仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

仙台の赤線の歴史

2014/6/19

東照宮より東六番丁を南下して45号線までの途中、中ほどに比較的広い道が丁字路でつながっている。そこを左手に曲がると西友小田原店がある。
その曲がった先には他にドラッグストアや小さな飲食店や商店がいくつも立ち並びちょっとした商店街をなしている。



しかし、この周辺では細い横道ばかりで他に商店街らしきものはなく、突如として現れたように感じる。
なぜここだけ急にお店が多いのか。メインストリートの東六番丁通りにあるなら納得がいくのですが…。

さらに西友小田原店の先を曲がったところの道幅がそこだけ妙に広くなっていて、200mほど行くと突き当たり右に折れる細い道となる。
以前からこの場所が不思議でなりませんでした。
↓西友の脇の通り




調べてみると昔この辺りは実は遊郭があったということです。なんとも中心部から離れた場所になぜ?
仙台の遊郭の歴史について大まかに見ていきましょう。
宿場町として栄えた国分町に明治2年仙台城にやってきた官軍の要請で遊郭ができました。
仙台城二の丸の官軍が仙台鎮台なってからはより近くの常盤丁へと遊郭が移転した(明治11年)。この常盤丁は現在の仙台市民会館がある辺り。

しかし常盤丁の南側に隣接したところに陸軍の将校クラブである偕行社が設置されると場所柄ふさわしくないということで、明治27年に現在の小田原六丁目あたり(常盤丁)へ移されました。
この地域はもともと江戸時代から蜂屋敷と呼ばれ二代藩主忠宗公より養蜂を始めた場所だったため、その名がついたということです。養蜂場は嵐で崩壊してしまいましたが、地名のみが残りました。


近くに昔から住む方に聞いたところ、東六番丁から小田原六丁目へ入る入口に大きな門があったそうです。通称 大門(おおもん)と呼ばれ、夜定時になると門を閉じ、人の出入りをできなくするためだったそうです。常盤丁の周囲も道が細くなったり曲がりくねってたりして袋小路に近い形状でした。

大門をくぐった通りの北側に遊郭がありました。
遊郭があった地域は新たに常盤丁と呼ばれて、市民会館の辺りは元常盤丁と呼ばれるようになりました。遊郭街のメインストリートは現在の西友の先を曲がった通りで道幅が広くなっています。
↓東六番丁から小田原六丁目に入る入り口



現在は遊郭の面影はほとんど残っていません。
強いていうのなら、「コーポラスあさかや」という集合住宅が突き当たりにあるが、これはもともと「安積屋」という遊郭だった。ここら辺でも大きな建物で木造5階建だったとか。



遊郭の南西の外れには十二軒長屋(じゅうにけんながや)と呼ばれる長屋があり通称 やり手ババアの住居があった。

 

やり手ババアとは当時 客引きをする年配の女性のことをそう呼び、彼女らの仕事は建物の格子窓から手を出しての客引きでした。なぜ表に出なかったのかというと、公道での客引きは禁止されていたためで、建物を敷地から少し下げたところに建て、そのスペースに客を立たせて建物の中から交渉していたのです。


↑上の写真の千登勢屋は旅館ですが、当時の建物のつくりの名残なのか、少し建物が敷地より下がっていて格子窓もある。

また遊郭は遊ぶ建物と宿泊施設と別棟になっていました。例えば通りを挟んで別棟が宿泊施設。

遊郭には質屋もセットで存在していた。遊郭で遊ぶためのお金を作るために質屋に行ってお金を借りた。そのため質に入れたものをしまう蔵もあり、それに使われていた蔵は今でも残っている。



メインストリート突き当たり西側に神社があった。現在はないがおそらくこの辺りのあんぜんと商売繁盛を祈願したものではないか。 また男客で気に入った女性がいて連れていきたい場合はこの神社で 遊郭と縁を切る儀式を執り行ったそうです。参道には桜並木が並んでいたそうです。現在の駐車場。



また遊郭に遊びに行くことを隠語のようなものですが「草餅屋に行く」と言ったそうです。

遊郭は華やかな場所でもあり、影がある場所でもあります。
売れっ子の遊女がいる一方落ちぶれた遊女は東八番丁や塩釜へと場所を移し仕事を求めたそうです。
またいわゆるヤクザもいくつか同時に存在して 守料(もりりょう)や ショバ代をもらうことによって、
いざこざが起こらぬよう秩序を維持していたそうです。
遊郭では職業柄特別な病気にかかることも多くいわば専属の病院がありました。場所はメインストリートの突き当りにありました。



昭和33年売春防止法によって赤線が廃止され、その後はその建物を活かして旅館や下宿屋に転用され、地名も旅籠町となった。
現在西友がある場所もあけぼの荘(遊郭:五城郭)だったところです。
先に述べたコーポラスあさかもしかりです。
唯一旅籠町の名残を今も残しているのはユースホステル千登勢屋だけです。
当時は相撲の巡業や野球選手などいろいろな有名人が泊まったそうです。
今の風景からはまったく想像もつきませんね。
余談ではありますが常盤町は仙台で初めて電話ボックスが設置された場所の一つでまさもあります。それだけ人の往来が多かったことを物語っています。
また仙台市内では毎年市内中心部以外にも七夕飾りが各地で飾られますが小田原で飾られるのもそんな繁華街であった歴史があるんですね。

旅籠町の名は今も公園の名称として残っているが常盤丁の名はどこにも残っていない。


しかし電柱を見上げるとかろうじてその名が確認できるのだ。


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