仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

日本初の近代港は宮城県だった  ~野蒜築港~

2014/12/1

昔、野蒜海岸に港を作る計画がありました。いわゆる野蒜築港です。
(野蒜は日本三景の一つ松島の北側に位置する)

明治初期石巻港が北上川上流からの土砂の堆積により河口港としての機能が低下したため、新しい港の建設が必要となりました。
明治政府による日本初の近代港として着工された東北一大事業が野蒜築港です。
下の写真の新市街地とは野蒜築港事業によって新たにできた、鳴瀬川と新鳴瀬川分流に挟まれた市街地のことです。


事業は明治11年から始まり、明治15年に完成したが、明治17年9月の台風により被災し機能を失い、また修復には多額の費用がかかるため事業は断念されました。

現在でもその遺構は残っています。
当時の新市街地跡から新鳴瀬川に架けられた橋の赤レンガ造りの橋台跡、
(東日本大震災の)津波で上の部分はさらに侵食されたようです。

 



新市街地跡にある記念碑と当時使われたローラー。
ローラーの側面には「土木」の文字が見られる。
記念碑もローラーも一度津波で流されたのを元に戻したようです。

 


野蒜築港に伴い東北初の気象観測所となる測候所設置され、その跡地。



津波で削られたレンガが砂や他の瓦礫とともに散乱している。


津波の後以前の風景とは異なり遺構を探すのに少し苦労しました。





瑞鳳殿の参道の入り口すぐ左手に「鹿児島県人七士の墓」というものがあります。
宮城県監獄署に収監された薩摩藩の西南戦争政治犯たちも人夫として野蒜築港に尽力したそうです。

 


この薩摩の政治犯を率い野蒜築港の煉瓦(レンガ)製造技術を伝え、仙台に煉瓦建築をもたらしたのが煉瓦技師の植木留吉という人物です。

東京から来た留吉は仙台で独立し、仙台初の煉瓦工場を建て、仙台初の煉瓦建築は警察署だったそうです。その他にも裁判所、大学の煉瓦建築に携わったそうです。

この煉瓦会社は当時土樋のあたりにあったそうですが、広瀬川の洪水で会社が流されたのちに北山手前の木町に移転しました。


これが植木瓦店だったのです。→/blog/1950
こんなにも身近なところと野蒜築港が関係していたことを知ってとても驚きました。

 


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ありがとうアカマツ(柏木にある林宅寺のシンボル的なアカマツが松くい虫に食われ伐採されました)

2014/11/25

先日10月にたまたま柏木にある林宅寺の入り口に古くから植えてある大きなアカマツの前を通りました。

普段青々としていたはずなのに、
葉が全て赤茶けていました。
針葉樹なのに紅葉するわけでもないのに…と心配していました。

11月に入り新聞にてそのアカマツが松食い虫に侵され明日伐採されるとの記事を見つけました。

やはりそうだったのか。
伐採される前のアカマツの勇姿を写真に収めたいと、カメラを手に向かいました。
木の脇には「ありがとうアカマツ」の文字が建てられていました。
樹齢はわかりませんが、長年地域の方に愛されてきたのは間違いないでしょう。

 



11月14日伐採当日

 




残念ながら松食い虫に侵され伐採されたことも悔やまれるのですが、
青々と茂っていたころのアカマツの写真を撮っていなかったことが大変悔やまれます。


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神子町に瓦屋の名残はあるのだろうか

2014/11/22

最近までに新坂通に陶八という陶器屋さんがありまして、茶碗などの陶器をお店で販売していました。

陶八は始め神子町で瓦を作っていましたが、のちに焼き物のコンロ、つまり練炭コンロや七輪を窯で焼いて売っていました。
時代が変わり、その後土物卸売(陶器などの卸売)に転業しました。
その後現在の場所に移転。

陶八は松岡家の藤四郎がが庄子家のトワに婿入りしたのが始まりで、松岡家も庄子家も四代藩主伊達綱村公に仕えた瓦師の家でした。
陶八は最初庄子陶器だったが藤四郎の子藤八郎にちなみ陶八と屋号を変えたそうです。
その陶八はその後新坂通に移り、数年前まで陶器屋として店を続けていましたが、その後店を閉め、
現在は建物の上の看板だけが当時の面影を残す。



ではもうこの近辺には瓦屋(もともと神子町で瓦職人をしていた)はないのでしょうか?
探してみると北山トンネルの出口手前に一軒ありました、植木瓦店という瓦屋さんです。
ここも昔神子町から移転してきたのでしょうか?
聞くところによるともともと東京から来た人なんだそうです。
(アパートと蕎麦屋の奥、看板はアパートのベランダに「植木瓦店」とある)


今では瓦を作るところは東北ではほとんどなく、大部分を愛知などのメーカーで作られたものを取り寄せて使用しているそうです。植木瓦店は現在、瓦に限らず屋根全般の施工を請け負っているとのこと。

残念ながら神子町の瓦屋はもうないようです。


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神子町 は瓦の町でした

2014/11/20

神子町(みこまち)は北九番丁にある神子神社のある辺りで、寛文12年(1672)から元禄3年(1690)の間に町割りがされた。つまり開封後しばらくしてから城下町に加わった地域です。
北八番丁から北九番丁(神子町)へ向かう道、通町小学校西側の神子町通が広いのは昔四ッ谷用水が流れていた名残でしょうか。



神子町とういう町名は朝日神子(あさひみこ)が住んでいたことに由来するそうです。
この神子(巫女)は二本杉通りにある朝日神社の神子で町割りをされる以前(寛文年間)の時期に、付近の田野の開墾利水を考えて桜田川と梅田川を開き耕作に便を与えたそうです。村人は朝日神子を崇敬し、のちに伊達氏により祠がこの地に建立されたらしい。
(桜田川がどこかは不明)

(朝日神社について→/blog/619)


この辺は瓦造りに適した土が採れたこともあり、神子町は藩営の瓦場が設けられたくさんの瓦職人たちが住んでいたそうです。
現在でも残っている瓦屋さんはあるんでしょうか。

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閖上の朝市

2014/11/9

先日、閖上の朝市に行ってまいりました。
市場の周囲は依然何もありません。


しかし市場の中は活気に溢れ、お客さんがいっぱいでした。新しくなってから二度目の訪問です。


野菜がずらっと並び安いです!


魚介類はどれも安く美味しそうです。


今が旬の鮭のはらこ


たくさん買いたいのですが食べれる量を考えながら選ばないといけません。
本当は端から全部買って食べたいところですが…。
いやいやここに長居するとついつい買い過ぎていけません。


また、ここでは買ったものをその場で炭火で焼いて食べることができますので、ちょっとしたバーベキューが楽しめます。



海鮮や野菜の他に オススメは買い物した後の手作り水餃子です。これにキムチをたっぷり載せるとおいしいです。
半日居ても飽きない場所ですが、お腹がいっぱいになるのが先か、懐が寂しくなるのが先かといった具合ですかね。




ちなみに震災遺構として残されることになった佐々直さんの工場です。


閖上の日和山です。


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暖簾とは会社の歴史

2014/10/28

「暖簾を守る会」という会が仙台にはあります。
この会では毎年太白区蕃山の大梅禅寺にある暖簾塚に行き供養のお祈りをしています。

そして発足20周年を迎える記念の今年、入会させていただきました。

暖簾を守る会の発端は「誠鮓」の髙橋誠さんが当時自分が檀家をしていた大梅寺の和尚に自分のところの使わなくなった暖簾をどうしたらよいかと相談したところ、和尚はそういった暖簾を集めて大梅寺に塚を建てて供養してもよいと言ってくれたそうです。

そして彼は寿司組合にその話を持ち帰り、組合で暖簾を供養しようとしたところ、寿司組合だけでは事業が大きすぎて難しいということで仙台でも老舗のタゼンさんの社長に話を持ちかけ会長になってもらい仙台全体の会として発足したそうです。

暖簾は無くとも…。
「暖簾を守る会」と聞くとうちの会社は暖簾無いし…と思われますが、無くても会に入ることができます。
以下「暖簾塚建立の趣意」より抜粋
「…五年十年とたつにつれ、それぞれの店や事務所に独自の風格が培われ、所謂「のれん」の重みが出てまいります。…「のれん」とは有形の暖簾だけでなく、店の存在、屋号、知名、信用、格式のすべてを含んだものと考えます。」

ですから、暖簾の有無に関係なくまた年数にも関係なく同じ想いがあれば会に入ることができます。


暖簾塚は大梅禅寺の参道の境内に上がるてまえにありそこでみなさん集まって供養をいたしました。みなさんの着ている半纏には各々の会社名が書かれています。

 


20周年を記念して銘板の除幕式が行われました。
銘板には今年まで入会した会員の会社名が刻まれ、さらに今後もさらに入会した会員の 会社名が刻めるよう空いています。

 



また敷地内には仙台市の保存樹木コウヤマキ、シダレザクラ、ツバキ、ヒヨクヒバがあります。それぞれ250年、270年、200年、320年。
コウヤマキ



ヒヨクヒバ



シダレザクラ



ツバキは見つけられませんでした。


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松島 円通院

2014/10/26

10月の終わりの日曜日、松島の紅葉はどうだろうと出掛けました。

瑞巌寺の隣に位置する円通院はまだ訪れたことがなかったので、紅葉の時期はさぞかし綺麗だろうと期待して訪れました。

松島町指定文化財・円通院本堂は映画「蜩の記」のロケに使われ、もともと仙台二代目藩主忠宗公の子で光宗の江戸での納涼の亭でした。光宗は19才という若さで亡くなり、それを悲しんだ忠宗公が正保4年(1647)、解体し江戸から移築したもので、「大悲亭」と名付けられました。

 




紅葉はまだまだでしたが、緑の苔や竹林がとても素晴らしかった。
この庭は小堀遠州作といわれています。

 

 


途中薔薇園がありましたが、寺院に薔薇園?となんとなく不思議に思いました。
(薔薇園の写真を撮り忘れてしまいました)


庭園の奥には三慧殿(さんけいでん)という御堂がありその中には光宗の御霊屋があります。
この御霊屋は国定指定重要文化財になっていて、大悲亭移築の一年前に建立されましたのですが、これに使われている装飾はとても変わっていて、洋薔薇や、水仙、トランプの4種のマークなどが描かれていました。

 


これはローマを象徴する薔薇、フィレンツェを象徴する水仙など支倉常長の慶長遣欧使節が持ち帰った欧州の文化が描かれていたのです。
しかし、当時鎖国制度が施行されていたため扉を開けることがなかったそうです。
そうしたこともあり、中の装飾の色彩が現在も当時のまま鮮やかに残っているそうです。

また忠宗公も常長の功績、父政宗公の思いたを酌んでいたのかもしれませんね。


これで薔薇園も納得しました。


紅葉のライトアップは11月に行われてるそうです。


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地元地域の歴史、再確認。

2014/10/23

仙台市立第二中学校の二中会研修交流委員会主催の(二中保護者対象)講座が10月23日に開かれたので参加してきました。

講師はへくり沢でもお世話になっている柏木市民センターの岡崎修子館長。
岡崎さんは以前「城下町仙台を歩く」という歴史的町名のハンドブックの監修に携わりその執筆もなされたそうです。(当書籍は仙台市役所1階の市政情報センターにて購入可)
中学校の視聴覚室を借りて1時間半ほど行なわれました。
参加者9人



内容は「私たちの住むまちの歴史あれこれ」と題しまして仙台藩開府からまちの簡単な変遷とともに学区内を中止に城下町のつくりや昔の町名について話していただきました。
特に現在の町名と違い昔の町名には意味があり、例えば材木町は材木屋の町で木町通は木町(材木町)に通ずる通りという意味など、なるほどと思うことがいろいろあり豆知識が増えました。

お話が終わった後も保護者から様々な質問がありとても有意義で、参加した皆さんはきっと満足して帰られたと思います。
というより好奇心を掻き立てられもっと聞きたいのに時間が足りず、むしろ満足に達しなかったのではないでしょうか。

これをきっかけに、今回の話を家で話したり、知人に話したり、興味を持ってさらに知ろうとしたり、広がっていってほしいと思いました。

自分の子が通っている学校(二中)の周囲には面白い歴史がたくさんあるっていうことを知ることができたはずです。
もちろん、二中に限らず自分の住んでいる地域にはたくさんの興味深い歴史があり、実はそれが教科書に載るような大きな歴史につながるものだったということもあるはずです。

今回参加した保護者の人数は9名という少人数でちょうどよい人数でした。
もし今後もこのような会を開いていただけるのなら、間違いなく参加者の人数もさらに増えると思います。

以前ブログで菅克復のお話をした時、小学校で仙台の偉人について子供達が教わったと書きましたが、小中学生が郷土史を教わるというのはとても大切なことだと思います。
親達についても同じです。昔を知る人から聞いて、また子へ伝えていく。
自分とその土地の関わり、郷土愛が培われる。
技術が進歩したこの世の中、若い人は新しいものだけがいい、昔のものは堅い古くさいという考えをしがちですが、今までの歴史があって今の自分があるということを忘れてはならないと思います。



今回の講義は、今まで私が受けてきたものと違って特に素晴らしいものだと思いました。なぜなら今までのものはもともと興味があり、あるていど知っている方が参加していましたが、今回は興味は無いわけではないがこういった歴史になかなか触れられない方が参加してくださったので大きな意義があると思います。

岡崎館長、二中会研修交流委員会委員長、設えありがとうございました。


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地域(まち)のたから 仙台青年会議所の街事業

2014/10/19

国際センターで仙台青年会議所主催の事業「ゆめ★まちプロジェクト2014 ~CONNECT 地域のたから~」の表彰式が10月19日(日)にありました。
これは自分が思う地域(仙台)の宝を絵や写真、川柳などに表現したもので、
当日は公募された作品すべてが展示されていました。

そのなかには恥ずかしながらうちの子供が描いた絵もありました。



表彰式の前の第一部では、今春放送されたアニメWake Up,Girls!の監督、山本寛氏を招いて「地域のたから」の共有と発展と題し講演をいただきました。
作品に出てきた場所へ出向くという聖地巡礼について、その場所の設定について意図や思い、様々な要因があることをおっしゃっていました。
重要なのは聖地巡礼が検証できる場所、あるていどのアクセスのしやすさ、聖地となる場所がむしろ特別な場所ではないことだそうです。



第二部では作品の表彰式が行われました。


山本寛賞もありました。

 


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コメント (2件)

  1. ごとう より:

    熊谷先輩、この度は大変お世話になりました!
    事業並びに本例会へのご協力、まことにありがとうございました!

    1. admin より:

      こちらこそお役に立ててうれしいです。
      後藤委員長お疲れ様でした。

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土井晩翠先生の命日に

2014/10/19

今年で第7回目を迎える「土井晩翠先生が作詞した校歌をいっしょに歌いましょうの会」。
約2年に一度の間隔で毎回この時期に行われます。ここ最近では先生出身の立町小学校の体育館で行われています。

またこの他に文学館主催の晩翠忌という土井晩翠先生の命日に青葉城の土井晩翠先生の銅像前で市民から公募したグループや個人が「荒城の月」を歌唱したり演奏を行う催しが毎年あります。
この会には木町通小学校と立町小学校と片平小学校が輪番制で参加し合唱しています。

今年はちょうどこの二つが同じ日に重なり、そして木町通小学校の番だったのです。
「杜の都にひびけ 荒城の月 市民大合唱」

うちの息子も参加して当日午前中は青葉城に行って土井晩翠の胸像の前で「荒城の月」を歌い、
その後立町小学校に移動して昼食をはさんで午後は校歌を体育館のステージで歌いました。

「歌いましょうの会」は仙台市内の小中高学校の現役生徒の他に山形県 福島県 岩手県、
そして遠くは愛知県、群馬県、高知県の各学校のOBの方々が遥々来られて参加していました。

様々な校歌を聴くと作詞した時の土井晩翠先生の思いや状況が伝わってきます。

木町通小学校の校歌はどぶろくを飲みながら作ったというのは以前お話しましたね。
木町通小学校前↓

 


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