仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

タグ:学校

登米は宮城か岩手かどっち

2018/6/3

先日県北に行くことがあったので、
予てから行ってみたかった登米に寄りました。

まずは名物油麩丼の店に行って、味噌ラーメンをいただきました。(笑)
そして何より行ってみたかった有名な教育資料館「登米高等尋常小学校」にむかいました。
建物の中には昔の写真や昔の道具などが展示されていて、
また、昔の授業風景が再現されてたり、校長室には校長先生が座っていたりと当時の風景が思い浮かびます。
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その後は、少し車で移動して旧登米警察署庁舎にも行きました。
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昔の白バイやスカイラインのパトカーが展示されていて、実際乗ることもできます。
お子さんは喜びますね。
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牢獄や取調室などもそのまま残されていました。また、当時の警察は消防団も兼ねていたそうです。
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奥左隅はトイレです。
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実は登米高等尋常小学校と旧登米警察署庁舎は共に山添喜三郎という人物の建築でした。
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この人物は以前ブログに書いた三居沢の発電所の建物も建築しています。
山添喜三郎は宮城県の建築技師で県内のさまざまな建物に携わっていましたが、残念ながらほとんどが取り壊されたそうです。
色々な事情があって幸いにもこの2つが残されることになったそうです。
山添喜三郎の説明文
建築家山添喜三郎は、弘化年間に新潟県西蒲原郡角海浜村に生まれたといわれている。大工として建築を志した山添は、明治5年(1872)オーストリアのウィーンで開催された万国博覧会に、明治9年(1876)にはアメリカのフィラデルフィアで開催された米国独立百周年記念万国博覧会に参加した。この両度の洋行を機に欧米の建築について見聞を広め知識を蓄積したものと思われる。
明治16年(1883)仙台に創設される紡績会社の建築工事に当たり山添の手腕力量が高く評価され、明治18年頃宮城県の建築主任として県庁職員に迎えられたといわれている。建築技師として山添県内に多くの建築物を手がけたがその大部分は解体撤去されおり、登米町に現存する旧登米高等尋常小学校と旧登米警察署庁舎は建築家山添喜三郎の記念碑ともいえるものである。彼は仙台を永住の地ときめ住んでいたが、大正12年3月16日永眠、享年81歳とあり仙台市東十番丁天神下にある栄明寺に葬られている。
時間がなくて行かなかったのですが、
水沢県庁の建物もありました。(こちらは旧登米高等尋常小学校の近くにあります)
宮城の登米になぜ岩手の水沢の県庁が?
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ウィキペディアを参照すると、そのいきさつがわかりました。(以下参照内容)

明治4年1月12日第1次府県統合により一関県・江刺県・胆沢県が統合されて新しく一関県が作られ県庁を磐井郡一関村しました。明治4年12月13日水沢県に改称し、県庁は胆沢郡水沢に置かれる予定でしたが、実際には登米郡の登米県庁として使用される予定で建設されていた建物を水沢県庁として使用しました。
明治8年11月22日 県庁を磐井郡一関村に移転して磐井県に改称。
明治9年4月18日 – 第2次府県統合により、磐井県のうち陸中国部分を岩手県に、登米郡は宮城県に編入されました。磐井県は廃止され岩手県となり、登米はやっと宮城県域で落ち着きました。

そんな紆余曲折の途中で水沢県庁となったということだそうです。


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ありがとう農学部

2016/10/30

雨宮キャンパス感謝祭が10月28日29日30日の3日間行われました。
これは東北大農学部が雨宮キャンパスから青葉山へ移転することになっているので、今までの地域の皆さんへの感謝を込めたお祭が行われたのです。

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この敷地は農学部以前から歴史があり旧制二高が片平から移転して来たのを始まりに一時期は宮城一女高が間借りした。農学部は昭和49年より、以降都会のオアシス的な存在でもあり緑が楽しめるスペースとしても市民に愛されてきました。

旧制二高当時に建てられた守衛所も現存しているのでどうにか残して欲しいです。

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また周囲には当時の赤煉瓦も残っています。

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色が違うのがわかるでしょうか。
新しい部分は寮の入り口だった所を塞いだものだそうです。
建物の中では昔の写真や説明が展示されていました。見にくる人も昔近所に住んでいた人や当時通っていた人など懐かしいという声が聞こえて来ました。

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また仙台の古いものが無くなる、悲しい。
古いものを壊すのではなく活用して町おこしができないものか。
そんなことを考えてしまいます。


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