仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

2021年3月のアーカイブ

3.11 10年前震災時の記憶

2021/3/10

震災前2日前の3月9日のお昼前、
工場で作業中でしたが、大きくゆっくりした揺れがあり、船に乗って波に揺られているようでとても気持ち悪かったのを覚えています。

そして震災当日 その時までの詳しい状況は覚えていませんが私は工場ではなくお店にいました。

突然の大きな揺れにビックリしながらも揺れが収まるのを待ちました。しかし収まるどころか揺れが大きくなりだしたので、
お店にいた年配のお客様に怪我が無いよう守りました。
揺れは止まらず、どんどん大きくなるばかりで、実際のところはわからないですが3分くらい続いた感覚でした。
巨人が大きな手でお店という箱を揺すっているという感覚。
これ以上大きく揺れないでくれ!と思いました。
その直後に電気が消えてしまいました。

その時小学一年生に経験した宮城県沖地震を思い出しました。それより大きく長い揺れに感じました。

収まってからもしばらく震えが止まらなかったです。
状況を全て理解するまで少し時間がかかりました。
店の営業はできないという状況はすぐ理解できたので、店は閉めましたが、
自動ドアを手動で閉めただけで、シャッターを下ろすことはできません。
とりあえず防犯のため大きめの箱を二つ並べて気持ちばかりのバリケードにして、目隠しに紙をガラスに貼りました。

会社の中の状況を確認して従業員をすぐに帰宅させました。
たまたま、小学生の次男が風邪で休んでいて妻も自宅だったので、私は小学生の上の子と保育園児を迎えに行かなくてはと考え、自転車で急ぎました。

小学校に迎えに行ってから
途中のコンビニで食料を買いました。
店内は人がたくさんいて
停電の中アルバイトが電卓を叩いていました。だんだん暗くなってきて「店長もう無理です!」
それを聞いたお客さんがスマホのLEDライトで電卓を照らしていました。

私はどんなものを買ったのかというと、カップ麺とお茶とおにぎりを少し買って、そのほかには調理前のフランクフルトや生鮮食品など他の人が買わなさそうなものを買いました。

それは他の人が充分買えるようにと、そしてお店で食品ロスが出ないように考えたからでした。

その後、保育園に着いたときに
ちょうど妻と会えました。

保育園から家路、
昼間あれだけ天気良かったのに、
気温が急激に下がり雪が降ってきて、(雪で一時真っ白なるくらい)
なんかこの世の終わり感が半端なかった。

家に着いて落ち着いてから、再び自転車でお店へ向かいある程度片付けをしました。

お店からの帰り道、信号もなにも光はありません。真っ暗な中、すれ違う人も本当に近くに来るまでわからないくらい。
ただ夜空の星がとても綺麗だったのを覚えています。

その夜は家族上着を来て電気の無いコタツに入り暖を取り、ラジオを聴きながらおにぎりを食べました。

家には昔買ったオイル式のランタンがあったので使おうとしましたが、いざという時に使えなかった。しかたなくロウソクと懐中電灯で過ごしました。
(後日、ランタンは修理に出し、それからは毎年点検のために一度は点けることにしています。また、反射式のストーブも買いました)

翌朝、カーナビのテレビを見て愕然とした。
大きな津波が街を飲み込んでいく映像が流れていたからです。
(ラジオやTwitterで情報は得ていたはずなのに、津波の情報は知りませんでした)
おそらくこの地震は 43年前の宮城県沖地震と同じかそれよりある程度大きかったかなという印象だったので、その先入観から「津波」という言葉が耳に入ってきていたとしてもそこまで凄いことになっているとは思わなかったのだろう。

しかし現実はとんでもない事が起きていた、しかも宮城県だけではなく広域に及んでいた。
福島の原発の事を知ったのはそれより更にあとだったと思います。

朝食
電気もガスも無かったですが、七輪と炭はありました。しばらく使っていない土鍋を出してインスタント麺を作り、冷凍ご飯も少しあったのでそれも一緒にしました。
解けてしまうのでなるべく冷凍のものから食べるようにしました。
(幸い断水はほんの一時的でほとんど問題無く使えました。しかし近所でもマンションの人たちは給水所を利用していました)

その後 ひとまずお店へ向かい状況確認と片付け。従業員も何人か来てくれました。

一段落したあとはエスパル店とモール店へ向かいました。途中状況確認と情報収集も兼ねて自転車で移動。

被害の酷いところは写メを撮りTwitterに上げ注意喚起したり、炊き出しの情報をツイートしたりした。

3日後から店を開けた。
震災直前にちょうど物産展用の出荷の準備をしていたので商品は売るほどありました。このままにしててもダメになるだけなので、店を開けることにしました。

スーパーやコンビニに1〜2時間かけて並ぶような状況下でお菓子を買いに来る人はいるのだろうか?と不安もありましたが、思いの外お客様が来てくれました。ちょうど甘いものが欲しくなってきた時期だったらしいです。

しかしそれでも物産展用に準備していた商品は捌き切れそうになかったので、それならば寄付した方がずっといいと考えました。
当時所属していた仙台青年会議所では避難所へ食料など物資の調達を会員等より集めて行っていました。それと一緒に届けてもらいました。

店はしばらく販売のみでしたが、その後ゆべしの製造も少しずつ開始しました。ガスが未だダメなので、鋳物コンロの代わりに家庭用の火力の弱いカセットコンロを試用して行いました。蒸す際の蒸気の燃料は灯油なので問題ありませんでした。

やはりガスが使えないのは色々な面で不便でした。早く復帰してほしかったですね。Twitterで「○○地域ガスが通った!」というツイートを見ていたので、全国からガス局の人達が地道に頑張っているのは知っていました。
早くうちのところへも来ないかなと、Twitterの検索欄に近くの地名の「柏木」と入れて何度も検索しました。しかし出てくるのはAKB48の「柏木」由紀さんのツイートばかり…。
震災から1ヶ月後やっとガス局の人が来てくれました。その人は神に見えました!

一番の喜びはお風呂に入れることでした。

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はじまりのごはんnewszero
https://twitter.com/ntvnewszero/status/1369663080955797510?s=20


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