*寛文4年(1664)の城下絵図
寛永20年(1643)ヘくり沢に土橋を作り土橋通に繋がる。このことで北三番丁と中島丁が通じた。
明暦2年(1682)土橋から十二軒丁へ通じる道、切通が作られる。
*元禄年間初期(1690年前後)の城下絵図
この地図を見るとさらに中島丁辺りからヘくり沢沿いに南下する道ができている。
元禄8年(1695)土橋から南下する道、そして川内へと渡る橋が架けられる。これが澱橋だが現在のものとはかなり異なる。そして橋の北から東へ曲がる道を作った。(新しくできた坂ということで新坂と名付けられた。新坂通はここへ通ずる道)
*寛政年間初期(1800年頃)の城下絵図(仙台市博物館所蔵)
*明治26年(1893)の地形図
明治10年~20年、土橋と切通を改修して北三番丁と十二軒丁をまっすぐに繋げて、澱橋から土橋に繋がる道をこの道に丁字になるように接続させた。
これがほぼ現在の形になるのです。
ちなみに元禄8年に架けられた澱橋はその後流されたりしながら改修を重ね土橋から中島丁に続く道の延長に架けられた。(明治26年の地形図参照)しかし現在はほぼまっすぐに澱橋へと続いている。(昭和39年「仙台市大鑑」参照)その名残として昔の橋げたが今もあります。
*昭和39年「仙台市大鑑」より
昭和14年(1939)市電を通すために北四番丁を西に伸ばして八幡町と繋げるために、ヘくり沢を暗渠にする工事が始まり、昭和15年に八幡町まで道は繋がった。
第二次世界大戦後、瓦礫を用い土橋付近のヘくり沢を埋め立てて、昭和30年代にはそこに住宅が建てられた。
現在、土橋から土橋通へとまっすぐ道をつなげる工事をしています。これがつながれば正真正銘「土橋通」になりますね。
9月12日に行なわれた講座は無料で定員無しだったこともありかなりの人が集まりました。市民センター側も予想以上だったようで急遽テーブルと椅子を用意しましたが、それでも間に合わず一番後ろは椅子のみで、60人くらいは集まったでしょう。年代は私よりずっと先輩の方がほとんどでした。
約2時間菅野先生のお話を聞けて有意義な時間を過ごせました。また講座後に菅野先生とお話しできてよかった。
↑まだ余裕がありますがこれは30分前です。
菅野正道氏
へくり沢の地図
最後にへくり沢の暗渠を歩いていました
下の画像をクリックすると映像が見れます。
ヘくり沢(3)~ ヘくり沢と土橋、その周辺の変遷
2013/9/27
コメント (2件)
はじめまして、松井といいます。今年2月27年ぶりに仙台に戻ったものです。朝通勤時に土橋ー澱橋を通るようになり、その道の曲がり、起伏が懐かしく、そして桜の土橋の風景に思わず目を奪われていました。そのたび「きっとここは、江戸時代からの道に違いない!誰か由来を教えてはくれないだろうか・・・」と思っていました。由来が大変よくわかりました。ありがとうございました。
改めて仙台の町を歩くと、戦災で残った地域の道はとても味わい深く感じています。気になる箇所がいくつかあるので、今度は私も自分で調べてみようと思います。本当にありがとうございました。
p.s お菓子のほうも食べようと思います。
松井様 コメントありがとうございます。仙台には一見不思議な場所がたくさんありますよね。ちょっと視点を変えるといろいろなことが見えてきます。これからもよろしくお願いします。