仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

タグ:歴史

歴史の町 富谷宿しんまち

2022/6/30

吉岡で島田飴を作っている兒玉金兵衛さんのお誘いで富谷宿観光交流ステーション「とみやど」の定員20名ほどのイベントに参加してきました。

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そのイベントは宿場町だった富谷宿の町案内と宮城県最古の造り酒屋内ヶ崎酒造さんの蔵見学、そして「とみやど」内のいい茶屋さんにて利き酒とそれに合うアテをいただきました。

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最初にしんまち歴史ガイドで、富谷市学芸員の清水さんが案内してくれました。
旧佐忠商店、明治40年頃に建てられた店と主屋そして昭和前期に建てられた門が令和2年に国の登録有形文化財となりました。もともとは呉服店だったそうです。
建物の特徴は細かなデザインがなされていて気仙大工の弟子が黒川郡に住み着き建造に携わったのではとのこと。 

『土蔵造2階建ての店舗と木造平屋建ての主屋からなる。店舗正面外観は、白漆喰塗とナマコ壁の外部上部に黒漆喰塗の鉢巻三段を廻し、扇垂木風の軒とする。重厚感ある街道景観を形成する。』(富谷市ホープページより)扇垂木風の軒は神社仏閣に見られる手法です。

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↑写真は見えにくいですが軒下の垂木をご覧ください。

脇本陣
参勤交代でお殿様が泊まる本陣に対し、家来が泊まる宿で気仙屋という建物。1876年と1881年の東北北海道行幸で明治天皇が休まれた部屋が現存しているそうです。その部屋の欄間は矢立欄間といい矢が実際刺さっているそうです。写真は探せませんでした。

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当時の参勤交代の資料に宿場町の様子が描かれていて富谷宿の名産が茶畑と記載されていて、今でも脇本陣の裏に茶畑があるそうです。

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とみやど辺りから東西へ通る道をしんまち通りと言います。この「しんまち(新町)」、何が新しいんでしょう?現代人からすると古いのになぜ新しい?と思いますよね。
1618年伊達政宗から新しい宿場町を作るように命じられた内ヶ崎織部は(鶴巣)北目大崎 幕柳 黒川氏の家老でした。
1620年にできた新しい宿場町=新町となったのでしょう。

山田家住宅の建物も古く幕末に建てられたものだそうです。これに関しては後で調べてもほとんど詳しい情報がありませんでした。

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現在の内ヶ崎酒造がある場所が先ほどの脇本陣に対して本陣となります。現在の建物は明治に建てられたものだそうですが、お殿様が泊まる宿として下調べがされており当時の内ヶ崎本家の内部の図(間取り図)が残されています。普通宿場町の本陣は6〜8畳が一般的でしたがここは9畳もあり有壁宿と同じくらいだそうです。

この本陣がまちの中心で重要な役割を果たしています。つまり大事な場所であって災害があっても守られなければなりません。
しんまちの通りの北側には西川という川が流れていてちょうど河岸段丘の中腹に位置して近からず遠からず生活用水を汲める距離にありながらある程度高さを維持している。しんまちを東西眺めるとこの場所が両側から見て微高地になっています。万が一水害があってもこの場所だけは守られる、そういう町づくりになっています。

歴史を学んだあとは内ヶ崎酒造の蔵見学をしました。1661年創業、今年で361年、明治の頃「鳳陽」ブランドができたそうで、現在16代目。
その16代目が酒蔵を案内してくれました。

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さあお待ちかねの日本酒の飲み比べです。
「とみやど」内にある「いい茶屋」さんにて。
とみやどは内ヶ崎酒造店の向かいにあり旧内ヶ崎醤油店敷地跡を活用した観光交流ステーションでもともと醤油店の職人さんたちが寝泊まりしていた建物をリノベしたのが「いい茶屋」さんです。

このイベントを企画したのも「いい茶屋」を運営する村上さんなのです。村上さんをはじめいい茶屋スタッフと宮城県食産業振興課 技術副参事の橋本建哉さん監修の酒と料理のペアリングを楽しみました。

最初に3種類の日本酒(もちろん内ヶ崎酒造)が用意され、このお酒にはこのアテが合うと説明聞いてからいただきました。それぞれ手が込んでいてどれも美味しかったです。

そして今日は特別に4種目の日本酒が先日の全国新酒鑑評会で金賞を取ったばかりの純米大吟醸が振る舞われました。
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跡付丁公園が消滅した時

2018/6/9

平成30年6月9日10日の土日に、春日神社のお祭りがありました。
私が以前「跡付丁公園」に関して書いたブログの内容を境内で展示してくださるというので見に行ってみました。(洗濯ばさみでとめてある)
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春日神社のお祭りは市内でも小さいながらも賑やかな祭りだと思います。私が小学生の頃はよく友達と遊びに行って型抜きをしたものです。
今でも近所の子供達でいっぱいで、町内でやる祭りにしては出店も多くある。
昔ほどではないが今も子供達の賑わいは変わらない。
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境内の展示物には他にもクイズ形式で昔の春日町のことを伝えていて面白い試みだと思いました。その中で「月の湯」の入浴券の写真がありこれは現在のどこでしょう?という問題がありました。答えは現在のSENDAI KOFFEEさんのところだそうです。
私は小学生の頃の同級生で春日町で銭湯を営んでいるところの子がいました。何度か遊びに行ったことがありますが、記憶では春日神社に面する通りだったような気がします。本当はどうなんでしょうね。
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帰りに跡付丁公園の前を通ると新しい看板?
「春日町公園」と表記された看板がありました。いつからだろう?前からあったのに気づかなかったのか。
青葉区の公園課に問い合わせると2年ほど前に名前が変更になったそうです。
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そもそも以前書いたブログの「跡付丁公園」は法務局に行った際に避難場所の地図を見た時に変わった名前の公園だなぁと思い由来を調べたのがきっかけでした。
(下の写真は現在のもので当時見たものは違うかもしれませんが、法務局の下の跡付丁公園という文字が気になったのです)
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それにしても市民にわかりやすい名前にしたのだろうが、どうしてこういう名前なの?と疑問に思うことから歴史がわかる時があるので「跡付丁公園」の名前も残して欲しかったと思う。

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登米は宮城か岩手かどっち

2018/6/3

先日県北に行くことがあったので、
予てから行ってみたかった登米に寄りました。

まずは名物油麩丼の店に行って、味噌ラーメンをいただきました。(笑)
そして何より行ってみたかった有名な教育資料館「登米高等尋常小学校」にむかいました。
建物の中には昔の写真や昔の道具などが展示されていて、
また、昔の授業風景が再現されてたり、校長室には校長先生が座っていたりと当時の風景が思い浮かびます。
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その後は、少し車で移動して旧登米警察署庁舎にも行きました。
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昔の白バイやスカイラインのパトカーが展示されていて、実際乗ることもできます。
お子さんは喜びますね。
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牢獄や取調室などもそのまま残されていました。また、当時の警察は消防団も兼ねていたそうです。
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奥左隅はトイレです。
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実は登米高等尋常小学校と旧登米警察署庁舎は共に山添喜三郎という人物の建築でした。
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この人物は以前ブログに書いた三居沢の発電所の建物も建築しています。
山添喜三郎は宮城県の建築技師で県内のさまざまな建物に携わっていましたが、残念ながらほとんどが取り壊されたそうです。
色々な事情があって幸いにもこの2つが残されることになったそうです。
山添喜三郎の説明文
建築家山添喜三郎は、弘化年間に新潟県西蒲原郡角海浜村に生まれたといわれている。大工として建築を志した山添は、明治5年(1872)オーストリアのウィーンで開催された万国博覧会に、明治9年(1876)にはアメリカのフィラデルフィアで開催された米国独立百周年記念万国博覧会に参加した。この両度の洋行を機に欧米の建築について見聞を広め知識を蓄積したものと思われる。
明治16年(1883)仙台に創設される紡績会社の建築工事に当たり山添の手腕力量が高く評価され、明治18年頃宮城県の建築主任として県庁職員に迎えられたといわれている。建築技師として山添県内に多くの建築物を手がけたがその大部分は解体撤去されおり、登米町に現存する旧登米高等尋常小学校と旧登米警察署庁舎は建築家山添喜三郎の記念碑ともいえるものである。彼は仙台を永住の地ときめ住んでいたが、大正12年3月16日永眠、享年81歳とあり仙台市東十番丁天神下にある栄明寺に葬られている。
時間がなくて行かなかったのですが、
水沢県庁の建物もありました。(こちらは旧登米高等尋常小学校の近くにあります)
宮城の登米になぜ岩手の水沢の県庁が?
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ウィキペディアを参照すると、そのいきさつがわかりました。(以下参照内容)

明治4年1月12日第1次府県統合により一関県・江刺県・胆沢県が統合されて新しく一関県が作られ県庁を磐井郡一関村しました。明治4年12月13日水沢県に改称し、県庁は胆沢郡水沢に置かれる予定でしたが、実際には登米郡の登米県庁として使用される予定で建設されていた建物を水沢県庁として使用しました。
明治8年11月22日 県庁を磐井郡一関村に移転して磐井県に改称。
明治9年4月18日 – 第2次府県統合により、磐井県のうち陸中国部分を岩手県に、登米郡は宮城県に編入されました。磐井県は廃止され岩手県となり、登米はやっと宮城県域で落ち着きました。

そんな紆余曲折の途中で水沢県庁となったということだそうです。


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仙台の地名 同心町

2018/4/10

宮城県菓子工業組合兼仙台菓子組合の事務局は青葉区上杉にある同心ビルの2階にあります。

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この同心ビルという建物の名前ってよく見るとなんか変ですね。同じ心?
実はこの辺は江戸時代、同心町という名前でした。
もちろんこの地名には由来があります。
同心とは町奉行の配下にあった同心衆、つまり現在のおまわりさん的な役割を果たしていた人たちが住んでいた町だったのでこの名がつきました。
同心衆は幕府の庶務や見回りなどの警備をしていたそうです。
変わった地名にはちゃんと意味があるんですね。
ちなみに同心ビルの道を挟んでかんぽ生命保険仙台サービスセンターがあります。この建物は旧仙台簡易保険局で昭和11年に建てられたレトロな建物があります。
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またここから南、錦町一丁目にはモダン建築の、的場邸(旧石原謙邸)があります。
これは遠藤新氏の設計した建物。彼は帝国ホテルを設計したライト氏の弟子で、日本で様々な建築物を残しています。
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そんな昔の建物がある地域なのです。

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へくり沢ウォーキングマップ

2018/4/10

以前もブログに書きましたが、仙台市の八幡町界隈を昔流れていたへくり沢(蟹子沢ともいう)があります。現在は暗渠となているそのへくり沢をもっと地元の人に知ってもらおうと、この度柏木市民センター主導で案内板を作成設置しました。

柏木市民センターでは、これまでへくり沢について4回にわたる講習会から始まり、その後講習会参加者の中から声掛けした有志でへくり沢地形模型の製作、さらに昭和15年ごろのへくり沢が脇を流れる八幡小学校を中心としたジオラマ模型の製作をしました。そしてその2つの模型を活用すべく、へくり沢ウォーキングと題し一般参加者を募集して、歩いてへくり沢を案内したあと柏木市民センターにて模型を使って説明をするという事業を何回かに分けて行われました。さらに集大成としてへくり沢ウォーキングの案内板を作ることになったのです。

これまで柏木市民センターの館長さんはじめ、ジオラマ作成メンバー、関連町内会長連合会の皆様で何度か集まり意見交換をしたり、実際歩いて現場を確認したりしてようやく12月末に案内板が完成設置に至りました。

※下の看板はルート最初のもので知事公館から新坂を下ったところにあります。

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※出来上がった看板を確認するメンバー。
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※マップ作成に向けて協議するメンバー。
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この案内板は単なるへくり沢の説明だけではなく、源流地点から広瀬川への合流地点まで8カ所に設置され、それらを辿ってへくり沢の流水域の跡を散歩してもらい地域の歴史について興味をもってもらおうというのが趣旨です。

案内板の詳細はこちらで見ることができます。↓



さらに、持ち歩きに便利な紙ベースのマップを作ることになり、案内板のデザインが完成後すぐに作業に取り掛かり、年末から始めて締め切りが2月までととてもハードなスケジュールで作ることになりました。(年度末までには全ての事業が終わる予定)

まずはマップ作成メンバーで集まり主旨を理解し、どのような形(デザイン)にするか、内容は何を入れるかなど話し合われました。

マップに関しては散策ルートの表示はもちろん、中に盛り込む情報や、高低差だったり、古地図も入れたい…と色々な意見が出まして、何度も修正をしながらやっと完成にこぎつけました。

マップの大きさはA3サイズの縦に4つ折りになっていて持ち歩きに便利な形状になるよう工夫されています。現在の地図の他に大正元年の地図とも比較することができ、また下部には歩くコースの距離と標高が看板の地点地点でわかるようになっています。

裏面にはへくり沢にまつわる様々な説明や事柄が記載されていて、興味が湧くこと必至です。

もちろん紙面の制約上、このマップに書かれていることで全てではありませんが、概略がわかるように考えて作りました。

3月9日には柏木市民センターてマップ完成お披露目会が行われて関係者が集まり、東北文化学園大学の八十川先生の基調講演がありました。

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こちらは前柏木市民センター館長の岡崎さんです。一連のへくり沢の講座は岡崎館長が始めました。のちに現小野館長が引き継ぎここまで来たわけです。
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また3月17日には一般参加者を募集して、マップを実際手に持って各案内板を辿りながらみんなで歩きました。知事公館から出発してへくり沢をさかのぼりました。
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これが完成したウォーキングマップです。
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コメント (3件)

  1. 米倉 達夫 より:

    この「へくり沢」のウオーキングマップを手に入れることはできるのでしょうか?

    1. admin より:

      「へくり沢」ウォーキングマップは柏木市民センターに問い合わせて在庫があればもらえるかもしれません。

      1. 米倉 より:

        ありがとうございました。(返信が遅れて申し訳ございません)

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幻の沢? へくり沢 説明看板設置事業

2017/6/26

柏木市民センターでは
これまで「へくり沢」についての講義を数回にわたり開いたり、
地形模型やジオラマ模型を作製したりしてきました。
その後は一般市民を公募して、今度はこれまでの受講メンバーがへくり沢を案内する事業を数回行いました。
4年計画の事業を終え、今後の「へくり沢」の活用について具体的に地域の団体とさらに連携して「へくり沢」を広く知らしめるために市民センターと今までの受講者加えてコミュニティーセンターや近隣の町内会長さんを交えて協議しながら、「へくり沢」の案内説明看板の設置を行なうことになりました。

ということでまずは看板を建てる場所を選考するために現地調査を2回に分けて行いました。
1回目は6月14日に「へくり沢」の河口部分の澱不動尊から土橋を経て春日神社まで、6月20日は春日神社からさらに赤道を経てニノ坂の源流まで。

我々は幾度となく往来したルートですが看板を建てるにはどのようなところが良いのかを考えて歩きました。
両日とも東北文化学園大学 建設環境学科の八十川淳教授も同行してもらいました。

今回、とても貴重だった体験は
石切橋にある小梨石材店さんの敷地にお邪魔させていただいたことです。
普段は春日神社前の四谷用水とへくり沢が交差する場所から見降ろすことしかできないのですが、反対側から見上げることができる場所に立つことができました。

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下方から見たところ↓
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上方から見たところ↓
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へくり沢の流れは上からコンクリートの箱管を通って水が落ち、小梨石材店さんの敷地を通って行く。
今までどうなっているんだろうと、ずっと不思議に思ってました。
へくり沢は小梨石材店さんの庭の下を通っているの?埋まっているの?埋まっていたとしてもへくり沢が開渠だった時は庭の真ん中をへくり沢が流れていたのか⁉︎(石切橋が敷地の真ん中に接しているため)

今でもわずかに浸み出る水。四谷用水あるいはへくり沢からの水なのか…。
コンクリート箱管脇。


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実際見てみるとへくり沢は敷地のヘリを通っていたんですね。
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敷地内の仙台市のマークが入った鉄板の上に立つとゴーッというものすごい水の音がしました。水量の多さと流れの速さがすぐわかりました。
今でもへくり沢が流れているのかと感動しました!

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しかし今までの調査でへくり沢は暗渠になってからは菅が通され雨が降った時に雨水が流れる程度で普段の流れは無いはずだった。
なのになぜこの水量?
同行した方に聞くと上の四谷用水(工業用水)の流れが響いているんだよと言う。ああそう言うことなのかと一時納得したものの、四谷用水との交差地点からはある程度距離があるのにあたかも足元を流れているかの大きな音にはなんだか違和感がありました。


今回小梨石材店さんの敷地を見せてもらい、へくり沢がどのように流れているのかわかりましたが、
ただやはり、へくり沢が庭の真ん中を流れていたのかは確認しませんでした。(また機会があれば聞いてみたいと思います)

コンクリートの箱管は建物の下を通って道路の方へ流れていました。現在の石切橋とは少しズレます。
これはあとで八十川先生に教えてもらったのですが、本来のへくり沢の流れとは別に雨水菅が入っているためだそうです。道路の下(小梨石材店の前)で東から通る雨水菅と合流して西に向かいほぼ道路に沿って南下します。
つまりここで本来のへくり沢の流れから雨水菅は逸れていくのです。

春日神社以北の赤道のマンホールから聞こえる水の流れの音は雨水菅とは言いながら実際のほとんどは生活排水が流れているです。この流れの先は蒲生の浄水場ですが、大雨が降り量が多くなった時にオーバーフロー(「明治時代の煉瓦造の下水道が今なお生きている」参照)で石切橋以南のへくり沢に流し、広瀬川へと排出されるのです。ですから上流ではものすごい水の流れの音はするものの河口の広瀬川への出口からは全く水が流れ出ないのはそういうことだったのです。

へくり沢の現在の水の流れについて、なるほどという感動やでも何故?という疑問が二転三転して、だんだん真相がわかってきました。自分は何度もへくり沢を歩いたり、話を聞いたりしてだいぶわかったつもりでもまだまだ奥が深いです。
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2日目の様子
この直線の小径が赤道であり暗渠です。
ちょうどゆるい谷になっています。
(写真ではよくわかりませんが実際立って左右の道路を見るとその先が登っているのがわかります)
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この砂の部分の土地は昔のへくり沢の河川敷の名残だと説明する若生先生。(上の場所の左側)
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国見小学校へ突き当たる場所にある謎のマンホール。とても珍しい形をしています。これは何を意味しているのか…。
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源流となる二ノ坂にある「二ノ坂コーポ」(芋沢街道踏切を超えたところにあります。)
今なおその名を残す貴重な建物です。
この入り口の奥がとても変わっていてオーナーさんが何かをイメージしたのでは?と考えると面白い。
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青葉まつり2017

2017/5/21

平成29年5月20日21日と今年も盛大に青葉まつりが開催されました。

特に今年は伊達政宗生誕450年という記念の年です。

天気も青葉まつりのために晴れたような天気でとても暑かったです。
大太鼓を先頭に神輿渡御は青葉神社から出発して青葉神社通り二日町国分町と練り歩きます。

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稚児行列もみなとてもかわいいですね。

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その先一番町四丁目商店街を通り藤崎でおおまちアーケードに入ります。

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後半は東二番丁通りから定禅寺通りを歩きます。
長丁場、神輿を担ぐ人たちはかなり大変だったでしょう。

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明治時代の煉瓦造の下水道が今なお生きている

2016/11/11

仙台出身の伊坂幸太郎監督のゴールデンスランバーの中でも堺雅人演じる青柳雅春が逃走する際に使用したのでも仙台の街中の地下を通る地下下水道。
その中でも明治33年に造られたレンガ造りの下水道で勾当台公園あたりから定禅寺通りの下をまっすぐ通って広瀬川に流れる部分の一部が公開されました。
新聞でも7月ごろの記事に公開予定の内容が載っていて楽しみにしていました。

市政だよりで一般公開の公募が始まると早速申し込みをしました。
当日あいにくの雨でしたが予定の時刻には大分小雨になりました。
6名のグループで3名ずつに分かれて見学しました。

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場所は市民会館隣のSLが展示されているところの脇です。新しく整備され地下が上から見える天窓と、下へ降りる入口が作られました。

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このレンガ造りの下水道は土木遺産に登録されたそうです。

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入り口から入り下まで螺旋階段を8メートルほど降り進むとレンガを一部壊して中に入れるようにしたところがありました。この部分から中に入るのですが、入って右側が広瀬川への出口で、左側が定禅寺通り方面です。
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最初に広瀬川への出口を確認。トンネルの先の明るくなっているのが広瀬側に抜ける出口です。
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反対側へ行くと定禅寺通りから来た下水がカーブして処理場へと流されます。雨水など水量が多くなるとこのカーブの縁を越えて広瀬川へと流されます。
この穴の向こうが定禅寺通りです。カーブせずまっすぐそのまま進めば先ほどの広瀬側へと注ぎます。
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こちらはカーブした先の右側、向かう方角は南です。
東から流れてきて広瀬側手前(SLの下あたり)でカーブして南下します。
地下に潜ってしまうと方向感覚がわからなくなってしまいます。
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ありがとう農学部

2016/10/30

雨宮キャンパス感謝祭が10月28日29日30日の3日間行われました。
これは東北大農学部が雨宮キャンパスから青葉山へ移転することになっているので、今までの地域の皆さんへの感謝を込めたお祭が行われたのです。

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この敷地は農学部以前から歴史があり旧制二高が片平から移転して来たのを始まりに一時期は宮城一女高が間借りした。農学部は昭和49年より、以降都会のオアシス的な存在でもあり緑が楽しめるスペースとしても市民に愛されてきました。

旧制二高当時に建てられた守衛所も現存しているのでどうにか残して欲しいです。

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また周囲には当時の赤煉瓦も残っています。

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色が違うのがわかるでしょうか。
新しい部分は寮の入り口だった所を塞いだものだそうです。
建物の中では昔の写真や説明が展示されていました。見にくる人も昔近所に住んでいた人や当時通っていた人など懐かしいという声が聞こえて来ました。

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また仙台の古いものが無くなる、悲しい。
古いものを壊すのではなく活用して町おこしができないものか。
そんなことを考えてしまいます。


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へくり沢にはもっと上流に源流があった

2016/10/29

柏木市民センターでの事業
「へくり沢ウォーキング」
今回で4回目です。ひとまず最後になります。
最初の1〜2回目は2015年の11月に行われれ、柏木市民センターから出発してへくり沢を下って広瀬川との合流地点まで歩くというもの。
3回目は6月に行われる、今度は逆に上流へと歩きました。出発は新坂の上にある知事公館からで春日神社の辺りまで行き柏木市民センターへ戻るというもの。

そして今回はこれまではへくり沢の下流部分を歩いたのに対して、「源流を訪ねる」と題しまして上流部分を初めて歩きました。

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参加した人数は定員の15名。

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まずは出発前に模型を使って予習です。

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いつもは最後になる春日神社から始まり今野さんも張り切って説明していました。

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ここは四ツ谷用水とへくり沢が交差する所なので、四ツ谷用水の洗い場跡を見学して、実際立体交差している部分の上に立ちました。
みんなが立っているのが四ツ谷用水の上で、2枚目の画面左側石垣が見え土地が下がっているのがわかると思いますが、へくり沢の滝の部分です。

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へぇ〜この下を四ツ谷用水が流れているのかぁ。

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へくり沢の暗渠部分は道が赤くなっていて赤道と呼ばれています。その赤道を辿って行きます。

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途中タコ公園で一休み?

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さらに歩くと国見小学校に着きます。

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道路に出てから国見コミュニティーセンターへ向かいます。

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信号の隣に花がお供えされていますが交通事故とかそういうものではなく疱瘡神様なのです。
もともと国見台病院の敷地にあったものの一つで病院を建てる祭、移動したそうです。

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背後の建物は国見児童館でここがその昔堤でした。つまりため池でここからへくり沢が下流へと流れて行くのです。

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ちなみにこのすぐ上の国見コミュニティーセンターも堤で2段階になっていました。

少し移動して福聚幼稚園の駐車場に来ました。ここから下を見ると地形が溝のようになっています。
これはへくり沢へと流れ込む支流でキツネ沢いうそうです。

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柵の右側の溝がキツネ沢になります。

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下の国見コミュニティーセンターから見た写真で正面の木の左側に側溝がありますがそこの場所を通って堤に流れ込んでいたと思われます。
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近くに仙山線の駅、東北福祉大駅がありその脇に道路が通っていますが、駅が作られる以前は芋沢街道と言って細い道が本道として使われていました。
それでも昔はバスが通っていたそうですが、今ではその街道を横切る踏切は人しか通れません。

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先ほどコミュニティーセンターと児童館の堤からへくり沢が始まると言いましたが、実は源流はもっと上なのです。
堤とは川を堰き止めてため池を作り農業用水として使っていたのです。ならばその先にもっと上があるのは当然です。

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芋沢街道の踏切を越えた少し先が本当のへくり沢の源流だったのです。
ここは昔の地名で一ノ坂、二ノ坂というそうで、今でもその名残が感じとられる建物の名前があるというのはとてもいいことですね。

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ということで今回はここで解散です。


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