年表


元禄時代、台所の味を越える駄菓子を創意工夫

伊達藩政宗が岩出山より家臣団をつれて移り、仙台に城下を築いたのは慶長5年(1600年)のこと。

それからおおよそ100年後、城下は活気のみなぎる元禄時代を迎えていた。

元禄八年、熊谷屋初代治三郎、駄菓子を考案【初代】


【元禄八年、熊谷屋治三郎30歳の時、駄菓子を考案、菓子屋を創業】とは、熊谷屋伝来の古文書に書かれていたことであった。この古文書は昭和20年(1945年)の戦災で焼失してしまったが、記述に基づけば、治三郎は寛文5年(1665年)の生まれということになる。


駄菓子はもともと、町屋や農家の台所で、くず米などを材料に工夫され生まれたものだったのだろう。それが、一つの商売として成り立っていくためには、時代的背景があったはずである。元禄時代、江戸、大阪、京都などでは商品経済が活発となり、さまざまな商品が仙台にも流入し始めた。”買う”暮らしが庶民にも少しずつ浸透し、それは取りも直さず商人が力を持つ時代の到来を意味していた。そんな中で、進取気風あふれる治三郎が、台所の味を越える駄菓子を創意工夫してつくりあげた、とそんな想像ができる。

松尾芭蕉が奥州紀行仙台を訪れて、6年後のことであった。





仙台藩の茶道文化と菓子の発達

伊達政宗は、すぐれた武人であると同時にまたすぐれた文人でもあった。

千利休、古田織部らと交わり、織部の高弟清水道閑を藩の茶道頭として招いたことは、
この地に茶道文化を育てるための基礎となった。

こうした茶道文化とのかかわりの中で菓子が発達していったことは容易に推測できるだろう。


熊谷屋のある北鍛冶町(現・北四番丁界隈)は町人の町【二~四代頃】


正保2~3年(1646年~1647年)ころにはすでに、仙台の城下町は侍の住む「丁」と町人の住む「町」に明確に区別されていた。当時の資料「仙台萩」「封内風土記」「城下町敷並屋敷書上」「奥陽名数」などから町人町の屋敷割りはすべて間口6間、奥行き25間という細長い地割であり、これは現在この界隈を歩いてみても大いに実感できることだ。


資料には軒数52となっており、52軒の中には熊谷屋が含まれていたと考えられる。

少し時代が下がって文化年間(1804年~1817年)の資料に、界隈の商人たちの商売の様子がある。

「塩・七」「五十集店・五」「五十集振・一」「飴菓子・三」「干肴・四」「桶・二」「辻麻振・一」

とあり、この「飴菓子・三」の内の一軒が【四代目治三郎】の切り盛りする熊谷屋であったと思われる。





江戸時代の砂糖

将軍吉宗は、国内の砂糖生産を増強するために、輸入を制限し、江戸深川に製糖所を設けた。


当時の熊谷屋が、貴重な砂糖を入手することは大変だったと察せられる。【五代頃】


わが国に砂糖をはじめて伝えたのは、唐の僧侶、鑑真だったといわれている。

天平勝宝6年(754年)孝謙天皇への献上品の中に砂糖が記録されている。

以降、江戸時代に入っても主に薬として扱わるほどの貴重品であった。


すべて輸入に頼っていた砂糖が国内で生産されるようになったのは、江戸時代末期になってからである。製造法は慶長年間(1596~1615年)に奄美大島に伝えられたのが最初である。将軍吉宗は、国内の砂糖生産を増強するために、輸入を制限し、江戸深川に製糖所を設けて砂糖の製法を諸藩に学ばせた。こうして江戸末期には、壱岐、阿波、土佐、河内、などでも製糖が行われるようになった。

こうした砂糖の国内生産と歩調をあわせるように菓子も発展をとげっていったのである。

仙台藩では白砂糖の使用は上菓子に限って許され、駄菓子など一般の菓子屋が使うのは黒砂糖のみであった。当時は閖上(ゆりあげ)や荒浜から少量の荷揚げがあるほかは、「西回り海運」によって酒田から最上川を通って、城下に運ばれたようである。





文明開化の中で

仙台は貧窮の中で幕を開け、封建制度の解体など新政府による改革を経て、

やがて文明開化の中で暮らしを充実させていった。


明治38年(1905年)頃、仙台市内の駄菓子屋の数は292戸と記されている。【六~七代目頃】


明治に入ると輸入砂糖の増加もあって菓子屋の数は増えていった。駄菓子屋も増え明治20年には最も充実した時代を迎えている。


石橋幸作氏は「明治時代の菓子屋の変遷」の中でそのころの駄菓子屋の大商店として【長町の南部屋・杉の下の浅部屋・穀町の柳橋屋・南鍛冶町の蛸屋・荒町の京屋・柳町の庄司屋・南町の伊沢屋・南小泉の江刺家・北鍛冶町の熊谷屋(現北四番丁界隈)・八幡町の門脇屋・原ノ町の初田屋・菅原屋】と名前を挙げている。明治38年(1905年)の『仙台市職業別戸口』は、仙台市内の商業3,415戸のうち菓子屋を292戸としている。これら菓子屋の充実の背景には庶民の暮らしの安定もあったと思われる。

仙台を代表する詩人土井晩翠は明治4年(1871年)熊谷屋向かいの旧家土井家の長男として生まれ、13歳までを北鍛冶町(現北四番丁界隈)に過ごした。「熊谷屋の飴玉をしゃぶって大きくなった」との話は七代目熊蔵がよく話していたことである。