仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

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「四ツ谷用水遺構を歩いて辿る会」その1

2012/10/24

10月24日 「四ツ谷用水遺構を歩いて辿る会」というものに参加してきました。 この会のことはたまたま通った六幽庵の前の掲示板で情報を得ました。 さっそく応募しましたが、 なんと定員15名のところ60名ほどの応募があったそうです。 いったいみなさんどうやって知ったのでしょう?先日のNHKで四ッ谷用水を特集したこともあり応募してきた方もいらっしゃいました。 とにかく60名中急きょ増員した21名の一人に選考されました! 朝の10時より15時まで有意義な時間を過ごすことができました。 集合場所の大崎八幡神社の太鼓橋前へと。 さすが晴れ男、昨日の雨が嘘のよう! 60代~70代の方がほとんどでしたね。 四ッ谷用水は伊達政宗が岩出山から仙台へ移った時に城下の人々が生活できるように整備したもので、郷六村の広瀬川から水を引いてきて、その水は城下を駆け巡り梅田川やもとの広瀬川へと流れていきました。 その用水は人々の生活用水として、火消しのため、作物栽培のためなどに使われました。 現在は本流のみが工業用水として今なお使用され、四ッ谷用水はコンクリートで覆われほぼ暗渠となっています。 太鼓橋から見た四ッ谷用水 今回の主催は仙台市ですが、協力として 仙台・水の文化研究会 「四ッ谷用水の水を街並みに!」市民の会 仙台リバースネット・梅田川 水・環境ネット東北 の方々が同伴してくださいました。 人数が多いため3グループ(よグループ、つグループ、やグループ)に分かれ、説明を聴きながら移動しました。 我々の「つ」グループには仙台・水の文化研究会の阿部義明さんがついてくださいました。 それでは出発!


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北目城と北目町

2012/9/1

現在の仙台市太白区郡山にあった北目城。 現在は鬱蒼とした雑草が生い茂っている一部の土地が北目城跡として残っているが、ご覧のとおり外からは何も見えないのが残念だ。(鹿又交差点手前) この城はもともと豪族粟野氏の居城だった。寛正年間に茂ヶ崎城(大年寺山あたり)から移城した。 そして天正19年(1591)伊達政宗に敗れ支配下となった。 この時の北目城攻略の逸話で毘沙門天の話がある。 政宗が兵を送ってもなかなか落ちなかった北目城、粟野大膳が毘沙門天を篤く信仰していてそのご加護のせいだと考え、政宗も毘沙門天に「もし北目城を落とせたなら、城下に毘沙門堂を建てて厚く奉じよう」と願った。 その甲斐あってみごと勝利を収めた政宗は自分も同じように敵から毘沙門天に願をかけられては己が危ういと、約束を反古にして毘沙門天の像を堀に捨ててしまったという。 それを憐れんで町の人たちが毘沙門天を拾って祀ったのが荒町の毘沙門天堂といわれている。 ちなみのそこに祀られている毘沙門天様を拝見するには12年に一度の寅年に行われるお祭りの日しかないのだという。(お祭りは毎年行われている) 残念ながら私がそれを知ったのは寅年が過ぎたばかりであった。しばらく待たなければならないのだ。 北目城はその後伊達政宗が慶弔5年(1600)関ヶ原の戦い前哨戦の白石攻城の際の拠点となり、 そして戦後も岩出山には戻らず北目城にて仙台築城の構想を練った。 その後、村民は仙台城下に移り住み、その場所が現在の北目町だそうだ。
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政宗歴史塾

2012/8/4

8月3日 瑞鳳殿にて政宗歴史塾なるものが開催されました。 こういった会はたしか3~4回目で一般者を対象にしたのは今回が初めてだとか。 (これまでは子供たちを対象に歴史に親しんでほしいという趣旨だったようだ) そして今回は定員30名で抽選の結果ラッキーなことに選考され参加してきました。 10:00から始まり最初の一時間は瑞鳳殿に併設されている旅館 天龍閣で講義を聴き、 残りの一時間は涅槃門から瑞鳳殿まで移動しながらいろいろと説明を聴きました。 講義の題名は 「伊達政宗 最期の日々を追う」と題し、亡くなるまでの約5ヶ月間(寛永13年1月~5月)の行動や言動について紹介しそこから政宗はどんな人物だったのかというのを知りました。 自己の健康管理には人一倍気を遣っていた政宗だったがいよいよもって己の死期が近づいたことを悟ると周囲の家臣をいたわりながらも息子忠宗の代になっても引き続き盛り立ててほしいと頼んでいた。 また徳川家に忠誠をたてる政宗は参勤交代の時期が近付いているが自分の体力が持つうちにと時期を早めて仙台を出発し、死ぬ前に徳川将軍(家光)に別れの挨拶をしたいと望んだ。 参勤交代出発の前にホトトギスの鳴き声を聴こうと経ヶ峯へ来た時に 「自分が亡くなった後はこのあたりにいるのがふさわしい場所である」 と自ら墓所とすべき場所を杖でさした、この場所が今の瑞鳳殿の場所である。 江戸に着き家光に挨拶した後、屋敷で療養していた。 家光が医師を政宗のところに遣わせたり、手厚い対処をしていることもあり多くの諸大名たちが屋敷に見舞いに来た。 病床に伏していた政宗は見舞いに来た客人に対しいちいち着物に着替え身だしなみもきちんとして出迎えた。心配した家光にも無理をするなと言われたが政宗は 「仙台藩主として身分をきちんとまっとうして身分がきちんと続くようにと思っています。将軍様をないがしろにするわけにはいきません。…」と答え、 自分が死んでも仙台藩の地位が変わらないようにと政宗の心遣いが感じられる。 江戸にいる妻の愛姫にも会おうとしなかった。愛姫は弱った政宗のそばにいたいと願ったが政宗は「あなたは仙台藩の主君の母君だから、軽々しくふるまうのは品格がある程度の人までだ。」と武士としての品格と次の藩主を見据えた考えを示してる。 政宗の最後 5月24日 根っからの戦国武将だった政宗は戦で死ぬのが本望、このように床で死ぬのは無念と悔やんでいた。 未明に目をさまし、いよいよ死を悟った政宗は体を起こしてもらい髪を整えてもらい、安座して西の方角に合掌しながら死を待ち、そのまま一時気を失い、そしてハッと目を見開いてそのまま息を引き取ったという。 最期まで武将らしい死に方をした政宗だった。 よく伊達政宗は派手好きだったといいますが、政宗は武士の格式を重んじ徳川家に忠誠を示すことで仙台藩の安泰を願い、家臣たちのこと思うとても優しい方だったとうかがえます。 どうして戦に派手な衣装を着たかということに関してはあとで調べたいと思います。 講義の後は外へ出て瑞鳳殿内をあるきながら説明を聴きました。 もともとここは根岸村といい政宗の死後瑞鳳殿を建ててから城下に入ったそうです。 ここ経ヶ峰は名前より僧が修行する聖なる山だった。 ここの階段は伊達六二万石になぞらえて62段あるそうです。 涅槃門は黒漆が塗ってありには菊の紋章が施されているがこれは天皇の菊の御紋とは違う、 秀吉より拝領したものだという。 他にも伊達家の家紋はおなじみの竹に雀、三引両、九曜紋などいくつもある。 そして門の上には伝説の生き物、麒麟が彫刻されている。これは仙台藩の安泰を祈願したもの。 (ブレてしまいましたが) ところでいつもこの門は閉じられ、入り口は脇から入るのがなんでか不思議でしたが、 涅槃門をくぐるということは「 煩悩を去って悟りの境界へ入る」という意味なのでわれわれはわきの入り口をくぐって入るのが正しいということである。 そして門をくぐると急な階段がありその両脇には石灯篭がいくつかある。 この石灯篭はのちに家臣より献上されたものであるがその中には片倉小十郎や茂庭周防、奥山大学などがいた。 瑞鳳殿に施されている動物の彫刻などはすべて阿吽の対になっている。 例えば… 龍 獅子 鳳凰 そして有名な竹に雀も実は(逆)阿吽である。 そして瑞鳳殿の両脇には塔がいくつか建っています。 当時の風習として主が無くなると側近の家臣があの世までお仕えしたいと殉死することがありました。 これは宝篋印塔(ほうきょういんとう)と言って、ここには大きいものが15、小さいものが5ありその人たちを奉ったもので小さいものは家臣のさらに家臣、つまりそのものも自分の主とともに殉死したということ。 これは2代目藩主忠宗の時は16名で、綱宗の時には武家諸法度で殉死禁止令が出ていたのでありませんが、断髪でこれに代わる行為としたようです。 一折説明を聴き終え、最後に伊達18代目の泰宗氏よりお話を聞くことができました。 こんな間近で見れるなんてうれしい! 今回初めて参加しましたがとても勉強になり、また興味が湧いてきました。 とても面白かったです。機会があればまた参加したい。
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土井晩翠の「土井」って「どい」じゃない?!

2012/7/27

青葉通りに面したところに「晩翠草堂」という建物がある。 ここは土井晩翠が晩年暮らした家で、現在は無料で中を見学することができる。 今まで入ったことはなかったが近くで用があったのと気になっていたのとで足を運んでみた。 屋敷内はさほど広くない、しかし展示してある模型を見ると裏にも建物があるらしく公開してるスペースが手前だけなようだ。

庭はある程度の広さがあり外には出られないもののゆったりとした眺めが楽しめる。 見学できる屋敷内スペースには晩翠が亡くなった当時のベッドと布団がそのまま奥の部屋に置いてあり、 その他は正直これといって展示物はあまりない。

しかし仙台の誇る偉人、もちろん会ったことはないがここに暮らしていたんだぁと思うと感慨深い。
ところで案内してくれたのは60~70代の男性の方でしたが、最初にある程度の説明をしてくれてあとはCDを流して録音の説明(2分ほど)に切り替わり、そのあとは自分でいろいろ展示物を眺めるといった感じでした。 さっと見て帰ろうとしましたが、展示してあった年表に北鍛冶町(現木町通二丁目)の質屋に生まれるとあるのをみつけました。

うちのお店(熊谷屋)は生家の真向いにあり当然、土井晩翠が生まれたところであるということは知っていました。(昔は晩翠荘という古いアパートがあったんですよ) しかしそこがもともと質屋だったとは初めて知りました。
そこで先ほどの案内してくれた方にお話を聞くといろいろな話をしてくれました。
…あそこは北鍛冶町でもともとは鍛冶屋だったのではないか、当時の屋号が鎚屋(つちや)といい、 そのうち苗字になり鎚が土に代わり土屋となり、そして土井と変わっていった。
そもそもいまでこそ「どい晩翠」と言っているが本名は「つちい」読むのだと。 ところが東北弁で訛って「つつい(筒井)さん」と聞こえたり、そのまま字面から「どい」と読まれることが多かったのである時を機に「どい」と読ませるようにしたとか。 しかも名前を変えたのは昭和9年(違う説もあるがあえて)からで生涯のほとんど終わりの方だけだったのです。

現在の晩翠草堂は見たままの広さですが、もともとはとても大きな敷地だったそうです。 隣接するビルはもとより奥州街道を超えてまでも土地はあったそうです。

北鍛冶町で質屋をしていて、ちょうど侍がお金を工面するのに刀や着物を質に入れ無ければならないという時代背景もあり質屋は古物商で潤い、事業を拡大するために大町の辺りに引っ越したそうです。 その際晩翠は現木町通小学校から立町小学校へと3年生の時に転校しました。 その後今の晩翠草堂にあった3階建の旅館を買い取りそこを住居としたそうです。
とても大きな旅館だったらしいですね、 しかしながら戦争で焼けてしまい、その際書物も全部焼けて、何も無くなり晩翠は失意のどん底にいました。 その晩翠を慰めようと、教え子や市民が有志で昭和24年に建てた家が、この「晩翠草堂」。
しかしながら戦後の区画整備でかなりの土地を削られ現在の大きさとなった。 その好意もむなしく前年の昭和23年に妻に先立たれ、亡くなるまでのたった3年間だけほぼ一人で住みそのままここで息を引き取ったという。


今まで他の人より身近に感じながらも土井晩翠=「荒城の月」、木町通小学校の校歌、それと生家が目の前ぐらいしか知りませんでした。 生家がうちの前にあったなんてどのくらいの人が知っているだろう?多分ほとんどが知らないと思う。 あそこに仙台市で碑を建てるべきですよね!と説明してくれた案内の方と同意見!! いろいろお話を聞いてへぇ~と驚くことがたくさんでした。
みなさんもお寄りの際はただ見るだけでなくお話を聞くことをおすすめします! 土井晩翠の生家のあった場所 (薬屋さんから駐車場を挟んで隣の商店までとその奥)  


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コメント (2件)

  1. 晩翠ファン より:

    兵庫県在住の、城下町などの歴史・地理が好きな還暦男です。
    晩翠草堂や立町小学校の晩翠資料室等で尋ねても、晩翠の生家の正確な場所が分からず、
    別件もあり、今日、市役所の観光課へ出向くと、このブログのコピーをいただき、午後に現地と熊谷屋さんへとたどり着きました。
    (御餅とお菓子、美味しかったです(^○^))
    観光課には、ここに碑を建てるべきと言っておきました(^_^;)。
    晩翠が、小学3年生でなぜ転校するのかも、疑問でしたが、貴殿のブログを拝読し納得できました。
    ありがとうございます。

    1. admin より:

      晩翠ファンさん コメントありがとうございます。観光課の方と同意見で晩翠の生家に碑を建てるべきだと思います。
      現在この辺の地域のまちづくり協議会がまさに始まろうとしておりますので、そこで提言していきたいと考えています。
      今後ともよろしくお願いいたします。

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遠見塚古墳

2012/6/19

古墳といえば「仁徳陵古墳」などが有名ですが、仙台にも立派な前方後円墳があるんです。 それが若林区にある「遠見塚古墳」です。 国指定史跡 遠見塚古墳 仙台平野の真ん中、南小泉遺跡(弥生・古墳時代の集落跡)の中に造られた全長110mの前方後円墳で、東北地方では第3位の規模をもっている。  古墳の形式、構造、出土遺物から見て、4世紀末~5世紀初めごろの墳墓と考えられ、東北では2番目に古いものである。被葬者は当時、すでに強力な政治、経済力を持ち、畿内との関係を保ちながら、広く仙台平野の王として君臨していたことを示す遺跡である。(史跡説明板より) 石碑の向こうに見える地表のふくらみが古墳で左奥が円形部分で、右手前が方形部分です。 さらに円形部分に上るには階段がありますが、これは当然後から設置したものでしょう。 上から下方を見下ろした写真です。 上空から見るとしっかり鍵穴の形をしてますね。 ここは古墳がど~んとあるだけで他に何があるわけではありませんが、 こうして古墳の土に手を当ててみると4世紀からの壮大な歴史が感じ取られるような気がしてとてもわくわくするのは私だけでしょうか? 実はここに古墳があることは以前から知ってはいましたが、なかなか見に来ることが出来ませんでした、 またみなさんも同じように知ってはいたものの見たことないという方は多いと思います。 でも一度でいいですから、来てみてください、なんか現代の世の中でせわしなくしている自分がとてもちっぽけに思えて、そして約16世紀もの間ここにこの古墳が存在していたことを感じとれるでしょう。 すぐとなりにある遠見塚小学校に続く桜並木もその季節になると綺麗なのでしょうね。 ここの児童がうらましい。(4月初めに撮影)
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「仙台藩の御家騒動 寛文事件を追いかけろ!」

2012/4/30

先日の土曜日、4月28日に仙台市博物館にて しろ・まち講座 「仙台藩の御家騒動―「伊達の黒箱」を紐解く」 というものをやっていたので拝聴してきました。 いわゆる伊達家の御家騒動について以前調べてみたのですが、なんか複雑でいまいち理解できませんでしたが、やはり耳で話を聞くのが一番! 13:30からの講演でしたが13時頃に博物館についたら駐車場がほとんど満車でした、 おそらく天気もいいし周辺の桜もきれいなので皆停めているのだろうと思いながらも、なんとか空きスペースを見つけ駐車することが出来ました。 館内に入ると、会場は一階受付向かいにある小さいながらも3~400人は収容できそうなホールで、なんとすでにほぼ満席状態でした。(駐車場が満車なのも納得) 幸いにも前から4列目のD-8(真中はD-10)の席に座ることができました。(ほぼ前列正面) 写真のように早くからほぼ満席で別の会議室も使用したそうです。 見た感じ私よりずっと年配の方がほとんどでしたがその関心の高さには正直びっくりしました。 講師の博物館学芸員、坂田 美咲さんのお話はお若いのにとてもわかりやすく説明してくださりとてもよく理解できました。 伊達家の御家騒動については後日もう一度復習をしてから簡単に当ブログで説明をしたいと思います。 講演後は同館の企画展の「仙台藩の御家騒動 寛文事件を追いかけろ!」の展示を見て回ったのですが、あまりにじっくりと見過ぎて時間が無くなり結局途中で博物館が閉館になってしまいました。(涙) しかしながらまだ6月10日までやっているので必ずもう一度行くつもりです。 博物館の情報資料センターではいろいろと(図書館までとは行きませんが)郷土史関連のものがいろいろ見れてとても勉強になります。 係りの人に見たい資料を尋ねるととても親切に探してくれました。 博物館なんて正直小学校以来きたことなかったし、あまり興味もなかった。 でも今回久しぶりに来館しとても面白いところだというのを思い知らされました。 毎月通ってもいいぐらいの勢いです(笑)←本当に! 今回なぜ伊達家の御家騒動に興味をもったかというと自分の子供が通っている保育園の隣にある荘厳寺の門、通称逆さ門の由来がそこから来ていたからです。 みなさんも是非、仙台市博物館へ足を運んで郷土について興味を持っていただけたら私もうれしいなと思います。 仙台城三の丸跡にある仙台市博物館

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