仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

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歴史の町 富谷宿しんまち

2022/6/30

吉岡で島田飴を作っている兒玉金兵衛さんのお誘いで富谷宿観光交流ステーション「とみやど」の定員20名ほどのイベントに参加してきました。

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そのイベントは宿場町だった富谷宿の町案内と宮城県最古の造り酒屋内ヶ崎酒造さんの蔵見学、そして「とみやど」内のいい茶屋さんにて利き酒とそれに合うアテをいただきました。

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最初にしんまち歴史ガイドで、富谷市学芸員の清水さんが案内してくれました。
旧佐忠商店、明治40年頃に建てられた店と主屋そして昭和前期に建てられた門が令和2年に国の登録有形文化財となりました。もともとは呉服店だったそうです。
建物の特徴は細かなデザインがなされていて気仙大工の弟子が黒川郡に住み着き建造に携わったのではとのこと。 

『土蔵造2階建ての店舗と木造平屋建ての主屋からなる。店舗正面外観は、白漆喰塗とナマコ壁の外部上部に黒漆喰塗の鉢巻三段を廻し、扇垂木風の軒とする。重厚感ある街道景観を形成する。』(富谷市ホープページより)扇垂木風の軒は神社仏閣に見られる手法です。

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↑写真は見えにくいですが軒下の垂木をご覧ください。

脇本陣
参勤交代でお殿様が泊まる本陣に対し、家来が泊まる宿で気仙屋という建物。1876年と1881年の東北北海道行幸で明治天皇が休まれた部屋が現存しているそうです。その部屋の欄間は矢立欄間といい矢が実際刺さっているそうです。写真は探せませんでした。

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当時の参勤交代の資料に宿場町の様子が描かれていて富谷宿の名産が茶畑と記載されていて、今でも脇本陣の裏に茶畑があるそうです。

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とみやど辺りから東西へ通る道をしんまち通りと言います。この「しんまち(新町)」、何が新しいんでしょう?現代人からすると古いのになぜ新しい?と思いますよね。
1618年伊達政宗から新しい宿場町を作るように命じられた内ヶ崎織部は(鶴巣)北目大崎 幕柳 黒川氏の家老でした。
1620年にできた新しい宿場町=新町となったのでしょう。

山田家住宅の建物も古く幕末に建てられたものだそうです。これに関しては後で調べてもほとんど詳しい情報がありませんでした。

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現在の内ヶ崎酒造がある場所が先ほどの脇本陣に対して本陣となります。現在の建物は明治に建てられたものだそうですが、お殿様が泊まる宿として下調べがされており当時の内ヶ崎本家の内部の図(間取り図)が残されています。普通宿場町の本陣は6〜8畳が一般的でしたがここは9畳もあり有壁宿と同じくらいだそうです。

この本陣がまちの中心で重要な役割を果たしています。つまり大事な場所であって災害があっても守られなければなりません。
しんまちの通りの北側には西川という川が流れていてちょうど河岸段丘の中腹に位置して近からず遠からず生活用水を汲める距離にありながらある程度高さを維持している。しんまちを東西眺めるとこの場所が両側から見て微高地になっています。万が一水害があってもこの場所だけは守られる、そういう町づくりになっています。

歴史を学んだあとは内ヶ崎酒造の蔵見学をしました。1661年創業、今年で361年、明治の頃「鳳陽」ブランドができたそうで、現在16代目。
その16代目が酒蔵を案内してくれました。

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さあお待ちかねの日本酒の飲み比べです。
「とみやど」内にある「いい茶屋」さんにて。
とみやどは内ヶ崎酒造店の向かいにあり旧内ヶ崎醤油店敷地跡を活用した観光交流ステーションでもともと醤油店の職人さんたちが寝泊まりしていた建物をリノベしたのが「いい茶屋」さんです。

このイベントを企画したのも「いい茶屋」を運営する村上さんなのです。村上さんをはじめいい茶屋スタッフと宮城県食産業振興課 技術副参事の橋本建哉さん監修の酒と料理のペアリングを楽しみました。

最初に3種類の日本酒(もちろん内ヶ崎酒造)が用意され、このお酒にはこのアテが合うと説明聞いてからいただきました。それぞれ手が込んでいてどれも美味しかったです。

そして今日は特別に4種目の日本酒が先日の全国新酒鑑評会で金賞を取ったばかりの純米大吟醸が振る舞われました。
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跡付丁公園が消滅した時

2018/6/9

平成30年6月9日10日の土日に、春日神社のお祭りがありました。
私が以前「跡付丁公園」に関して書いたブログの内容を境内で展示してくださるというので見に行ってみました。(洗濯ばさみでとめてある)
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春日神社のお祭りは市内でも小さいながらも賑やかな祭りだと思います。私が小学生の頃はよく友達と遊びに行って型抜きをしたものです。
今でも近所の子供達でいっぱいで、町内でやる祭りにしては出店も多くある。
昔ほどではないが今も子供達の賑わいは変わらない。
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境内の展示物には他にもクイズ形式で昔の春日町のことを伝えていて面白い試みだと思いました。その中で「月の湯」の入浴券の写真がありこれは現在のどこでしょう?という問題がありました。答えは現在のSENDAI KOFFEEさんのところだそうです。
私は小学生の頃の同級生で春日町で銭湯を営んでいるところの子がいました。何度か遊びに行ったことがありますが、記憶では春日神社に面する通りだったような気がします。本当はどうなんでしょうね。
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帰りに跡付丁公園の前を通ると新しい看板?
「春日町公園」と表記された看板がありました。いつからだろう?前からあったのに気づかなかったのか。
青葉区の公園課に問い合わせると2年ほど前に名前が変更になったそうです。
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そもそも以前書いたブログの「跡付丁公園」は法務局に行った際に避難場所の地図を見た時に変わった名前の公園だなぁと思い由来を調べたのがきっかけでした。
(下の写真は現在のもので当時見たものは違うかもしれませんが、法務局の下の跡付丁公園という文字が気になったのです)
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それにしても市民にわかりやすい名前にしたのだろうが、どうしてこういう名前なの?と疑問に思うことから歴史がわかる時があるので「跡付丁公園」の名前も残して欲しかったと思う。

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仙台の西四番丁はどこにある

2018/4/10

北四番丁 東二番丁 はあるけれど西と南は?
熊谷屋は北四番丁通りから青葉神社方面へ少し入ったところにある。
地下鉄北四番丁駅は北四番丁通りと東二番丁通りの延長(勾当台通り)との交差点にある。
多少無理矢理な話の入り方だが、
まず北四番丁の「丁」は侍屋敷が並ぶ通りを指し、北鍛冶町などの町は商人などの住む通りを指します。
東二番丁も然りで、東に行くにしたがい三番丁、四番丁…と付けられ、北も一番丁、二番丁…とある。(東一番丁は現在東一番町変わっている)
では西二番丁や南四番丁とかもあるのでしょうか?今まで聞いたことがありません。西と南は無くて北と東だけなのです。片方だけってなんか変な感じがします。北鍛冶町に対して南鍛冶町がありますし(元の鍛冶町が北と南に別れた)、対になっていないのはなんか気持ちが悪い。
実はちょっと考えればわかることなのですが、これは仙台城のある地形を中心に考えると合点がいきます。仙台城は青葉山にあり自然の要害とも言われています。前には広瀬川、後ろには竜の口渓谷の断崖絶壁、城下町はそんな広瀬川を越えた向こう側につくられました。無論断崖絶壁に町は作れないので自然と城の東側、北側となるのです。
そして開府当初の仙台藩の城下町の一番外れは現在の市役所がある辺りです。時代とともに城下町は拡張され東へ北へ徐々に広がりそれぞれ一番丁、二番丁、三番丁…、と新しくできたのです。
これですっきりしましたでしょうか?
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「風の時編集部」より

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仙台の地名 同心町

2018/4/10

宮城県菓子工業組合兼仙台菓子組合の事務局は青葉区上杉にある同心ビルの2階にあります。

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この同心ビルという建物の名前ってよく見るとなんか変ですね。同じ心?
実はこの辺は江戸時代、同心町という名前でした。
もちろんこの地名には由来があります。
同心とは町奉行の配下にあった同心衆、つまり現在のおまわりさん的な役割を果たしていた人たちが住んでいた町だったのでこの名がつきました。
同心衆は幕府の庶務や見回りなどの警備をしていたそうです。
変わった地名にはちゃんと意味があるんですね。
ちなみに同心ビルの道を挟んでかんぽ生命保険仙台サービスセンターがあります。この建物は旧仙台簡易保険局で昭和11年に建てられたレトロな建物があります。
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またここから南、錦町一丁目にはモダン建築の、的場邸(旧石原謙邸)があります。
これは遠藤新氏の設計した建物。彼は帝国ホテルを設計したライト氏の弟子で、日本で様々な建築物を残しています。
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そんな昔の建物がある地域なのです。

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暖簾とは会社の歴史

2014/10/28

「暖簾を守る会」という会が仙台にはあります。
この会では毎年太白区蕃山の大梅禅寺にある暖簾塚に行き供養のお祈りをしています。

そして発足20周年を迎える記念の今年、入会させていただきました。

暖簾を守る会の発端は「誠鮓」の髙橋誠さんが当時自分が檀家をしていた大梅寺の和尚に自分のところの使わなくなった暖簾をどうしたらよいかと相談したところ、和尚はそういった暖簾を集めて大梅寺に塚を建てて供養してもよいと言ってくれたそうです。

そして彼は寿司組合にその話を持ち帰り、組合で暖簾を供養しようとしたところ、寿司組合だけでは事業が大きすぎて難しいということで仙台でも老舗のタゼンさんの社長に話を持ちかけ会長になってもらい仙台全体の会として発足したそうです。

暖簾は無くとも…。
「暖簾を守る会」と聞くとうちの会社は暖簾無いし…と思われますが、無くても会に入ることができます。
以下「暖簾塚建立の趣意」より抜粋
「…五年十年とたつにつれ、それぞれの店や事務所に独自の風格が培われ、所謂「のれん」の重みが出てまいります。…「のれん」とは有形の暖簾だけでなく、店の存在、屋号、知名、信用、格式のすべてを含んだものと考えます。」

ですから、暖簾の有無に関係なくまた年数にも関係なく同じ想いがあれば会に入ることができます。


暖簾塚は大梅禅寺の参道の境内に上がるてまえにありそこでみなさん集まって供養をいたしました。みなさんの着ている半纏には各々の会社名が書かれています。

 


20周年を記念して銘板の除幕式が行われました。
銘板には今年まで入会した会員の会社名が刻まれ、さらに今後もさらに入会した会員の 会社名が刻めるよう空いています。

 



また敷地内には仙台市の保存樹木コウヤマキ、シダレザクラ、ツバキ、ヒヨクヒバがあります。それぞれ250年、270年、200年、320年。
コウヤマキ



ヒヨクヒバ



シダレザクラ



ツバキは見つけられませんでした。


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地元地域の歴史、再確認。

2014/10/23

仙台市立第二中学校の二中会研修交流委員会主催の(二中保護者対象)講座が10月23日に開かれたので参加してきました。

講師はへくり沢でもお世話になっている柏木市民センターの岡崎修子館長。
岡崎さんは以前「城下町仙台を歩く」という歴史的町名のハンドブックの監修に携わりその執筆もなされたそうです。(当書籍は仙台市役所1階の市政情報センターにて購入可)
中学校の視聴覚室を借りて1時間半ほど行なわれました。
参加者9人



内容は「私たちの住むまちの歴史あれこれ」と題しまして仙台藩開府からまちの簡単な変遷とともに学区内を中止に城下町のつくりや昔の町名について話していただきました。
特に現在の町名と違い昔の町名には意味があり、例えば材木町は材木屋の町で木町通は木町(材木町)に通ずる通りという意味など、なるほどと思うことがいろいろあり豆知識が増えました。

お話が終わった後も保護者から様々な質問がありとても有意義で、参加した皆さんはきっと満足して帰られたと思います。
というより好奇心を掻き立てられもっと聞きたいのに時間が足りず、むしろ満足に達しなかったのではないでしょうか。

これをきっかけに、今回の話を家で話したり、知人に話したり、興味を持ってさらに知ろうとしたり、広がっていってほしいと思いました。

自分の子が通っている学校(二中)の周囲には面白い歴史がたくさんあるっていうことを知ることができたはずです。
もちろん、二中に限らず自分の住んでいる地域にはたくさんの興味深い歴史があり、実はそれが教科書に載るような大きな歴史につながるものだったということもあるはずです。

今回参加した保護者の人数は9名という少人数でちょうどよい人数でした。
もし今後もこのような会を開いていただけるのなら、間違いなく参加者の人数もさらに増えると思います。

以前ブログで菅克復のお話をした時、小学校で仙台の偉人について子供達が教わったと書きましたが、小中学生が郷土史を教わるというのはとても大切なことだと思います。
親達についても同じです。昔を知る人から聞いて、また子へ伝えていく。
自分とその土地の関わり、郷土愛が培われる。
技術が進歩したこの世の中、若い人は新しいものだけがいい、昔のものは堅い古くさいという考えをしがちですが、今までの歴史があって今の自分があるということを忘れてはならないと思います。



今回の講義は、今まで私が受けてきたものと違って特に素晴らしいものだと思いました。なぜなら今までのものはもともと興味があり、あるていど知っている方が参加していましたが、今回は興味は無いわけではないがこういった歴史になかなか触れられない方が参加してくださったので大きな意義があると思います。

岡崎館長、二中会研修交流委員会委員長、設えありがとうございました。


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仙台の赤線の歴史

2014/6/19

東照宮より東六番丁を南下して45号線までの途中、中ほどに比較的広い道が丁字路でつながっている。そこを左手に曲がると西友小田原店がある。
その曲がった先には他にドラッグストアや小さな飲食店や商店がいくつも立ち並びちょっとした商店街をなしている。



しかし、この周辺では細い横道ばかりで他に商店街らしきものはなく、突如として現れたように感じる。
なぜここだけ急にお店が多いのか。メインストリートの東六番丁通りにあるなら納得がいくのですが…。

さらに西友小田原店の先を曲がったところの道幅がそこだけ妙に広くなっていて、200mほど行くと突き当たり右に折れる細い道となる。
以前からこの場所が不思議でなりませんでした。
↓西友の脇の通り




調べてみると昔この辺りは実は遊郭があったということです。なんとも中心部から離れた場所になぜ?
仙台の遊郭の歴史について大まかに見ていきましょう。
宿場町として栄えた国分町に明治2年仙台城にやってきた官軍の要請で遊郭ができました。
仙台城二の丸の官軍が仙台鎮台なってからはより近くの常盤丁へと遊郭が移転した(明治11年)。この常盤丁は現在の仙台市民会館がある辺り。

しかし常盤丁の南側に隣接したところに陸軍の将校クラブである偕行社が設置されると場所柄ふさわしくないということで、明治27年に現在の小田原六丁目あたり(常盤丁)へ移されました。
この地域はもともと江戸時代から蜂屋敷と呼ばれ二代藩主忠宗公より養蜂を始めた場所だったため、その名がついたということです。養蜂場は嵐で崩壊してしまいましたが、地名のみが残りました。


近くに昔から住む方に聞いたところ、東六番丁から小田原六丁目へ入る入口に大きな門があったそうです。通称 大門(おおもん)と呼ばれ、夜定時になると門を閉じ、人の出入りをできなくするためだったそうです。常盤丁の周囲も道が細くなったり曲がりくねってたりして袋小路に近い形状でした。

大門をくぐった通りの北側に遊郭がありました。
遊郭があった地域は新たに常盤丁と呼ばれて、市民会館の辺りは元常盤丁と呼ばれるようになりました。遊郭街のメインストリートは現在の西友の先を曲がった通りで道幅が広くなっています。
↓東六番丁から小田原六丁目に入る入り口



現在は遊郭の面影はほとんど残っていません。
強いていうのなら、「コーポラスあさかや」という集合住宅が突き当たりにあるが、これはもともと「安積屋」という遊郭だった。ここら辺でも大きな建物で木造5階建だったとか。



遊郭の南西の外れには十二軒長屋(じゅうにけんながや)と呼ばれる長屋があり通称 やり手ババアの住居があった。

 

やり手ババアとは当時 客引きをする年配の女性のことをそう呼び、彼女らの仕事は建物の格子窓から手を出しての客引きでした。なぜ表に出なかったのかというと、公道での客引きは禁止されていたためで、建物を敷地から少し下げたところに建て、そのスペースに客を立たせて建物の中から交渉していたのです。


↑上の写真の千登勢屋は旅館ですが、当時の建物のつくりの名残なのか、少し建物が敷地より下がっていて格子窓もある。

また遊郭は遊ぶ建物と宿泊施設と別棟になっていました。例えば通りを挟んで別棟が宿泊施設。

遊郭には質屋もセットで存在していた。遊郭で遊ぶためのお金を作るために質屋に行ってお金を借りた。そのため質に入れたものをしまう蔵もあり、それに使われていた蔵は今でも残っている。



メインストリート突き当たり西側に神社があった。現在はないがおそらくこの辺りのあんぜんと商売繁盛を祈願したものではないか。 また男客で気に入った女性がいて連れていきたい場合はこの神社で 遊郭と縁を切る儀式を執り行ったそうです。参道には桜並木が並んでいたそうです。現在の駐車場。



また遊郭に遊びに行くことを隠語のようなものですが「草餅屋に行く」と言ったそうです。

遊郭は華やかな場所でもあり、影がある場所でもあります。
売れっ子の遊女がいる一方落ちぶれた遊女は東八番丁や塩釜へと場所を移し仕事を求めたそうです。
またいわゆるヤクザもいくつか同時に存在して 守料(もりりょう)や ショバ代をもらうことによって、
いざこざが起こらぬよう秩序を維持していたそうです。
遊郭では職業柄特別な病気にかかることも多くいわば専属の病院がありました。場所はメインストリートの突き当りにありました。



昭和33年売春防止法によって赤線が廃止され、その後はその建物を活かして旅館や下宿屋に転用され、地名も旅籠町となった。
現在西友がある場所もあけぼの荘(遊郭:五城郭)だったところです。
先に述べたコーポラスあさかもしかりです。
唯一旅籠町の名残を今も残しているのはユースホステル千登勢屋だけです。
当時は相撲の巡業や野球選手などいろいろな有名人が泊まったそうです。
今の風景からはまったく想像もつきませんね。
余談ではありますが常盤町は仙台で初めて電話ボックスが設置された場所の一つでまさもあります。それだけ人の往来が多かったことを物語っています。
また仙台市内では毎年市内中心部以外にも七夕飾りが各地で飾られますが小田原で飾られるのもそんな繁華街であった歴史があるんですね。

旅籠町の名は今も公園の名称として残っているが常盤丁の名はどこにも残っていない。


しかし電柱を見上げるとかろうじてその名が確認できるのだ。


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松尾芭蕉の辻ではありません

2013/7/29

青葉城から城下町へと続く大町通と奥州街道とが交差するところを「芭蕉の辻」といいます。
現在明治安田生命ビルの前に碑が建っており、由来などが書いてあります。

「芭蕉の辻」の芭蕉は松尾芭蕉からきているのかなと思いがちですが、実はまったく関係ないのです。
それでは、名前の由来はなんなのでしょうか。
それにはいくつか説があり、
ひとつは…
その昔その場所は札番所(ふだばんどころ)で、禁止事項などを公示した制札(せいさつ)を建てていたところでした。よく時代劇で見る御触れ書きですね。
そこから札の辻と呼ばれていたのですが、人が集まる賑やかな場所であったので「場所の辻」から「ばしょうの辻」→「芭蕉の辻」となった説。
ふたつめは…
政宗の命で芭蕉という虚無僧が開府以前の仙台(千代)の情勢を監視し報告をする任務をし、仙台築城におおいに貢献したので札の辻の四隅に建てた(挟間を備えた)城郭式楼櫓へ住まわせました。その後街の喧騒を嫌い名取の増田に居住したそうですが、その後その虚無僧を称え「芭蕉の辻」と呼ぶようなったという説。
三つ目は辻に植物の芭蕉が植えられていたからという説。
なんか三択クイズのようになってしまいましたが(スーパーひとし君人形!)、どれも苦しいような気がするのは私だけでしょうか。一般的にはふたつめのが有力な説だとか。
名前の由来はこのくらいにして、100年前の地図を見ると芭蕉の辻の近くに「真壁」と表記されています。
これは現在新寺小路にある(以前は広瀬通にあった)印刷や紙類を扱う真壁商店さんの前身なのです。
…と言われてもみなさんよくわからないと思いますが、真壁商店さんはうちの取引先でしかも私の中学の同級生の家です。
以前彼から「うちもけっこう古くて、昔は芭蕉の辻あたりで旅館業をやっていたんだ」という話を聞きました、
それが、この地図に載っていたのです!古地図で見つけたときはとても感動しましたね。
細かく見ていくと昔の地図っておもしろいですね、意外な発見があったりして。
ちなみに地図には紅久さんや一力さん(一力健治郎と関係があるのでしょうか?)も表記されていますね。

「仙台地図さんぽ」風の時編集部より

また南町通から見ると芭蕉の辻より手前は少し道幅が広くなっています。これは南町通より市電が通っていたのです。ここで行き止まりという非常に変な路線ですが、南町通駅から郵便局前駅、芭蕉の辻駅までなのです。

懐かしいですねちんちん電車、北四番丁の通りも走っていて、車庫は現仙台市交通局の建物があるところでした。
幼いころ祖母に連れられて最後の花電車(市電廃止記念のお別れ電車)を見に行った記憶があります。
市電だけにちょっと脱線してしまいましたが、「芭蕉の辻」は松尾芭蕉とは関係ないという話でした。


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北山の羽黒神社と青葉山の名の由来

2012/12/10

伊達政宗が築城した仙台城のある青葉山。
青葉山という名は実は現在北山にある羽黒神社と関係しているのです。
お話に入る前に言葉の意味を確認しておきましょう。
別当寺(べっとうじ):神社を管理するために置かれた寺のこと。
神社と寺がセットなんて変ですね、これは神仏習合が許されていた、つまり土着の信仰と仏教の良いところをとって新たに作り上げた信仰が一般的だった時代の話です。
政宗が仙台城を築城の際、
慶長七年(1602)残月亭の南脇、本丸と二の丸の間(植物園内)に、羽黒神社と別当寺(青葉山)・寂光寺(じゃっこうじ)が建立された。
慶長5年(1600)の松川の戦いにて上杉景勝と伊達政宗が戦った際、福島の信夫山(しのぶやま)にて寂光寺の法印慶印が劣勢に立たされた政宗を寺にかくまい、夜半に裏手から仙台に帰えらせたといわれている。
その後寺は焼き払われ、山伏や宮人は政宗とともに仙台へ移り住んだ、
このとき、仙台城の前身地に青葉山寂光院・羽黒大権現を移したのです。
この「青葉山」は「せいようざん」と読み寂光寺の山号であった、この山号より名をとって
「青葉山(あおばやま)」と称すようになったと言われてい
ます。

その後寛永15年(1638)二の丸が造営されるころまでその地にあり、羽黒神社とともに北山に移転した。
北山に寂光寺が移転したのは慶長7年という記載が多いが寛永15年あたりのほうが年数的にも妥当と筆者は考える
昔の地図にある(北山移転後の)寂光寺。右端は輪王寺でその脇の古海道は中山街道または秀衡街道と呼ばれ現在の北四番丁大衡線の一部分です。

現在の地図(寂光寺があった場所:詳細はわからないので想像です)

(クリックして拡大)
現在では羽黒神社のみ残っています。

 


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  1. 横田や・横田 より:

    「寂光寺」検索していましたら出会いました。
    最近、寂光寺の参道がわかりました。横田や斜め向かいのピンク色のマンションが建っているところ。その北側に現在細い道がありますが(羽黒神社の脇までクランクして登る)その東側に立っている住宅1件分が元参道だったところと、むかしから参道わきに住んでいた方(90歳ぐらい)に1昨年聞きました。
    私も、今のクランクした道が参道の一部と思い込んでいましたが、まったくその東側だったとは・・。そう聞いてから見ると確かに今立っている住宅は、参道の上に立っているように見えてきます。

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六丁の目ってへんな地名だね

2012/6/21

仙台には六丁の目という地名があります。
一丁目、二丁目、…六丁目ではありません、れっきとした地名でございます。
へんな地名…、みなさんもそう思うでしょう。
でもちゃんとした地名の謂れがあるんですよ。
『鎌倉時代の中期、時宗(じしゅう)の開祖として名高い一遍上人が、諸国を遊行してこの地に来られ、ここで念仏弘通が行われた時、道ばたの平らな石に六字の名号即ち南無阿弥陀仏の文字を書かれた。ところがこの六字の銘がそのまま石に刻んだように浮かび出たのがこの碑であるということである。地方民はこれを「六字の銘」を読んでいたが、後世訛って「ろくちょうのめ」というようにたった。これがまたそのまま地名となったのが六丁目であるという。』
(仙台地名考 菊地勝之助著より)
※念仏弘通=お念仏を広め唱えること
この石碑は六丁の目コミュニティセンター前に建つ太子堂に祀られています。

南無阿弥陀仏の六字の銘は実際左右逆に書いてあります。


六字の銘が訛って六丁の目っていったいどんな訛り方したんだとお思いでしょうが、
六字の銘を別名、六丁の銘と言っていたそうです。


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