとまず最後になります。
最初の1〜2回目は2015年の11月に行われれ、柏木市民センターから出発してへくり沢を下って広瀬川との合流地点まで歩くというもの。
3回目は6月に行われる、今度は逆に上流へと歩きました。出発は新坂の上にある知事公館からで春日神社の辺りまで行き柏木市民センターへ戻るというもの。

そして今回はこれまではへくり沢の下流部分を歩いたのに対して、「源流を訪ねる」と題しまして上流部分を初めて歩きました。

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参加した人数は定員の15名。

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まずは出発前に模型を使って予習です。

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いつもは最後になる春日神社から始まり今野さんも張り切って説明していました。

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ここは四ツ谷用水とへくり沢が交差する所なので、四ツ谷用水の洗い場跡を見学して、実際立体交差している部分の上に立ちました。
みんなが立っているのが四ツ谷用水の上で、2枚目の画面左側石垣が見え土地が下がっているのがわかると思いますが、へくり沢の滝の部分です。

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へぇ〜この下を四ツ谷用水が流れているのかぁ。

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へくり沢の暗渠部分は道が赤くなっていて赤道と呼ばれています。その赤道を辿って行きます。

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途中タコ公園で一休み?

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さらに歩くと国見小学校に着きます。

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道路に出てから国見コミュニティーセンターへ向かいます。

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信号の隣に花がお供えされていますが交通事故とかそういうものではなく疱瘡神様なのです。
もともと国見台病院の敷地にあったものの一つで病院を建てる祭、移動したそうです。

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背後の建物は国見児童館でここがその昔堤でした。つまりため池でここからへくり沢が下流へと流れて行くのです。

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ちなみにこのすぐ上の国見コミュニティーセンターも堤で2段階になっていました。

少し移動して福聚幼稚園の駐車場に来ました。ここから下を見ると地形が溝のようになっています。
これはへくり沢へと流れ込む支流でキツネ沢いうそうです。

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柵の右側の溝がキツネ沢になります。

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下の国見コミュニティーセンターから見た写真で正面の木の左側に側溝がありますがそこの場所を通って堤に流れ込んでいたと思われます。
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近くに仙山線の駅、東北福祉大駅がありその脇に道路が通っていますが、駅が作られる以前は芋沢街道と言って細い道が本道として使われていました。
それでも昔はバスが通っていたそうですが、今ではその街道を横切る踏切は人しか通れません。

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先ほどコミュニティーセンターと児童館の堤からへくり沢が始まると言いましたが、実は源流はもっと上なのです。
堤とは川を堰き止めてため池を作り農業用水として使っていたのです。ならばその先にもっと上があるのは当然です。

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芋沢街道の踏切を越えた少し先が本当のへくり沢の源流だったのです。
ここは昔の地名で一ノ坂、二ノ坂というそうで、今でもその名残が感じとられる建物の名前があるというのはとてもいいことですね。

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ということで今回はここで解散です。


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市電開業90周年

2016/10/29

東北工業大学の一番町ロビーにて市電の当時の写真展があるというので行ってきました。

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私も幼い頃のかすかな記憶を辿って懐かしく写真を見ました。
当時の行動範囲はとても狭く家からの数百メートルほどの範囲しか記憶にほとんど残っていません。
長町の駅や原町の駅などは見てもわかりませんが想像を膨らまして見ていました。

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2階ではスライドを見ながら説明と座談会があるというのでそちらも参加しました。
開業90周年の節目の講演は宮城野区で印章店を経営する庄子喜隆さん。
面白いエピソードのたくさん聞けました。

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座談会は庄子さんに加え仙台市博物館仙台市史編室長の菅野正道さんらを交え行われました。

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「柏木市民センターふれあいまつり」でへくり沢の紹介とパネル展示

2016/10/8

10月2日(日)に柏木市民センターで
ふれあいまつりが行われました。

我々へくり沢研究会(?)もこれまでの成果を地域の人たちに知ってもらういい機会です。

我々は4日前に会場の設営準備をしました。
今年の場所は大会議室の脇の奥の小会議室です。ちょっと奥まってしまったので人が来るか不安でした。

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通路の壁にはこれまでの活動として、立体地図模型からジオラマ、公募した市民とのへくり沢探索などを紹介するために私の書いたブログを展示してもらいました。

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小会議室の中にも様々な資料が置かれ、どれも興味深いものです。

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当日はたくさんの人がおまつりに訪れへくり沢のコーナーにも来ていただきました。
へくり沢の説明をするのみなさん興味深かげに聞いて下さいます。
設営側としてはそれが一番の喜びでした。

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へくり沢探索ツアー

2016/6/4

3年前から柏木市民センターではへくり沢について講座が行われてきました。
最初は3〜4回に分けて講師を呼んで講座がありまして、私はへくり沢に興味があったのですべての講座に参加しました。

【へくり沢おさらい】
仙台城下町の北西に位置する深い沢、現在の八幡町あたり。
そこにかかる橋を土橋といい、そこに通ずる道を土橋通りと呼んだ。
へくり沢はどこなのか、土橋はどこなのか、なぜ土橋通りと呼ぶのか、幾つかの疑問を持っていたところにちょうどこの講座があったので参加しました。
その後講座を受けた人の中から有志で昭和33年の仙台市の地形模型を製作し、翌年には今野さんの描いた絵を参考に八幡町界隈のジオラマを作製。いずれもへくり沢の地形が詳しくわかるものでした。

この事業は4年間と決まっているそうで、今年がラストイヤー。その集大成で完成直後まずは一般の方を迎え事業報告会、そして翌年の柏木市民センター祭りで来場者への披露及び説明、
さらに実際にへくり沢跡を受講者たちが今までの知識を元に市民(まち歩き参加者を募り)に説明しながら歩く事業を行いました。
すでに去年の11月に2度行っており、今回は3度目。

今回のスタッフメンバーは柏木市民センター小野館長と山内さん、有志メンバーより私の他、北波さん、三品さん、鹿戸さん、付き添いで青葉区中央市民センターのお二人。その他、春日神社待機組が今野さんと皆川さんです。

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今回6月4日に行われ、この日はとても天気が良く、良すぎて日焼けしてしまうほどでした。
前回の集合場所は柏木市民センターでしたが今回は知事公館です。

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ここはすぐ下に新坂という坂があります。新坂というからには新しい坂です。そしてそこへ向かう道を新坂通りと呼びます。
現在の新坂通りはそこから大学病院を越して北側に位置します。そこは新坂町がありますがそこから南には大学病院に突き当たります。
しかし本来なら大学病院ができる前は道があり、さきほどの新坂まで繋がっていたのです。
ちなみに大学病院ができて寸断された時は西側脇に新新坂通りが作られました。

新坂は新しい坂と申しましたが、これはへくり沢を渡るために元禄年間頃に新しく作られた坂という意味です。

館長さんの挨拶と北波さんの解説。

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まずは15人ほど参加者が集まり2班に分かれて出発しました。
最初は知事公館よりすぐ下にある東北で最古の板碑、澱橋不動尊。

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それについて一通り説明が終わると何やら隣の民家に移動してここには大砲の弾があると説明してくれました。
説明してくれたのはそこに住む方でした。何やら集まっているのを見てせっかくだからと庭の敷地に入れていただきました。他人の家なので本当は入っていけないのですがご主人自ら説明してもらい、思わぬ偶然にラッキーでした。この砲弾はロシア戦争の時のものらしいです。

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そこからへくり沢の河口にあたる地域を歩きました、ここは暗渠で現在、住宅地になっています。ちょうど尚絅女学院の裏の崖です。

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上の写真は下の写真の住宅の真ん中を通る道路を歩いているところです。

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とても深い崖になっていますが、普通河口でしたら浅く広がりをみせています。しかしその昔へくり沢と広瀬川は平行して流れていて、流れの速い広瀬川にその一部を取られてしまったのです。いわゆる河川争奪で途中からもぎ取られたため本来の河口部分が無くなり深い沢からいきなり広瀬川に流れるような形になったのです。

集落を抜けると壁にぶち当たります、この壁こそが土橋なのです。よく見るとジグザグにつたって上に登る道があります。国道48号戦から尚絅女学院へ向かう途中両側を見ると両側は深い崖のようになっています。つまり沢を横切るように道が走っているのです。

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土橋に上がってから疱瘡神を見学。
これは一見何でもないような石ですが、ここを工事した時に掘り起こされ、その後、実はたいへん古いものだと判明しこの場所に祀られたそうです。

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我々がここから移動しようとした際にここの町内会長さんが声をかけてきて疱瘡神について当時の事を話してくれました。掘り起こされ時は単なる石と思われ捨てられたのですが後から貴重な歴史的石だということがわかって一生懸命探したそうです。誰も見向きもしない石を一生懸命見ている人達がいたので声をかけたそうです。
当時の話を当事者から聞くのはとても貴重でした。

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土橋の反対側に周り、急な斜面を下りて行きました。ここもへくり沢の深い崖です。
その昔、戦前ここには旧制ニ高のアイスホッケーのリンクがあったそうです。
当時リンクを管理していた庄子さんのご子息がそこに住んでいてお話を聞くことができました。

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現在は建物が建っていますがそこにリンクがありそこに張った水はへくり沢の水ではなくもともとは四谷用水の水だったのだそうです。四谷用水とへくり沢が交差する春日神社の掛樋から12月の5日間朝の8時から夕方の5時までへくり沢へと解放したのです。そしてリンク使用中、へくり沢はリンクの下を流れていたらしいです。

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なぜここにリンクを作ったか?ここはスペースがあり深い沢で日陰なので氷がなかなか溶けにくいことが理由にあげられます。
大きさは30m×60m、これらのことは尚歯会の文献に残っているそうです。

このあとへくり沢の暗渠に沿って遡り石切橋まで移動しました。

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ここまでくるとへくり沢はある程度細く浅く、渡りやすくなりこの橋を通って昔の人は西側と東側の往来をしていました。
逆に言えばここしか橋が渡せず、中島丁の侍もみな遠回りをしてここを通ることになります。
ここは昔の欄干の名残があります。

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春日神社に移動して待機していた今野さんが説明をしてくださいました。
社殿の中に掛けられた今野さんが子供の頃の昭和15年頃の記憶をもとに本人の描いた八幡小学校界隈の絵図を見ながら、説明を受けました。質問も多く出てなかなか終わらなかったようです。

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春日神社の社殿より参道入り口の鳥居までいくつか段差があり、その途中を四谷用水が横切っています。神社より東へ30mほど行くと昔四谷用水の水を使って洗い物をしていた洗い場跡があります。

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今回はへくり沢がメインなのでいったん戻り、いわゆる赤道(あかみち)となった暗渠を辿ります。この赤道は春日神社脇の四谷用水と交差するところから国見小学校あたりまで続く遊歩道になっています。

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交差の場所はあの「プラタモリ」でタモリさんも訪れたところ。

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赤道をしばらく進み、道は更に続くのですがタコ公園のところで右折して土橋通りに出て柏木市民センターへと向かいました。
市民センターに着いて総括をしたところで解散。

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ひっそりと佇む弁財天と梅田川の源流

2016/6/3

4月22日に国見ヶ丘にある弁財天でお祭りがあるということで、
普段閉まっているお堂の中が見れるかもと思い行ってみました。
時間の都合上、朝早い時間に訪れたところ
幸いにもすでに祭りの準備は整っておりお堂も御開帳されていました。

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中には綺麗な観音様とその両隣には歴代の僧侶のリアルな像が2体安置されていました。

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ここは仙台市の有形文化財に指定されており、臨済院敷地の奥は公園として整備されています。その中には歴代僧侶のお墓もあります。

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立看板内容によると

「仙台市指定有形文化財(昭和62年9月11日指定)
臨済院は、元禄14年(1701)に仙台藩四代藩主伊達綱村により開基された黄檗宗寺院である。この弁財天堂は、三間四方の宝形造で頂上に露盤、伏鉢、宝珠を載せ、向拝部には虹梁など江戸中期の様式的特徴が認められる素木造の簡素な建物である。堂内には、
彩色の弁財天座像を安置している。
かつては大寺院であったが、現在はこの堂のみが残り、茅葺であった屋根を昭和63年の解体修理工事の際に銅板葺とした。解体時に屋根裏から「宝永」と記された棟札とみられるものが発見されたことから、建築年代は宝永年間(1704-1711)と考えられる。
周辺は、歴史公園臨済院公園として整備されている。
平成11年2月 仙台市教育委員会」

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黄檗宗に傾倒した第4代仙台藩主伊達綱村公が元禄14年に角五郎丁に作らせたのが始まりで、その後第5代藩主伊達吉村公により正徳5年に吉成へ移されたそうです。
吉成という地名がいつからあったのか、ここの国見ヶ丘のことを指しているのかはわかりませんが。
明治に入り廃仏毀釈でそれまで寺領と藩の保護を受けてきた臨済院は檀家を持たないため廃寺となってしまいました。

その後、弁財天堂のみが残り地元の人達に守られてきました。

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そしてお祭りは毎年4月22日に行われているそうです。
なぜ4月22日にお祭りかと地元の人に尋ねたら由来はわからないがずっと昔から曜日にかかわらず決まってその日に行われてきたそうです。

弁財天はもともと弁才天だったのが財と音が似ていたことから財宝神として現在のように弁財天と書かれるようになったとか。



弁財天堂の周りには小さなお堀のようになっており水が張っています。また裏側には小さな池があります。
水は赤く鉄が錆びたような色です。

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実は七北田川に合流し海に流れている梅田川の源流がここなのです。
北仙台駅の北側の堤町は昔堤(池)がありここから採れる土を使い堤焼を作っていました。
赤茶けた色はこれと共通しているのではないかと思います。
また、中山のうどう沼公園の奥の湿地帯も同じよな赤い土、赤い水なので直接川で流されて下流に行ったのではなく同じ土の層なのでしょう。

ちなみに私なりに弁財天より梅田川の開渠となっているところまでどのようになっているのか辿ってみました。
あくまでも推測ですが。
【写真奥が弁財天】

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そのまま手前に進むとサンクスの脇に出る(傾斜的にも妥当なのかなと)

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そこからさらに道路を横断して向かいのクリーニング店の脇を進む

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【この下を流れているのかと思わせるマンホール】

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そして福祉大の敷地へ入る

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と思いましたが、やはり国見ケ丘2号緑地を経由して梅田川へ流れるのが順当なのか、
分水嶺は実際歩いてみないとわからない。

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コメント (2件)

  1. バッケ より:

    この記事を見つけて感動しました。
    時折、巳の日に参拝してて、案内文にある「彩色の」を目にしてからは、いつかお目にかかりたいと、御開帳の日があれば知りたいといました。
    1度、いらしたご近所らしき方に尋ねたときは祭りが近くなるとのぼりが立つとのお話で機会を探っていましたが、今年は既に過ぎた模様。
    でも、画像をあげてくださって、願いがかないました。
    お祭りの日もわかることができました。

    お手水場には小さい竹ざるがあり、前はなかったので水面の汚れとりと思いましたが、後から違うのに気づきました。
    手に取って銭洗いをする者に便利です。
    ご厚意で置いてくださって地域の方々のお心を感じられる場です。

    余談ですが、弁財天様は近場で探した事があって、新坂通りの交差点角の荘厳寺を訪れた事があります。本堂後ろにお堂がありました。

    梅田川は貝ヶ森小学校近くの橋のところが人の手が入らずにあり一番好きな眺めです。
    山手町の辺りでは流れに沿って遊歩道があり、歩いてると飛石がありました。
    七十七銀行の近くでは魚が泳いでたことがありました。
    水源を辿ると弁財天堂から先がわからなくてここなのかなで終わってました。
    やはりそうでしたか。

    1. admin より:

      バッケさん
      御開帳の日は私もたまたまネットで見つけて、当日を待って足を運びました。

      梅田川は北山トンネルから出たところの橋の下には今も大きな鯉が泳いでいますよ。

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仙台北法人会青年部会のメンバーが四ッ谷用水について学びました

2015/11/27

経営者の集まりの団体という仙台北法人会青年部会の事業で「四ッ谷用水を辿る会」を実施ました。 青年部会は特に30〜40代のメンバーが多い中で仙台郷土の歴史に興味はあれど触れることはなかなかないので今回の事業はとてもいい機会だったのではないでしょうか。 講師に「仙台・水の文化史研究会」の会長を務める柴田さんを始め3人の方にお願いしました、我々メンバーは二つの班に分かれて説明をしていただきながら四ッ谷用水の暗渠を歩きました。
スタートは大崎八幡宮のちょうど二之鳥居をくぐってすぐの太鼓橋からで、ゴールは北六番丁の茶室「六幽庵」までの四ッ谷用水の暗渠を辿りました。 太鼓橋の下も四ッ谷用水がが流れています。 私は以前にも何度か四ッ谷用水を歩き、ある程度知っているつもりでしたが、青年部会メンバーと一緒に歩くことができて、また新鮮でした。
フェンスの向こう側が四ッ谷用水です。現在は仙塩工業用水道導水路として使われています。
下の写真の歩いている左側が暗渠になります。
正面の緑の柵の左側の歩道が暗渠です。不自然な道幅になっています。
正面の建物はブラタモリにも出たところです。
上の写真の正面のアパートの向こう側から下の道に降りました。 ここ石切町にある瀬田谷不動尊は石切職人の神社でここで職人たちが踊った踊りが雀踊りの由来となったそうです。
石切町はその昔仙台城の石垣を造った石垣衆の屋敷があったところで、今も小梨石材店などがあります。
ちなみに写真の小梨石材店は盛岡から来たそうで、比較的新しい石屋さんなのだそうです。(もちろんかなり古くからあります)
築城当時から残っている石材店は48号線沿いにある黒田石材店だそうです。
春日神社の参道にある昭和15年ころ当時を思い出して近所に住む今野氏が描いたこの付近の絵です。 これをもとにジオラマかした模型が柏木市民センターに展示されていますので興味のある方はぜひご覧ください。
この先の春日神社の前を四ッ谷用水が横切っています。
上の写真の鳥居をくぐり階段を上ると境内との境目に四ッ谷用水が流れていて、その暗渠の上を歩くことができます。これを東に少し移動したのが下の写真。
これが四ッ谷用水へ降りる階段跡になります。住居の土地から四ッ谷用水までの高さが少し伺えます。ここで洗い物をしたのでしょうか?
春日神社から階段跡の途中に南に向かう第一支流跡がありました。この塀の向こうの直線的な通路がそうです。
土橋通に第二支流がちょうど歩道のあたりに流れていました。
写真は土橋通に面する宮城県看護協会で、ここがその昔伊達綱村公のお飼鳥屋敷跡でした。最近まで当時の松が現存していましたが今は病気で切られ切株のみがあります。(グーグルマップのストリートビューでさかのぼると松の木が確認できます。https://goo.gl/VZucW4
ここから東へ向かい北六番丁を歩くわけですが、四ッ谷用水はまだ道路の少し上を流れています。 下の写真の奥に見えるのは林宅寺へ用水を渡る石橋です。この写真を撮った辺りが(北六番丁の)通りの高さのピークでそれを過ぎたところ(となりの建物)で北六番丁通りへと降りてきます。
林宅寺となりの建物前の部分を通り道路へと合流します。
ここが合流地点。
ここは支倉堀と言って東北大学構内にあり、一部保存されています。四ッ谷用水はだいたい南側の仙台中心部へと支流から流れていくのですが、ここは珍しく北側へと流れていきます。
最後六幽庵に到着して、せっかくなので庭園を一周見て回りました。 六幽庵は仙台市の茶室ですがさまざまな用途で借りることができます。
もともと仙台市内の建設会社の橋本店から仙台市に旧橋本邸離座敷を「茂ケ崎荘」とともに寄贈されたもので、昭和33年(橋本店ホームページより)仙台市立第二中学校の北側の仙台市長の官舎脇に移築されました。
しかしながら残念なことにさほど使われることなく建物も朽ちて、また官舎に市長も住むことがなくなってしまったので平成に入り解体されたそうです。 そして平成3年に新しく生まれ変わって市民の憩いの場として建てられました。仙台市管理のもと市民に貸し出しがなされましたが、これもまた残念ながら存在があまり知られていないために十分に活用されていなかったようです。 そこで最近になり第3木曜日を一般無料公開日として利用を広めるよう力を入れています。 街なかにひっそりと佇む空間として心が落ち着きます。ぜひ足を運んでみてください。
お抹茶と菓子をいただき一息ついたところで柴田さんの貴重なご講話をみんなで聞きました。
立礼室(りゅうれいしつ)という外履きを履いたまま入れる部屋で行いました。
参加したメンバーは初めての体験でとても満足していたようです。
これからは街を歩いていても見る場所がきっと違ってくると思います。
最後にご協力いただいた「仙台・水の文化史研究会」の皆様大変ありがとうございました。 感謝申し上げます。

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白松がモナカは旅館業だった

2015/11/2

青葉区木町通一丁目、仙台市立木町通小学校の裏側(西側)の通りに晩翠亭いこい荘という旅館がある。なんでもミシュランジャポンに載ったそうです。
他の人から見ればうちもそうかもしれないが、 なんでこんなところに旅館があるのかあるのか不思議で仕方がなかった。
旅館などの立地は温泉などの観光地あるという一般的なイメージ。街なかでアクセスも便利ですが特に観光地が近くにあるわけではない。(でも見るものはたくさんありますよ)
ここだけではない、仙台市内でもなんでこんなところに旅館がと思うところはよくあります。


話は変わりますが、
白松がモナカの大学病院前店が白松がモナカの第一号店と聞いています。
ではなぜなぜこんな場所に始めたのか?
店名の通りすぐ近くには東北大学の付属病院(通称:大学病院)があり、
お見舞いに行く人がそこでモナカを買って持っていくということを見込んでということは
簡単に察しがつきます。


下の写真2枚は道路拡張前の白松がモナカ大学病院前店です。
おかちゃんさんのブログよりお借りしました。


詳しく白松がモナカの社長に尋ねたところ、戦後初めての店はやはり大学病院前店(現在より北にひとつずれたところ、北四番丁大衡町線の道路拡張のため現在の位置に移動)で、
それ以前は、同じ場所で下宿屋を購入して旅館として営んでいたそうです。


実は昔は、いこい荘 の近くに森末旅館がありました。ここは森公美子さんの実家でのちにホテルニューモリスエ、そしてホテルセントキャッスルと名前を変え現在ではマンションが建っています。
その他にも本田旅館(確か小学生の頃まであったと思います) や、
大盛館などの旅館が数軒ありました。

真ん中のマンションが元森末旅館の場所
この昭和20年代~30年代の木町通商店街の地図を見るとそれぞれの位置がわかります。ちなみにいこい荘は掲載されていませんが、創業昭和39年ということなので現在の場所からみると福寿荘の後に建てられたものと思われます。
遠正文具店(赤下線)は現在、大学病院向かいの角のビル1階にあります。
大林商店(赤下線)はダイリンと読んでいわゆる10円駄菓子屋さんで、小学生の当時は大変お世話になりました。


昔は交通の便が悪いく、遠方からの患者等は時間をかけてやってきて遅い時間に着き、その晩は病院の近くで泊まり次の日朝早く病院に向かう人が多かったということです。

つまり大学病院周辺の旅館はみな、遠方からの患者等が仙台に来て次の日の朝早く診察を受けるために泊まるための施設だったのです。

いこい荘はその当時からではありませんが、大きな流れとしてその名残りと言えるのではないでしょうか。
そして今では仙台中心部へのアクセスも活かしながら丁寧で細かなサービスを提供することによりいこい荘はミシュランジャポンに載ることができたのでしょう。

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