仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

カテゴリ:歴史

仙台のキャバレー  遠く昔の記憶を辿れば…

2015/2/15

先日お寺の新年会があり他の檀家さんとお話しする機会がありました。
私は初めての出席で皆私より大先輩ばかりでしたが、皆さん優しい方でお話にも参加できました。

いろいろな話をしてる中で、昔 貴重な焼物の人形を収集している方がいたという話になり、その収集家の女性が錦町にあったクラウンというキャバレーでNo1の売れっ子でねぇという話を発端に当時のキャバレーの話で(お酒も入っていたので)盛り上がりました。

錦町にあったのは何て店だったか?確かクラウンだな。
二日町にもあったよな。えぇと…なんだっけ、そうそうソシュウって名だった。

私の生まれるずつと前の話だったのでもちろんぜんぜんわからない。ただ聞きながら現在のどこにあったんだろうというのが気になり始めました。
二日町?ソシュウは二日町のどこにあったんですかと聞くと今のパチンコ屋のところだよと。

あそこは私の小学校の頃の記憶だと(キャバレー)ニュージャパンがあったのを覚えています。よく家の窓から見える煌々と光る大きな赤と白のニュージャパンのネオン看板が印象的でした。
蘇州(ソシュウ)があったのはニュージャパンが出来る前のことだったのか…。

他にもニューフロリダとういうキャバレーがあったそうです。

これら以外にへぇー面白いと思ったのがタイガーというキャバレー。
タイガーは現在のメディアテークの場所にあったそうで、現在のメディアテークの前は仙台市のバスの車庫で、さらに前はパチンコ屋。


そのパチンコ屋の名前はタイガー春日町店。
キャバレーをやめてパチンコ屋になったそうです。
その場所にもうパチンコタイガーはありませんが、パチンコタイガーは今でも仙台市内にあります。

国分町にもパチンコタイガーがありますが、ここも昔はキャバレーがあったとかないとか。

 


コメント (18件)

  1. 佐々木一雄 より:

    子供の頃、家の近くにGI相手のダンスホール蘇州がありました。向かいは錦映画館で、10年以上もたった頃、クラウンと言う名に変わり、さらに10年もして二日町に、ニューソシュウと言うディスコができてました。湾曲したメタルな壁で、向かいの家は反射で大変だったとか!

    1. admin より:

      貴重な情報ありがとうございます。蘇州は錦町にあったのですね、それがクラウンの前進(?)
      二日町はニューソシュウというディスコだったのですね。
      ダンスホールとディスコをキャバレーの類に入るのか私にはわからないので、引き続き情報があれば知りたいですね。

      ちなみに39年の地図で二日町を見ると現在パチンコのパラディソがある場所は「宮城木材KK」と表記されており、この年はまだ存在しなかったのかと思われます。
      その後のニュージャパンは、ニューソシュウの「ニュー」を継承しているのかと勝手に想像します。
      ニュージャパンのネオンも煌々として不夜城の如くだったことを思い出します。

  2. 宇宙大好き爺 より:

    昔話を聞いて頂き嬉しいです。
    ソシュウを閉めた後、ゲームセンターが同居したボウリング場を始め、ボウリングが下火になって、キャバレーニュージャパンを始めました。その当時は、まだパチンコは本気でやってるようには感じませんでした。まっ私の印象ですが。はや半世紀も前の事です。

  3. 井上研一郎 より:

    学生時代、熊谷屋さんの向かいの晩翠荘に一年半ほど住んでいた者です。ソシュウのことはボンヤリ覚えています。今のパラディソの向かいあたりにあったと思います。通りの東側でした。

    1. イソイソ より:

      ソシュウの8周年の花瓶が我が家に有ります!

      1. admin より:

        素晴らしいです。できたら写真みたいですね。

        1. 宇宙大好き爺 より:

          今年64才になる仙台在住の爺です。
          ソシュウは今のシャンボール二日町の所にありました。私の母が勤めてました。
          ソシュウを閉めてから、今のパラディソ二日町の所にボウリング場を扇屋商事は作りました。フェニックス66という当時東北最大でした。その後ニュージャパンに変えました。
          1階はパチンコでした。
          ボウリング場です高校1年の私がアルバイトしていたので間違いないです。
          懐かしい記憶がよみがえりました。

          1. admin より:

            今のシャンボール二日町の所とは市役所寄りのレンガ調壁面の建物でしょうか。扇屋商事の表札があるので事務所が今でもあるのでしょう。
            ずっと、パラディソの向かい辺りかと思っておりました。教えていただきありがとうございます。
            ソシュウとニュージャパンは系列店だったということなんですか。

        2. イソイソ より:

          写真を送るのはやり方がわからないので携帯のアドレス書いておきます 
          興味がありましたらメール下さい、メールには添付出来ます!当時の写真から判断すると蘇州は私の父がマネージャーだったと思います

          1. 田中弘美 より:

            私の父が写っているか、わかりませんが、写真欲しいです。当時は写真が高く、数枚しかありません。バンドメンバーも、ほとんど記憶にあります。写真が凄く欲しい。どうぞ、よろしくお願いします。

          2. 田中弘美 より:

            ソシュウのドラムの娘です。あまりにも懐かしくコメントしました。小柳るみ子さんがソシュウに来たとき、小学生だったので、リハーサルをみせてもらいました。父はかっこよかったです。享年51歳で、かっこいいままなくなりました。

    2. admin より:

      コメントありがとうございます。
      もしかしたら現在駐車場になっているところ当たりなのかもしれませんね。

  4. 蛇 頭 より:

    コメント、失礼します。
    昔、「ニュージャパン」ってキャバレーに通ってました。

    その当時の事が気にかかり、ググってましたら、
    こちらにたどり着きました。

    私、現在55歳でして、
    当時は、19~20歳でした。
    当時は、自衛隊に勤務してました。

    その後、東京で「ホテル、ニュージャパン」の火事で、
    地元にUターンして、ニュージャパンを懐かしく思い出して、はや、35年。
    当時のネタ、あれば調べたいです。

    1. admin より:

      コメントありがとうございます。
      ニュージャパンがいつまであったかという正確な記憶はありませんが、「ホテルニュージャパン」の火事のニュースがあった当時、同系列のホテルなのかなぁと小学生の私は思っていましたが、
      実はキャバレーたったということはかなり後から知りました。
      1階はゲームセンターだったことは覚えてます。

      なかなか調べようにも資料が無いですね。当時を覚えているからお話を聞くしか…。

      1. 蛇 頭 より:

        管理人さん、わざわざ返信下さいまして、有難うございます。
        私の、遠い記憶の思い出話しに付き合って下さいまして、嬉しいです。
        ちょっとだけ、話しさせて下さい。

        話しの舞台は、昭和58〜60年になります。
        まだ、18〜20歳までの年齢です。
        私は、高校を卒業して多賀城の自衛隊に入隊しました。
        出身は、宮城県の隣県です。

        普段から、柵に囲まれた生活をしてまして、唯一の楽しみと言えば、週末の外出です。
        東北の繁華街、仙台市の国分町でした。
        しかし、ニュージャパンは、国分町から離れた場所でした。
        確か「木町」「二日町」のどちらかでしたね?

        宮城県民会館を目印にして、ずっと奥の方に行きました。
        白い建物で、真っ赤なデカいネオン看板に、
        「世界の社交場、ニュージャパン」
        と、あった記憶があります。

        管理人さんの仰る通り、1Fはゲームセンターでしたね。
        長い一本のエスカレーターが有り、昇ると「ニュージャパン」でしたよ。

        書いてると、少しづつ思い出して来ました。
        長くなるので、また、来ます。
        よろしくお願いします。

        1. admin より:

          煌々と光るネオン看板を毎晩、部屋の窓から見ていました。(自宅が目と鼻の先なので)
          けっこう芸能人も来たと聞いています。

  5. アルサロ天国 より:

    駅前には、アルサロ「天国」があり、パチンコ屋の裏に怪しい「未亡人クラブ」
    がありました。

    クラウンとタイガーが覇権を競っていましたが、
    ニュージャパンの出現で、女性の移動が凄かったです。
    ニュージャパンの女性は、その当時出たばかりの
    ポケベルを持たされていました。吃驚です。
    ホールは野球場の階段状になっており、凄かったです。

    当時は、どこも生バンドがあり、そのバンドをバックに
    歌うのは、とても気持ちの良いものでした。

    空襲で焼けた仙台市長車のエンブレム
    http://blog.goo.ne.jp/mbne230/e/c61d718af840bfbfc8e0cf0794dc9d40
    文化横丁
    http://blog.goo.ne.jp/mbne230/e/6805309eb0157be3e2c4627079b173e1

    1. admin より:

      こんにちは。
      学生時代に仙台で過ごされたんですね。
      この時代をお過ごしになった方のお話はとても参考になります。

      ありがとうございます。

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日本初の近代港は宮城県だった  ~野蒜築港~

2014/12/1

昔、野蒜海岸に港を作る計画がありました。いわゆる野蒜築港です。
(野蒜は日本三景の一つ松島の北側に位置する)

明治初期石巻港が北上川上流からの土砂の堆積により河口港としての機能が低下したため、新しい港の建設が必要となりました。
明治政府による日本初の近代港として着工された東北一大事業が野蒜築港です。
下の写真の新市街地とは野蒜築港事業によって新たにできた、鳴瀬川と新鳴瀬川分流に挟まれた市街地のことです。


事業は明治11年から始まり、明治15年に完成したが、明治17年9月の台風により被災し機能を失い、また修復には多額の費用がかかるため事業は断念されました。

現在でもその遺構は残っています。
当時の新市街地跡から新鳴瀬川に架けられた橋の赤レンガ造りの橋台跡、
(東日本大震災の)津波で上の部分はさらに侵食されたようです。

 



新市街地跡にある記念碑と当時使われたローラー。
ローラーの側面には「土木」の文字が見られる。
記念碑もローラーも一度津波で流されたのを元に戻したようです。

 


野蒜築港に伴い東北初の気象観測所となる測候所設置され、その跡地。



津波で削られたレンガが砂や他の瓦礫とともに散乱している。


津波の後以前の風景とは異なり遺構を探すのに少し苦労しました。





瑞鳳殿の参道の入り口すぐ左手に「鹿児島県人七士の墓」というものがあります。
宮城県監獄署に収監された薩摩藩の西南戦争政治犯たちも人夫として野蒜築港に尽力したそうです。

 


この薩摩の政治犯を率い野蒜築港の煉瓦(レンガ)製造技術を伝え、仙台に煉瓦建築をもたらしたのが煉瓦技師の植木留吉という人物です。

東京から来た留吉は仙台で独立し、仙台初の煉瓦工場を建て、仙台初の煉瓦建築は警察署だったそうです。その他にも裁判所、大学の煉瓦建築に携わったそうです。

この煉瓦会社は当時土樋のあたりにあったそうですが、広瀬川の洪水で会社が流されたのちに北山手前の木町に移転しました。


これが植木瓦店だったのです。→/blog/1950
こんなにも身近なところと野蒜築港が関係していたことを知ってとても驚きました。

 


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神子町に瓦屋の名残はあるのだろうか

2014/11/22

最近までに新坂通に陶八という陶器屋さんがありまして、茶碗などの陶器をお店で販売していました。

陶八は始め神子町で瓦を作っていましたが、のちに焼き物のコンロ、つまり練炭コンロや七輪を窯で焼いて売っていました。
時代が変わり、その後土物卸売(陶器などの卸売)に転業しました。
その後現在の場所に移転。

陶八は松岡家の藤四郎がが庄子家のトワに婿入りしたのが始まりで、松岡家も庄子家も四代藩主伊達綱村公に仕えた瓦師の家でした。
陶八は最初庄子陶器だったが藤四郎の子藤八郎にちなみ陶八と屋号を変えたそうです。
その陶八はその後新坂通に移り、数年前まで陶器屋として店を続けていましたが、その後店を閉め、
現在は建物の上の看板だけが当時の面影を残す。



ではもうこの近辺には瓦屋(もともと神子町で瓦職人をしていた)はないのでしょうか?
探してみると北山トンネルの出口手前に一軒ありました、植木瓦店という瓦屋さんです。
ここも昔神子町から移転してきたのでしょうか?
聞くところによるともともと東京から来た人なんだそうです。
(アパートと蕎麦屋の奥、看板はアパートのベランダに「植木瓦店」とある)


今では瓦を作るところは東北ではほとんどなく、大部分を愛知などのメーカーで作られたものを取り寄せて使用しているそうです。植木瓦店は現在、瓦に限らず屋根全般の施工を請け負っているとのこと。

残念ながら神子町の瓦屋はもうないようです。


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神子町 は瓦の町でした

2014/11/20

神子町(みこまち)は北九番丁にある神子神社のある辺りで、寛文12年(1672)から元禄3年(1690)の間に町割りがされた。つまり開封後しばらくしてから城下町に加わった地域です。
北八番丁から北九番丁(神子町)へ向かう道、通町小学校西側の神子町通が広いのは昔四ッ谷用水が流れていた名残でしょうか。



神子町とういう町名は朝日神子(あさひみこ)が住んでいたことに由来するそうです。
この神子(巫女)は二本杉通りにある朝日神社の神子で町割りをされる以前(寛文年間)の時期に、付近の田野の開墾利水を考えて桜田川と梅田川を開き耕作に便を与えたそうです。村人は朝日神子を崇敬し、のちに伊達氏により祠がこの地に建立されたらしい。
(桜田川がどこかは不明)

(朝日神社について→/blog/619)


この辺は瓦造りに適した土が採れたこともあり、神子町は藩営の瓦場が設けられたくさんの瓦職人たちが住んでいたそうです。
現在でも残っている瓦屋さんはあるんでしょうか。

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松島 円通院

2014/10/26

10月の終わりの日曜日、松島の紅葉はどうだろうと出掛けました。

瑞巌寺の隣に位置する円通院はまだ訪れたことがなかったので、紅葉の時期はさぞかし綺麗だろうと期待して訪れました。

松島町指定文化財・円通院本堂は映画「蜩の記」のロケに使われ、もともと仙台二代目藩主忠宗公の子で光宗の江戸での納涼の亭でした。光宗は19才という若さで亡くなり、それを悲しんだ忠宗公が正保4年(1647)、解体し江戸から移築したもので、「大悲亭」と名付けられました。

 




紅葉はまだまだでしたが、緑の苔や竹林がとても素晴らしかった。
この庭は小堀遠州作といわれています。

 

 


途中薔薇園がありましたが、寺院に薔薇園?となんとなく不思議に思いました。
(薔薇園の写真を撮り忘れてしまいました)


庭園の奥には三慧殿(さんけいでん)という御堂がありその中には光宗の御霊屋があります。
この御霊屋は国定指定重要文化財になっていて、大悲亭移築の一年前に建立されましたのですが、これに使われている装飾はとても変わっていて、洋薔薇や、水仙、トランプの4種のマークなどが描かれていました。

 


これはローマを象徴する薔薇、フィレンツェを象徴する水仙など支倉常長の慶長遣欧使節が持ち帰った欧州の文化が描かれていたのです。
しかし、当時鎖国制度が施行されていたため扉を開けることがなかったそうです。
そうしたこともあり、中の装飾の色彩が現在も当時のまま鮮やかに残っているそうです。

また忠宗公も常長の功績、父政宗公の思いたを酌んでいたのかもしれませんね。


これで薔薇園も納得しました。


紅葉のライトアップは11月に行われてるそうです。


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日本初の公共図書館「青柳文庫」は仙台にあります

2014/9/2

先日たまたま一関博物館に行った時に
新一関図書館オープン記念でテーマ展が開かれていて
ちょうど学芸員が説明をしてまわっているところに参加することができました。

テーマ展の内容は「版木と和本の世界」というもので
かの大槻家の旧蔵していた版木を中心に展示されていました。
建部清庵の「民間備荒録」や大槻磐渓の「合衆国小誌」や蘭学の本、
そして田村建顕に関するものまで様々でした。

当時の製本する際の木版が展示され、中でも蘭学や詳しい地形を記したものは見てて気が遠くなるほど細かく彫られていました。もちろん1頁で色別に数種類作られます。これは元の絵を描く人より彫る人の方がすごいのではと思うほど見事なものでした。

学芸員の説明を聞いていると何か聞き覚えのある名称を耳にしました。
それは「青柳文庫」日本で最初の公共図書館です。

どこにあるのかと申しますと現在大きなビルが建っている仙台の一番町4丁目にある東二番丁スクエアの場所です(元仙台中央警察署)。


ここには看板と本の形をした碑があります。


一関に来て仙台のしかも近所の話を聞くとは思っていませんでしたので驚きました。
実は青柳文庫を作った青柳文蔵という人物は松川村(現一関東山町松川)出身だったのです。松川村は一関藩と仙台藩の境目で彼は仙台藩の人間で医業を営む家に生まれました。医師の勉強のため江戸へ行きましたが生活費などを稼ぐために仕事が忙しく、また本を買うお金もなく志半ばで医業の道を諦めざるを得ませんでした。しかしその後公事師(弁護士)になり、かたわら金融業で財をなすこととなりました。
お金がなく学問を諦めなければならなかった過去を悔やみ、これまで買い求めて来た書物を千部余り献上して文庫を創設しました。

当時の青柳文庫の建物(東二番丁スクエア建設の際展示されていたもの)
入り口のひさしは東山図書館の入り口に再現されています。
http://www.library.city.ichinoseki.iwate.jp/guide/higashiyama/index.html



過去に閲覧できる書庫はありましたが、みな城内や学内など限られた人しか借りることはできませんでした。
青柳文庫は仙台藩の医学校構内に創設されたものの身分に分け隔てなく学問を志すもは誰でも借りることができ、これが公共図書館の始まりとされています。(明治維新まで存続)

私は場所こそは知っていましたがどこの誰がどういういきさつで建てたのかまでは知りませんでした。公共のものだから公共の機関が建てたのだろうぐらいにしか考えていませんでした。
天保二年に創設され文蔵は天保十年に亡くなったので晩年のことでこれまでの悔しい想いが果たされたことでしょう。


しかし本来であれば文蔵の願いは郷里松川村に青柳文庫を創設したかったと。
文政十二年9月27日に仙台藩に提出された伺書にその旨が書かれていたことが大槻文彦によって記録されています。しかしながら藩に却下され仙台城下に変更になった。
文蔵は文庫の創設と同じ年に松川村に、凶作に備えた籾倉(もみぐら)である「青柳倉」を設けています。これは東山の百姓のうち困窮している者に低利で貸し付け、秋に収穫した物で返済し倉庫に蓄えることで、図書館の費用にあてたそうです。また万が一飢饉の際は百姓を救うためにそれらを使用することとしている。文蔵の郷里への想いがわかります。
ここでおもしろいのは「(飢饉の際は…)但し、一関藩領は除く」とあるところで、松川村は一関藩領と仙台藩領が混在しているところからそのようになっているそうです。

上記の願いを書にしたためた伺書は先に述べたとおりですが、この時一関博物館に展示されていた物は同じ内容で伺書より以前に書かれたと思われる内容のもので一関藩の留守居役を勤めていた須藤家に伝わる屏風の下貼から発見されものでした。
「乍恐以書付奉願候(おそそれながら かきつけをもって ねがいたてまつりそうろう)」
東日本大震災で建物を解体するにあたり一関博物館に屏風が寄贈され、痛みが激しかったため解体したところ中から出てきて見つかったそうです。
しかしながらいつ書かれたものか、文蔵の直筆なのか、なぜ一関藩の留守居役が持っていたのかはこれから調べて行くそうです。

いずれにせよ、たまたま行った博物館で震災で偶然見つかった資料をたまたま説明を受け、それが偶然近所の話で、仙台と一関がつながって…そんな一日でした。


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仙台の街中(まちなか)に村と村の境があるの? (荒巻村)

2014/7/22

二日町の裏の方にある公園内に小さな祠がある。
その名も村境榎稲荷明神。
村境って街中のこんなところが村境だったの?
どことどこの村境なの?

 



祠の傍にある石碑をみると
もともと荒巻村と小田原村の境にあった明神だったとか。
それが現在の仙台市役所の北東に祀られそこには大きな榎(えのき)があったそうです。そして当時 そこは荒巻村と仙台との境になっていたそうです。

仙台地名考によると
荒巻は荒牧とも呼ばれ北東は東照宮の小田原から東六番丁沿いに南は現在の荒町、芭蕉の辻を中心に米ヶ袋・川内、国見、現在の荒巻本沢〜杉山(台原)ということですからかなりの範囲だったのでしょう。
現在でも荒巻の地名が残っているところがあります。
北山の奥の荒巻本沢 荒巻中央 荒巻神明町の他
国見の 荒巻西雷神 荒巻仁田谷地 荒巻坊主門、
そして青葉山一帯の荒巻青葉。

仙臺開府の際荒巻村の一部を取り入れ、現在の仙台市役所の北東が村境になったという。

最初の荒巻の範囲を上記の説明に沿ってだいたいの範囲を描いてみると以下のようになるのか?(大雑把なので間違いもあるだろう)


荒牧は粗蒔(あらまき)で自然に生い茂った草原、なので荒巻は完全な当て字と言えます。字からも想像できるように荒牧は広大で良質の牧草地帯だった。
ここで陸奥の良馬が育ったのだろう。


話は戻り、榎の木は一里塚としても利用された木で、大きく葉もモコモコとしていて遠くからも確認できるからだろう。現在の仙台市役所の北東にあった榎も大きく御神木とされたのだろう。
村境には田畑や水利の権利をめぐり争いが起こるので道祖神などを建てて厄除けをするのが風習だったようで、この村境榎稲荷明神もそのような経緯で建てられたのだろう。
今もなおひっそりと佇み、商売繁盛の神様として町内会有志で毎年7月の最終日曜日に祭礼が行われている。

また、通町にある熊野神社は宮城郡荒巻村総鎮守。


以前の場所は不明ですが寛文7年にここに移されたそうです。
鎌倉時代からあるとうことなので
仙台でもそうとう古い神社だと言えます。
現在の社殿は享保7年(1722年)に建てられたらしい。
通町熊野神社神楽は仙台市の無形民俗文化財に指定されている。


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仙台の赤線の歴史

2014/6/19

東照宮より東六番丁を南下して45号線までの途中、中ほどに比較的広い道が丁字路でつながっている。そこを左手に曲がると西友小田原店がある。
その曲がった先には他にドラッグストアや小さな飲食店や商店がいくつも立ち並びちょっとした商店街をなしている。



しかし、この周辺では細い横道ばかりで他に商店街らしきものはなく、突如として現れたように感じる。
なぜここだけ急にお店が多いのか。メインストリートの東六番丁通りにあるなら納得がいくのですが…。

さらに西友小田原店の先を曲がったところの道幅がそこだけ妙に広くなっていて、200mほど行くと突き当たり右に折れる細い道となる。
以前からこの場所が不思議でなりませんでした。
↓西友の脇の通り




調べてみると昔この辺りは実は遊郭があったということです。なんとも中心部から離れた場所になぜ?
仙台の遊郭の歴史について大まかに見ていきましょう。
宿場町として栄えた国分町に明治2年仙台城にやってきた官軍の要請で遊郭ができました。
仙台城二の丸の官軍が仙台鎮台なってからはより近くの常盤丁へと遊郭が移転した(明治11年)。この常盤丁は現在の仙台市民会館がある辺り。

しかし常盤丁の南側に隣接したところに陸軍の将校クラブである偕行社が設置されると場所柄ふさわしくないということで、明治27年に現在の小田原六丁目あたり(常盤丁)へ移されました。
この地域はもともと江戸時代から蜂屋敷と呼ばれ二代藩主忠宗公より養蜂を始めた場所だったため、その名がついたということです。養蜂場は嵐で崩壊してしまいましたが、地名のみが残りました。


近くに昔から住む方に聞いたところ、東六番丁から小田原六丁目へ入る入口に大きな門があったそうです。通称 大門(おおもん)と呼ばれ、夜定時になると門を閉じ、人の出入りをできなくするためだったそうです。常盤丁の周囲も道が細くなったり曲がりくねってたりして袋小路に近い形状でした。

大門をくぐった通りの北側に遊郭がありました。
遊郭があった地域は新たに常盤丁と呼ばれて、市民会館の辺りは元常盤丁と呼ばれるようになりました。遊郭街のメインストリートは現在の西友の先を曲がった通りで道幅が広くなっています。
↓東六番丁から小田原六丁目に入る入り口



現在は遊郭の面影はほとんど残っていません。
強いていうのなら、「コーポラスあさかや」という集合住宅が突き当たりにあるが、これはもともと「安積屋」という遊郭だった。ここら辺でも大きな建物で木造5階建だったとか。



遊郭の南西の外れには十二軒長屋(じゅうにけんながや)と呼ばれる長屋があり通称 やり手ババアの住居があった。

 

やり手ババアとは当時 客引きをする年配の女性のことをそう呼び、彼女らの仕事は建物の格子窓から手を出しての客引きでした。なぜ表に出なかったのかというと、公道での客引きは禁止されていたためで、建物を敷地から少し下げたところに建て、そのスペースに客を立たせて建物の中から交渉していたのです。


↑上の写真の千登勢屋は旅館ですが、当時の建物のつくりの名残なのか、少し建物が敷地より下がっていて格子窓もある。

また遊郭は遊ぶ建物と宿泊施設と別棟になっていました。例えば通りを挟んで別棟が宿泊施設。

遊郭には質屋もセットで存在していた。遊郭で遊ぶためのお金を作るために質屋に行ってお金を借りた。そのため質に入れたものをしまう蔵もあり、それに使われていた蔵は今でも残っている。



メインストリート突き当たり西側に神社があった。現在はないがおそらくこの辺りのあんぜんと商売繁盛を祈願したものではないか。 また男客で気に入った女性がいて連れていきたい場合はこの神社で 遊郭と縁を切る儀式を執り行ったそうです。参道には桜並木が並んでいたそうです。現在の駐車場。



また遊郭に遊びに行くことを隠語のようなものですが「草餅屋に行く」と言ったそうです。

遊郭は華やかな場所でもあり、影がある場所でもあります。
売れっ子の遊女がいる一方落ちぶれた遊女は東八番丁や塩釜へと場所を移し仕事を求めたそうです。
またいわゆるヤクザもいくつか同時に存在して 守料(もりりょう)や ショバ代をもらうことによって、
いざこざが起こらぬよう秩序を維持していたそうです。
遊郭では職業柄特別な病気にかかることも多くいわば専属の病院がありました。場所はメインストリートの突き当りにありました。



昭和33年売春防止法によって赤線が廃止され、その後はその建物を活かして旅館や下宿屋に転用され、地名も旅籠町となった。
現在西友がある場所もあけぼの荘(遊郭:五城郭)だったところです。
先に述べたコーポラスあさかもしかりです。
唯一旅籠町の名残を今も残しているのはユースホステル千登勢屋だけです。
当時は相撲の巡業や野球選手などいろいろな有名人が泊まったそうです。
今の風景からはまったく想像もつきませんね。
余談ではありますが常盤町は仙台で初めて電話ボックスが設置された場所の一つでまさもあります。それだけ人の往来が多かったことを物語っています。
また仙台市内では毎年市内中心部以外にも七夕飾りが各地で飾られますが小田原で飾られるのもそんな繁華街であった歴史があるんですね。

旅籠町の名は今も公園の名称として残っているが常盤丁の名はどこにも残っていない。


しかし電柱を見上げるとかろうじてその名が確認できるのだ。


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へくり沢事業報告

2014/5/9

5回の作製作業を経て、ついに完成したへくり沢の模型。
3月29日に内々でお披露目会が行われました。
マップテクノの安斎さんと
作製に携わった有志のみなさんが集まり、完成した地図を近くから、もしくは全体的に、はたまた広瀬川から山側からといろいろな角度で眺めてはここはどうだと議論をしたり説明をしたり話が大変盛り上がりました。

 

 


現段階では完成したもののまだ仕上げが残っている状態でこのあとこの上からニスを塗ったり、橋を(立体的に)かけたりされます。ここから先はマップテクノさんにお任せですが。




そして4月26日には柏木市民センターにて事業報告会が行なわれました。
まずは岡崎修子館長さんがご挨拶と昨年の9月より開始されたへくり沢事業の報告がなされました。
第一回目の仙台市博物館市史編纂室長の菅野正道氏の講座から~東北文化学園大学準教授八十川淳氏~東京スリバチ学会会長の皆川典久氏の現地調査までを説明。

マップテクノさんや有志のみなさんの他にも興味がある方が参加し、またみちのく博物学団の方2名がオブザーバーとして参加。

そして東北大学の地学ゼミナールの学生さん二人が彼らの観点からスライド(自分たちでへくり沢をあるいて撮った写真)を交えてへくり沢について説明や見解を述べてくれました。

 




河川争奪など学生ならではの見解なども聞けてとても興味深かったです。
・八幡小学校の裏辺りは昔深い沢だったが現在ではまったく形跡がわからない(実はこれは戦後の瓦礫処理で埋め立てられたため高低差が無くなった)
・へくり沢なんて知らなければ存在自体気づくことはむずかしいだろう。
・春日神社辺りでは沢は浅く下流に行くほど深くなるのは上町段丘の地層が硬いものだったからではないか。
・実際の歴史を知ることもおもしろいが、自分なりに仮説を立てて想像するのもおもしろいと思う。だから合っているか間違っているかの前にそれがたのしいのだと。

特に最後の考え方が共感を覚えました。まさにその通りだと思います。楽しさはそこにあると思います。
へくり沢の河口


橋が架けられました。


今年度の事業は本当のへくり沢のジオラマを造ります。
今野喜一さんの描いた「昭和15年頃の春日神社周辺の様子」(春日神社境内に設置)をもとに本物のジオラマを作製いていきます。興味のある方は柏木市民センターへお問合せください。


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地域の地図模型(宮城野区)

2014/5/6

「あなたのオモイ
それぞれのカタチ」という震災復興交流事業が3月1日から9日間、宮城野区文化センターでありましたので行ってきました。
震災復興についてまちづくりについて考えるというものですが、その一環としてその地域の地図模型も展示されていました。

今回の目的は榴ヶ岡と原町周囲の地形模型を見ることでした。
その時柏木市民センターでも似たようなのを製作していたので参考までに見に行きました。
大きさは柏木市民センターで製作しているものの1.5倍くらいで
思ったより起伏に飛んだ地形でした。
榴ヶ岡(丘)というくらいですから当然かもしれませんね。
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地図は柏木市民センターと同じく昭和33年地形図をもとに製作されていました。
尺度は3000分の1。
等高線の間隔は1m。←ここは柏木市民センターで使用した地図はは2mですね。
DSC_0021

これもマップテクノ仙台さん指導なので同じような感じで作られています。
ただ等高線の間隔が1mなのでサイズが大きいのでしょう。

そこで配られたチラシに地図の楽しみ方が書いてあったので紹介します。

☆場所を見つけてみましょう!
①仙台駅(懐かしい、列車のターンテーブル(転車台)が残っています!)
②丸光デパート(現在の「さくら野百貨店」までの変遷は、全部言えますか?)
③X橋(その遺構としての価値が、現在高まりつつあります!)
④キリンビール工場(テニスクラブなどの名残は、現在も残っていますが…)
⑤三島学園(現在は虹の丘に移転)
⑥仙台赤十字病院(現在は南目館に移転)
⑦宮城県自動車運転者試験場(現在は、七北田に移転)
⑨仙台精密材料研究所(他にも、製紙工場や研究所が集まっていたようです!)
⑩榴ヶ岡遊園地(遊覧電車の軌道が記されていますが、正式名称は?)

その他にも☆地形を感じてみましょう!ということで立体地図模型から感じ取られる今と異なる地形のポイントなども記されていました。

事業イベント開催中は他にも別な事業で作製された立体地図模型が展示されていました。
『江戸時代に描かれた「野初絵図」の山並みを再現!』
DSC_0024

「岩切城跡地形図」
DSC_0027

榴ヶ岡周辺ジオラマの模型は普段でも展示してあるということらしいので時間のある方は見てみると面白いでしょう。
※展示されているかは事前に宮城野区文化センターに確認してから行ってください。


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