仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

2013年10月16日のアーカイブ

へくり沢 地形(番外編)

2013/10/17

土橋の下、元のへくり沢の底に行って写真を撮っていたら、そこに住んでいる方とたまたまお話ができ貴重な情報を得ることができました。
その方は土橋の真下のアパートの大家さんで、小さい時からそこに住んでいたそうです。
その方のお話によると昔は裏の白く細い建物の辺りから水が流れちょっとした滝のようだったとか。
さらにその流れは現在のアパートの裏を通り少し先の窪みになっているところで蟹子沢(へくり沢)と合流していたそうです。
窪みのところで合流とは…写真で見る妙な窪んだ壁、そこが昔の合流地点だったとか。

そこは暗渠から開渠になった部分でその先も開渠になってて道路沿いに沢があったそうです。
沢が広かった部分は古いアパートの前のところで、沢を渡るのに小さな橋が二か所掛けられていたそうです。
沢の向こう側(オレンジのアパートや住宅がある奥)に家や商店があったそうです。(昭和30年頃)

どおりで入り口の段差が妙な傾斜になっていると思った。
ちなみに先ほどの白く細い建物の辺りから流れ落ちる滝は恐らく四ッ谷用水の支流と関係があるのではないかと思われます。土橋通から南へ突き当たった四ッ谷用水は北三番丁へと折れていきますが、その折れる地点が白い建物のあたりだからです。

また南側にある澱不動尊の裏を昔は馬などが往来していたと町内会長さんがおっしゃっていたそうです。
これは何を意味するか、推測ではありますがへくり沢に沿って河口まで続く道の名残ではないかと私は思います。なぜなら不動尊の背後はちょうど沢の斜面の延長線であるから、可能性はあると思う。そして現在道路になって新坂へ渡るところに板橋が架けられていたのだろう。

今回お話を伺うことができた方は昔からそこに住んでいてお父さんからよく昔の話を聞いていたそうです。
またわりと早くからその地に住んでいたということから、戦前にはすでに住宅があったのかもしれません。
そして、その方も自分が住んでいる場所(蟹小沢)についてもっと知りたいという気持ちがあるようで、これからは地元の歴史に関する市民講座などにも参加してみたいとおっしゃっていました。


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へくり沢 地形(3)

2013/10/17

土橋の名残り
現在、土橋は北三番丁から十二軒丁に対して丁字にぶつかる形ですが、これまでの話のように、いろいろな変遷を遂げて現在の形になりました。
ではその名残りはまだあるのだろうか?かつて沢だったところは住宅が建ち、沢の名残りはあるものの昔の土橋の名残りなんて考えもしなかった。もちろん今と昔で土橋の位置が異なることを知らなかったのだから当然だ。
現在の土橋の東側に下方へ降りて行くけもの道にも似た径がある。下の住民の近道かな?くらいにしか思っていませんでしたが、その径は下からの登ってきて二手に分かれ土橋の両端へ続く。この二またの径がちょっと不思議には感じてはいました。

実はこの二またの径が昔の土橋なのだとか。(詳しくはわからないので仮説といたしましょう)そうだとすると下へ降りる径はへくり沢沿いに河口まで辿り新坂へ続く径と考えると納得がいく。(仮説)

橋というものは対岸から対岸へ架けられるというイメージ、もしくは古地図上では平面のイメージだが、実際は沢の斜面を少し下って下の方で橋を架けていたようです。
それはおそらく沢の深さもさることながら対岸への距離もあり普通に橋を架けることは困難だったからなのでしょうか。
そして二またの径の北側へ伸びる先は現在の道には合流せずに右にカーブし再び左にカーブして土橋通へと繋がっていた。その左にカーブして土橋通に繋がるところはおそらく現在白い建物が建っているあたりだと思います。建物の沢側はかなりの崖になっていますが、昔、その下にも家があったので建てる際に削って切り立ったのでは。だから以前はもう少し緩やかな傾斜だったのではないかと推測される。


明治26年の仙台測量全図にもまだその跡が載っているのがわかる。

大正元年の地図では土橋通と北三番丁とがぶつかるところで少し突き出ているのが名残か。(現在の道路とほぼ同じ)

現在の同場所(北三番丁から十二軒丁を見た写真)

今回の講座で今と昔のへくり沢周辺についてある程度正確なイメージが掴めたような気がする。
そして今までモヤモヤしていたことがだんだん晴れてきました。


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へくり沢 地形(2)

2013/10/16

姥ヶ崎
土橋の北側、へくり沢沿いに姥ヶ崎という地名がある。
これは前回話した十二軒丁の辺りのへくり沢に突き出した地形のことを言う。
名前の由来で姥が歩くのに困難なところという意味でつけられたのか?
一方、大崎八幡宮の別当寺であった龍宝寺の敷地内には有巴ヶ崎神社がある。
これは「うばがさき神社」と読むそうだ。
写真ではわかりづらいが「有巴崎正一位稲荷大明神」とある。

へくり沢は地域によって呼び名が違う。蟹子沢とか巴沢とか土橋沢とか。

土橋沢は土橋周辺のことを言うのだろう、蟹子沢はおそらく小さい沢蟹がたくさん獲れたのではないだろうか。
巴沢…、巴(ともえ)というのは渦を巻いているような様をさしているのか、とするとへくり沢は普段は水量が少ないが雨が降った時は水かさが増え渦を巻いていたので、そこから来たのではないか。
実は巴は「へくり」と読むのだそうだ。もともと巴沢(へくり沢)が読み間違って巴沢(ともえ沢)となったのでは?
いろんな説が考えられる。
話は戻って、十二軒丁のあたりは有巴沢町とか姥ヶ崎町とも呼ばれた。つまり姥ヶ崎はもとは有巴ヶ崎だった?巴(へくり)からきた地名。(当て字か?)
有巴ヶ崎神社ももともとこのあたりにあったのかもしれない。
こう考えるとなんだが納得がいくような気がする。


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へくり沢 地形(1)

2013/10/15

へくり沢第2回の講座がありまた参加してきました。
講師は東北文化学園大学 建設環境学科の八十川淳氏。
今回は「へくり沢-地理な話」
前回の講座で土橋が造られた変遷がよく理解でき、最終的に北三番丁から十二軒丁に対して丁字に土橋がぶつかる現在の形になったわけですが、昔の十二軒丁はどこなのか?現在のそれとは違うのです。
ずっと気になっていましたが今回よくわかりました。
今回は地形的なお話だったのでへくり沢の周辺について、いろいろ時に仮説を交えながらとても興味深かった。
現在の地図で国道48号線を山形方面へむかい八幡町の弥勒院を過ぎた交差点で左に曲がると突き当たってまた左にカーブし、その先に愛宕神社があり、さらに突き当たりは宮城第一高へとぶつかる。(紫の線)

変なところに(裏通りにひっそり)
ある神社だなぁと思っていましたが、昔おもて通りは今と反対で南側だったそうです。ご存知の方も多いかもしれませんが、弥勒院もその昔正面の入り口は今の裏手にあったのです。国道48号線ができた時にそちら側が表になったため入り口の向きが変わったそうです。
そういうことで、河岸段丘の下方の屋敷町から見て上の方にお寺と神社があったのは必然的とも言えます。
弥勒院の山門を横切って、突き当たりが元の十二軒丁でした。寛文4年の地図を見るとそこはまだ大きな屋敷が2軒でしたが、天明6〜寛政元年の地図では2軒の境界に道が敷かれ、12軒の家が建つようになってからいつしか十二軒丁と呼ばれるようになったのです。
ちなみに私のイメージでは 通りに面して十二軒、軒を連ねているのかと思っていました。十二軒のかたまりだったんですね。
【仙台城下絵図寛文4年】


【仙台城下絵図天明6~寛政元年】

ということで現在の十二軒丁より南に位置して、へくり沢に突き出していた場所にあったということがわかりました。さらに十二軒丁の名前の由来もなんとなく納得しました。ただ十二軒あるだけじゃなんとも思わないがある一定の場所に十二軒ごちゃっと塊っているとひとまとめにしたくなりますよね。


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「仙台だいすきフェア」に出店してきました

2013/10/14

10月の12日・13日に東京駅丸の内南口を出るとすぐ目の前にあるKITTE(JPビル)内東京アイシティにて
「伊達美味」(仙台の美味いもの)を広めるイベントに参加してきました。
伊達武将隊もとても盛り上げていただき、盛況の中終わることができました。
私は伊達武将隊をまともに見るのは初めてで、ステージもとても楽しく拝見させていただきました。
伊達美味特派員のちーちゃんと一緒に伊達美味をみなさんに説明する支倉常長公、それぞれの仙台の美味いものに対して味形はもちろんのこと、背景歴史まで詳しくおっしゃっていたのですごいなぁと思いました。

景綱公、支倉公、与六さん等が売場の方まで来てお客さんにいっぱい勧めてくれました。
商品対する知識も大したもので、もう代わりに売ってもらってもいいぐらいでした(笑)。


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