仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

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仙台の西四番丁はどこにある

2018/4/10

北四番丁 東二番丁 はあるけれど西と南は?
熊谷屋は北四番丁通りから青葉神社方面へ少し入ったところにある。
地下鉄北四番丁駅は北四番丁通りと東二番丁通りの延長(勾当台通り)との交差点にある。
多少無理矢理な話の入り方だが、
まず北四番丁の「丁」は侍屋敷が並ぶ通りを指し、北鍛冶町などの町は商人などの住む通りを指します。
東二番丁も然りで、東に行くにしたがい三番丁、四番丁…と付けられ、北も一番丁、二番丁…とある。(東一番丁は現在東一番町変わっている)
では西二番丁や南四番丁とかもあるのでしょうか?今まで聞いたことがありません。西と南は無くて北と東だけなのです。片方だけってなんか変な感じがします。北鍛冶町に対して南鍛冶町がありますし(元の鍛冶町が北と南に別れた)、対になっていないのはなんか気持ちが悪い。
実はちょっと考えればわかることなのですが、これは仙台城のある地形を中心に考えると合点がいきます。仙台城は青葉山にあり自然の要害とも言われています。前には広瀬川、後ろには竜の口渓谷の断崖絶壁、城下町はそんな広瀬川を越えた向こう側につくられました。無論断崖絶壁に町は作れないので自然と城の東側、北側となるのです。
そして開府当初の仙台藩の城下町の一番外れは現在の市役所がある辺りです。時代とともに城下町は拡張され東へ北へ徐々に広がりそれぞれ一番丁、二番丁、三番丁…、と新しくできたのです。
これですっきりしましたでしょうか?
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「風の時編集部」より

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古城の梅

2013/11/11

去年は時間がなくて見れなかった臥龍梅、今年は見ることができました。
若林にある宮城刑務所の敷地の中にある臥龍梅、11月の矯正祭で見学するとこができます。

さらに今回はちょうど発掘調査をしていたので、それも見ることができてラッキーでした。

大きな門をくぐって最初に目にするのは左右に大きく手を広げたように伸び続ける松。水平に伸びた枝の長さは15m、14mと非常に長い。種類は黒松であるが土井晩翠に「蟠竜の松」と名づけられた。

(「杜の都の名木・古木」より)
その松の先には発掘調査が行われている場所。
ここは政宗公が晩年過ごした若林城でその跡に刑務所が建てられた。老朽化と地震の影響で立て直すことになったが、若林城ゆえ発掘調査が行われたという次第。そこに行くと各作業員が説明してくれました。刑務所の外を流れる六郷堀が城内にも流れていたことを示す痕跡が見つかったとのこと。26日の新聞にも載った。
若林城は仙台藩祖 伊達政宗が仙台城築城後の寛永5年に「仙台屋敷」として造営した城で、晩年の政宗公は若林城を仙台での居所としました。寛永13年に政宗公が死去すると、遺言により城は廃絶され、『伊達治家記録』によると、城内の多くの建物は寛永15年に二代藩主の忠宗公が造営した仙台城二の丸に移築されました。その後、城跡藩が営む薬園となり、明治12年に宮城集治監が置かれました。
城跡の規模は東西420m、南北350mもあり、本丸部分としては他の大名の居城にも匹敵する広さがあります。周囲には高さ5mの土塁と外側には幅約20mの堀跡が巡り、土塁や門の配置から、戦を意識した城とも言われています。
(若林城跡発掘調査 第13次 遺跡見学会資料より)
そのあと受刑者の作業場を見学、ここは家具など木工用品を製作する場所で、なかなか年季のはいった建物だ。大きな体育館のようでもあり、その天井を見ると天井裏は木の板、また、天井から鉄の骨組みのような感じのものがぶら下がっている感じ。
作業場の次はいよいよ臥龍梅。
残念ながら花の時期には見ることはできないが見事なものだった。昭和17年に国の天然記念物に指定されて以来、刑務所の人も手入れをすることができず枝は伸び放題。(写真ではわかりずらいが)柵をかなり超えて枝を広げている。しかしながら老齢で花は年々小さくなっているのだそうだ。

(「杜の都の名木・古木」より)


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盡忠(じんちゅう) 伊達安芸宗重と涌谷要害

2013/6/1

伊達安芸という人物は伊達騒動(寛文事件)の中心的人物で、伊達兵部宗勝と争い最終的に兵部派の原田甲斐の乱心により殺害された。 今回、涌谷町立史料館にて伊達安芸ゆかりの品を5月末まで特別展示しているというので行ってみました。 まずは伊達宗重公祀り神号を赤心猛雄命と称する涌谷神社を拝観。 伊達安芸宗重公胸像 一応、涌谷町立史料館と読みます… 涌谷町立史料館は涌谷伊達家の城跡にある天守閣を模した建物で… 隣には仙台藩に残る貴重な天保4年(1833)建立の鼓楼建築の櫓があります。 あとから知ったのですが、涌谷町立史料館は震災で旧館していて今年4月15日に再開館したばかりだったそうです。 史料館に入り目当てのものは2階にありました。 それは「盡忠」の掛軸と銘舎利容器。 「盡忠」の掛軸は伊達安芸の死後、伊達家四代目綱村が宗重公の忠勤を讃え自らの筆で書いたもの。 写真では見たことありましたが本物を目の前にして何とも言えぬ感動です。 寛文事件の集約がこの二文字に表れているようにすら感じました。 そしてさらにもう一つ、 宗重の分骨した遺灰を収めたとされる香炉および曲げ物の容器。 これは震災の影響で見龍院にある涌谷伊達家墓所の門脇に立つ石造五重塔がずれたため平成24年7月に修復するのに解体したところ内部から偶然発見されたものだそうです。 とても綺麗な状態で保存されています。 その他にも史料館には畳4〜5畳くらいはある当時の領地を記した地図があり、とても見応えのあるもので、現在の仙台市内の地名も当時は村であったことが伺えます。 この地図は仙台藩全領土が描かれており北は岩手県水沢辺りまで載っていました。 そして寛文事件の発端のひとつとなった桃生郡(登米)の伊達式部と遠田郡(涌谷)の伊達安芸が新田開発の際に領地境を争った名鰭(なびれ)沼がその地図で確認できたのが嬉しかった。 ちなみに3階は展望室になっていて見晴らしが良かったですよ。 感動覚めやらぬまま、次はいよいよ伊達安芸の菩提寺である見龍寺へと向かかいました。 こちらが見龍廟の門です。 そして脇にあるこの五重塔の中から遺灰が見つかったのです。 この塔は伊達安芸宗重の三回忌に建立されたそうですが、本塔は両墓制における参り墓のような役割を担ったものらしいです。三回忌に…、ということはそれまで遺灰をそのために取っておいたのかそれとも建立時に霊屋から取り出したものなのか、どっちだったのだろう。 中も是非見たいなぁと思ったのですがあいにく門は閉まっていました。そして住職さんも留守のよう…。 たまたまお墓参り来ていた方に話を伺うと普段は開けていないが住職さんがいれば開けてくれるとのこと。 遥々来たのに見れなくて残念です。 仕方がないので塀の上から写真だけ撮りました。 どれがどれだかはわかりません…。 今度、また見龍寺に来よう。そして次回こそは見れますように! 涌谷はとてもいい町でした、自然もいいし、町もレトロな感じで良さそうなお店がたくさんありました。 今度、ゆっくり見て回りたいですね。 登米も行きたい、原田甲斐のお墓があるので。
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城下町 白石

2013/4/18

白石城
あまり下調べする時間がなかったので完全にたんなる観光客として行きましたので、会えて歴史には特に触れずお話します。
平成7年に完全復元された白石城天守閣。
行ったのは4月の中旬、天気がよく 桜も満開で、絶好の花見日和でした。
早めに出発し9時過ぎについたのにもう駐車場はけっこう埋まっていました。
駐車場からはお城へと続く道、城来路(シロクロード)が。(笑)


さっそく天守閣に入った。天守閣内の床は和釘※で打たれ、木が割れないように交互に打たれているのだそうだ。


中の階段は天守閣によくあるように急である。

天守閣からの眺めはいいもんですよ。

みんながお花見をしているあたりが元の本丸跡だったようです。



天守閣をあとにしてミュージアム シアターに向かったが上映時間の都合上諦めました。チケット買って失敗した、上映時間のチェックをしておけばよかったです。

天守閣下の神社へ行ったあと、武家屋敷に向かおうとしましたが、場所がよくわからず遠いのかと思い車で移動しました。
武家屋敷は質素な作りが白石の特徴だそうで、だけどなんだか長閑な雰囲気がとても落ち着きます。




結局武家屋敷までは歩いて行ける距離で、道中お堀が流れていてとてもいい景色。
散歩コースにはとてもいいですね。
ちなみに自転車も貸し出しているのでサイクリングしてみるのもいいですね。

こんなお堀が城の周り、街中を通っているなんて不思議な感じ、仙台の四ツ谷用水もこんな感じだったのかなと思いを馳せてみる。
天守閣、ミュージアムシアター、武家屋敷とセット料金で600円とはとてもお得です。お得すぎます‼
ひととおり見たあと帰る途中、寿丸屋敷※を見つけたので入ってみました。
そこでは「八重の人生を変えた戊辰戦争展」が行われてました。

お昼に温麺を食べようと思いましたがどこもすごい行列で入れませんでした∑(゚Д゚)
ですので、お土産に白石温麺を買って帰りましたよ〜。けっこういろんな種類があるんですね、迷いましたぁ。
とてもいいところですね、気に入りました。また行きたいです。
余談
白石駅前に小十郎プラザがありますが、そこの店員さんに聞いた話では小十郎ファンの集いの場ともなって中には2時間もそこでファン同士で盛り上がっているそうです。
和釘※
一本一本手打ちで仕上げる和釘はの場合は、軸全体に微妙な凹凸が付き鉄を真っ赤に焼き鍛えることで和釘表面に酸化被膜が形成される。これにより木材に打ち込まれた後でも錆びにくくなる。
寿丸屋敷※
明治中期に建てられた豪商の町屋建築

 


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コメント (2件)

  1. 火造りのうちやま 内山立哉 より:

    初めまして、白石の武家屋敷情報ありがとうございます。
    白石城の和釘を製作しました、新潟県三条市の火造りのうちやまと申します。
    白石城再建後現場確認をさせて頂きましたが、時間がなく、武家屋敷までは見ることが出来ませんでした。
    近いうちに再び訪れたいと思います。

    1. admin より:

      コメントありがとうございます。
      職人さんからいただくとは思っていませんでした。

      見学していろいろボランティアさんの説明を聞くと奥深いですね。勉強になります。
      ぜひ武家屋敷も見に来てください。

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北目城と北目町

2012/9/1

現在の仙台市太白区郡山にあった北目城。 現在は鬱蒼とした雑草が生い茂っている一部の土地が北目城跡として残っているが、ご覧のとおり外からは何も見えないのが残念だ。(鹿又交差点手前) この城はもともと豪族粟野氏の居城だった。寛正年間に茂ヶ崎城(大年寺山あたり)から移城した。 そして天正19年(1591)伊達政宗に敗れ支配下となった。 この時の北目城攻略の逸話で毘沙門天の話がある。 政宗が兵を送ってもなかなか落ちなかった北目城、粟野大膳が毘沙門天を篤く信仰していてそのご加護のせいだと考え、政宗も毘沙門天に「もし北目城を落とせたなら、城下に毘沙門堂を建てて厚く奉じよう」と願った。 その甲斐あってみごと勝利を収めた政宗は自分も同じように敵から毘沙門天に願をかけられては己が危ういと、約束を反古にして毘沙門天の像を堀に捨ててしまったという。 それを憐れんで町の人たちが毘沙門天を拾って祀ったのが荒町の毘沙門天堂といわれている。 ちなみのそこに祀られている毘沙門天様を拝見するには12年に一度の寅年に行われるお祭りの日しかないのだという。(お祭りは毎年行われている) 残念ながら私がそれを知ったのは寅年が過ぎたばかりであった。しばらく待たなければならないのだ。 北目城はその後伊達政宗が慶弔5年(1600)関ヶ原の戦い前哨戦の白石攻城の際の拠点となり、 そして戦後も岩出山には戻らず北目城にて仙台築城の構想を練った。 その後、村民は仙台城下に移り住み、その場所が現在の北目町だそうだ。
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