仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

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新しい練きり菓子を造ります

2013/3/29

現在、当ブログのヘッター写真(PC画面)を宮城ディスティネーションキャンペーンにちなんで「笑顔花咲くたび 伊達な旅」というタイトルにしていますが、
新しいデザインで練きり菓子を造ってみました。
いつから出せるかははっきり申し上げることはできませんが遅くとも4月の上旬にはお店に出せると思いますので、どうぞ楽しみにしていてください!
さて、どんなデザインなのか…

 


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特別展「おやつ~今や昔の甘味事情~」

2013/3/27

平成24年11月17日(土)~平成25年4月14日(日)まで仙台歴史民俗資料館にて特別展「おやつ~今や昔の甘味事情~」という展示がされています。
その期間中のイベントとして茶話会「仙台駄菓子のお話~菓子職人さんを囲んで~」が3月23日に行われました。
今回熊谷屋の職人として私が呼ばれたわけですが、なんと参加者の皆さんは20名も来てくださいました。
中には虎屋文庫の方もいらっしゃいまして、びっくりしました。
会は熊谷屋の仙台駄菓子を8種類ほど資料館側で用意していただきそれらをお茶と一緒につまみながら話を聞くスタイルで、私は学芸員の畑井さんと会話形式でお話を進めていきました。
ちなみにその際に出た仙台駄菓子は「うさぎ玉」「うめぼし」「ゆびわ」「ハッカ」「黄金」「こうせん」「黒パン」「しぐれねじり」。
このように皆さんの前で講話をするのは不慣れではありましたが、学芸員の畑井さんの進行のおかげで楽しく過ごすことができました。



途中参加者の方々からいくつか質問もいただき、中には昔購入したささらあめを今も大切に冷凍庫で保管していらっしゃるという方もおられました。大変うれしい限りです。
企画展示物についてはあとでゆっくりと見に行きます。
4月14日まで行われているのでみなさんもぜひ見に行ってください。

 


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宮城県の物産と観光展

2013/3/11

宮城県の物産と観光展がそごう千葉店で3月12日より開催されます。 お近くの皆様よろしくお願いします。 地元紙「河北新報」おすすめの、 宮城が誇る絶賛グルメたち。 黒潮と親潮が交わる三陸の海の幸、 蔵王・栗駒が育んだ山の幸、素朴ながらも繊細な工芸品。 河北新報おすすめの一級品がそろいました。 ■ 3月12日(火)~18日(月) ■ 千葉そごう6階=催事場   ※ 最終日は午後5時閉場 ←ポチッと押してください! クリックお願いします!


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コロカ扱い開始しました

2013/3/6

携帯ゲームで移動ゲームのコロプラというものがあるのですが、この度リアル店舗としてコロカを扱うことになりました。
老舗がゲームに参加…とはおかしいようにも思われるでしょうが、若い人たちにももっともっと知っていただけるようにと思い参加しました。
コロプラのユーザーさんよろしくお願い申し上げます。
↓これが熊谷屋のコロカです。

コロプラ
http://colopl.co.jp/coloca_shop/

 


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仙台の偉人、菅克復って人 知ってます?続き

2013/3/4

以前「仙台の偉人、菅克復って人 知ってます?」というタイトルで書きましたが、
菅克復の屋敷はもともと北三番丁にあったという。
その詳しい場所を三居沢電気百年館の館長さんに尋ねたところ後日電話で教えてくださいました。
そこは現在の青葉区支倉町三丁目、大学病院の近くの仙台市交通局のバスプールがあるところの先の角あたりだったそうです。
ほぉ、そうだったのかぁ。念のためにうちにあったゼンリンの地図(97年版)で確認したら、
なんとそこの場所に「菅節蔵」さんというお名前が!
館長さんによると以前、菅克復さんの子孫であるという方がお見えになられて現在は札幌に住んでいるとか…。
地図は97年版なので現在その場所は大きなマンションが立っています。
もしかしたらこの人が札幌に引っ越したのかなぁ。想像は膨らみます。
市民会館から交通局を通り大学病院に突き当たるこの通りは、市電が開通するまで道は通っていなかったそうです。
写真の地図を見るとその道路を作るために敷地が削られたとして、昔はもっと東西に広い敷地だったのではないでしょうか。だって、自分の屋敷内に家内工業の機織り工場を作っちゃうんですからね。

よく見ると菅アパートなんていうのもありました。もしかしてこれも関係してるのかも…
あくまで想像ですが。

 


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  1. admin より:

    菅克復さんのお孫さんがお店にいらして、菅克復の菅と管の間違いを指摘してくださいました。
    残念ながらその時私はお会いできなかったのでもしこのコメントをご覧になりましたら、ご連絡をいただくかまたお越しいただきたいと願っています。いろいろお話を聞きたいのでよろしくお願いします。

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仙台の偉人、菅克復って人 知ってます?

2013/2/5

うちの息子は現在小学4年生なのですが、先日こう聞かれました。
「お父さん、菅克復っていう人知ってる?」
その名前を聞いてドキッとしました、それと同時に何とも言えない高揚感をおぼえました。

菅克復という人物は天保八年に一関・田村家の家臣の家に生まれた。その後 伊達茂村(もちむら)側近に抜擢され仙台藩士となりました。
維新後、困窮した生活をしいられていた旧藩士たちをみて、救済すべく当時注目されていた紡績業を始めた。私財をなげうって機械をを購入し自らの屋敷(北三番丁:詳細な場所は不明)で明治七年家内工業として士族の子女たちを雇った。
その後明治政府は殖産振興のため十二機の紡績機を導入し、そのうちの一機が東北に配置された。
それが、のちに北三番丁より水力を動力とするために三居沢に移転した宮城紡績会社だったのです。
ここでいくつか私なりの疑問が生じました。
1.現在の水力発電を行っている水源は広瀬川の郷六の方より長い隧道を作って水を引いていますが、当時機織りだけのために最初からそのような距離の設備工事がわざわざ行われたのか?
2.三居沢水力発電所の脇にある不動尊の裏手の大滝は水力発電の水源と関係あるのか?不動尊内には最古の石碑として寛永十一年というから時代が合わない。
3.現在使われている大きなパイプの隣に旧隧道出口と書かれたレンガ造りの穴があるが、位置がかなりおかしいのではないか。
そこで「三居沢電気百年館」に足を運び、入り口にいた係りの方(館長さん?)にダメもとで話をお伺いしたところとても親切に詳しく説明してくれました。
1.三居沢に紡績会社が移転した当時、場所は仙台市交通局川内営業所内の奥の場所だったそうです。
そして、広瀬川から引いた隧道はちょうどすぐ山の裏側でさほど距離は無かったそうです。
←こちらが当時の工場を描いた絵ですが、入り口の門の辺りにある松の木が今でも一本だけ残っているそうで、それが下の写真です。

2.よくよく地図を見たら全く違う水源でした(汗)
3.三居沢電気百年館の裏手に回ると山から駆け降りるパイプがよく見えるのですがちょうど百年館の真裏に明治三十三年当時隧道出口があり向きも現在の発電機の方向とは全く違う向きなのです。係りの方に話を聞くと先ほどの仙台市交通局の場所から規模を大きくするために移転したそうです。そしてその場所が現在の三居沢百年館がある場所。そして館内には日本で第一号となる水力発電機のレプリカが展示されています。当時の場所に置いてあるというのも何か感慨深いものがあります。
その後洪水に遭い工場は流されてしまい、電力の需要増加も伴い現在の場所に第二号を創ったそうです。
現在も現役で稼働しているなんてすごいですよね。
旧隧道

第一号機 (三吉電機製)

三居沢電気百年館

なるほど、謎は解けた!すっきり(´∀`)
菅克復は先見の明があり地域振興に尽力し、県会議員、仙台市議会議長など就任し行政にも活躍された偉人でございます。
知る人ぞ知るという人物ではありますが、仙台の偉人としてこれを機に知っていただければと思いまた仙台の誇りにしてほしいです。
またこうやっていろいろ調べてから三居沢百年館などの施設に行くと百倍楽しめますので、ぜひ参考にしていただきたい。
発電所を造るまでの経緯は…
仙台に鉄道が開通後の明治二十二年二月、料亭「挹翠館」(ゆうすいかん:のち仙台市民会館の前身となる)にて経済人たちがあつまり仙台の電気事業について話し合われた。その後すぐ東京へ赴き電気会社の調査を行い、当時の日銀総裁であった富田鐵之助の助言を求めました。しかし富田は東京でも事業は始まったばかりで不測の事態も起こりかねないので時期尚早と助言をした。
しかしながら
調査に参加したうちの一人菅克復は自分の工場だけでも電灯をともし暗くなっても働けるようにしたいと、東京で小型の発電機と電灯をなんとか購入した。そして明治二十二年六月二十八日に機械が取り付けら、七月一日に東北で初めて明かりがともされた。
あたり一面真っ暗な中 烏崎山頂から工場内までぼんやりと明かりの点がいくつも見え、当時は狐火と思われたそうです。
冒頭の話に戻りますが、
実は、ついこの2~3日前に私も「菅克復」という名前を知ったばかりだったのです。
先日三居沢の大滝を見に行ったあと気になって三居沢発電所について調べていました。
その際に出てきたのが「菅克復」という人物。
詳しく息子に聞いてみると、学校で担任の先生ではなく算数と社会に限ってさらに精通した先生に教わっているそうです。そして、そこで教わるのは教科書には書いてあるもの以外に郷土史もなのだそうで、その中で三居沢の宮城紡績会社を設立した「菅克復」について学んだようです。
「菅克復」なんて仙台の人でも知っている人はほどんどいないと言っても過言ではないと思います。菅克復氏のお孫さん、申し訳ありません。(汗)
さらには「富田鐵之助」「一力健治郎」についても教わっているそうです。
こういう郷土史を教えてくれる先生っていいですね。また息子もそういう機会に恵まれ素晴らしいと思います。

 


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  1. admin より:

    菅克復さんのお孫さんがお店にいらして、菅克復の菅と管の間違いを指摘してくださいました。
    残念ながらその時私はお会いできなかったのでもしこのコメントをご覧になりましたら、ご連絡をいただくかまたお越しいただきたいと願っています。いろいろお話を聞きたいのでよろしくお願いします。

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三居沢不動尊 冬の大滝

2013/1/28

今季の冬は昨年12月より度々の雪で降っては積もり雪かきしてはまた積もり、例年にない雪の多い年となった。
逆にいえば、ここ数年は暖冬で雪はほとんど積もることはなかった。せいぜい2月〜3月にある程度降るぐらいだ。(仙台市内)ドカ雪とも言えないほどの量の雪。これに慣れてしまったのか、今年みたいのが正常なのか。
それはさておき、三居沢にある不動尊裏の大滝が凍っていると聞いたので行ってみた。市内で見れる凍った滝はここだけだろうか。水量が多くてもここまで凍ることはなく、また少なすぎても綺麗さに欠ける。絶妙なな水量がこのような芸術を作り上げたのでしょう。

この大滝は大きく湾曲した断崖から流れ 落ちるさまはは全国的にも珍しいといわれているが、見た感じでは確かに湾曲しているようだが、珍しいのかどうか私にはよくわからないです。


別な日に違う角度から見たら実は滝が二段になっていたんですねぇ、一度少し落ちたところが湾曲して窪んでいてそこからさらに十数メートル落ちていっているんですね、おそらくこの形状が珍しいのかと…。
三居沢は日本初の水力発電、東北初の発電所で、しかも現役で稼働しているという素晴らしい施設があります。


また、子供たちが交通ルールを学ぶための交通公園があり、春には桜並木がとても綺麗です。
書きたいことはたくさんあるのですが、どれもすごすぎてたくさん盛り込むと中途半端になるのでまたの機会に取り上げたいと思います。


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平成25年出初式

2013/1/11

平成25年1月6日に仙台市の出初式が行われました。
今年は6日が日曜日だったため朝から寒い中、見に行くことができました。
市民広場へ到着するとすでに式は始まっており、ちょうど観覧行進が行われていて各消防団、各隊員等の行進、それから30台の消防車両の行列、そして空にはヘリコプター。
春日町の方から順番を待つ消防車両は市役所前を通り県庁方面へと走っていきましたが、
その際スムーズに車を流すために信号を青のままにしてたようです。


乱入してきたわけじゃありません、バイク隊です


消防音楽隊

春日町方面よりぞくぞくと消防車両が

県庁方面へと抜けていきます


その後は仙台市長の式辞、表彰、祝辞とが続き、
消防音楽隊とカラーガード隊のドリル演技が披露されました。
(余談ですがカラーガードっていうんですね旗を振って舞うの。それとドリルという言葉初めてしりました。楽隊と演舞が交わるからドリルなんですかね…)


そしていよいよ待ってました、伝統階子乗り!
(またしても余談ですが「はしご」と普通にキーボードで打つと「梯子」と変換されますが「階子」と表記するのはなにかこだわりがあるんでしょうね)
階子の下方、上段・中段・下段に分かれてそれぞれの隊員たちが鉤のついた道具で支える。
たったこれだけで階子の上でのさまざまな動きを支えているなんてすごい!


見事なポーズ!



火の用心

市役所に戻り、建物の上からレスキュー隊員の訓練の一環としてのロープで上階から降りてくるところを披露。
シャッターチャンスを狙ってのんびり構えていたら、あっというまに下までスルスルッと降りてしまいました(笑)

そして圧巻の放水車と隊員による一斉放水!
(やっぱり写真で見るのと目の前で見るのとでは迫力が違いますねぇ)

(気が付いたら写真213枚も撮っていました!)

出初式の由来

 明治27年5月、明治10年以来の町火消が生まれ変わり、新しい組織として180人の公設消防組織が仙台に設置されました。
 翌年1月4日、宮城県庁前において、消防組員の心意気を示すと同時に、士気を鼓舞し、一年間の安全と奮闘を誓い合う目的で、仙台消防組出初式が初めて行われました。
 その後、ある時は広瀬川両岸で、青葉通あるいは定禅寺通で、西公園でと場所を変更して行われましたが、昭和40年代に入ってからは市役所前で行われることが恒例となり、現在に至っています。

<補足>
しかしながら伝統階子乗りは後継者不足を理由に一時期途絶えてしまいました。そして再び昔の古き伝統を復活させようという気運が高まり、ちょうど青葉祭りが再開された昭和60年頃から伝統階子乗りも同じく再開されたそうです。
やはり実際見て感じましたが良いものは残していくべきだと思いました。写真や映像では伝わらない心意気が感じられます。

 


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伝統的な門松

2013/1/2

あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いします
さてお正月飾りの一つと言えば門松ですが、よく見かけるのお正月の門松は下の方に松があって真ん中にど〜んと竹が立っているのが普通ですね。たまに梅があったりして…。
そしてその竹は斜めに切られて節が見え、ちょうどそこが笑ったように見える。
この竹は寸胴型で真横に切ったものもある。
斜めに切ったものは「そぎ」と呼ばれ徳川家康が始めたもの。三方ケ原の戦いで家康が敗北後、この次は武田信玄を斬ってやるという意味を込めて作らせたとか。
ということは昔の門松はどういうものだったのか?
江戸では竹の部分が根元からそのまま先端まで挿してあり建物の二階くらいまでの高さだったそうです。
またこれは地域によっても多少異なる形をしていたのでしょう。
仙台は伊達の門松はどういうものだったのでしょうか。
今年はこれが文学館と瑞鳳殿、そしてレプリカを博物館、榴岡の歴史民俗資料館で見ることができるんです。
私は一足先に年末に文学館に行って見て来ました。

シンプルですが迫力を感じられます。
ちなみに瑞鳳殿のはもう少し高さがありそうです。

しめ縄の部分

土台の部分

わかりづらいですが栗の木を軸にしていて、そこに大きな松の枝と3mほどの竹笹を結わえてあります。

1960年辺りまではわずかにこのような門松が残っていたそうです。
これらの材料は泉区根白石の農家8軒が毎年献上していたとのことだ。
瑞鳳殿の門松(読売新聞より)

 


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仙台の大晦日は年取り魚にナメタガレイを食べる

2012/12/29

仙台では大晦日の夜に子孫繁栄に縁起が良いと子持ちのナメタガレイの煮つけを食べる風習があります。
ナメタガレイは北海道ではババガレイと呼ばれ、南の方ではインドガレイとも呼ばれるそうです。
昔から大晦日になると食卓に出ていたので、そう不思議にも思わなかったのですが、他の地方の方から見ると不思議に映るようです。
とは言っても地方によってはまた異なる年取り魚があるみたいです。
仙台人としてはあたりまえのナメタガレイ、ではいつごろから食べられるようになったのでしょうか?
実は江戸時代から戦前にかけて、仙台の正月の魚(年取り魚)はタラだったのです。
意外でした!
正月に向けてタラが出回らないことを心配し、調査を命じた伊達政宗の手紙が残っているそうです。
また、戦前の仙台の年中行事に関して「正月にタラ汁は欠かせない」と記した文献も残っているそうです。
(仙台城下「町人列伝」参照)
それではなぜタラからナメタガレイに変わったのでしょうか?
明治三陸地震(1896年-明治29年)の影響で、ナメタガレイが大量に取れるようになり、庶民が食べる年取り魚として定着した。商家では大みそかは忙しくて魚を焼いている余裕はないので、冷めてもおいしいナメタの煮魚が重宝されるようになった(朝日新聞より)ということだそうだ。
ふ~ん、意外と最近なんだぁ!?
それともう一つ、正月の御雑煮に欠かせないのが焼きハゼの出汁。
これも明治以降に広まったそうです、とはいえ江戸時代の仙台城では食されていたようで他に干し鮑や干し海鼠、伊勢海老と豪華な食材を使用した雑煮だったようです。
当然庶民にはまねのできないことで、せめて焼きハゼの出汁だけでもということで少しずつ広まっていったのかも知れませんね。
いずれにせよ、風習は歴史とともに変化していくんですね。
ナメタガレイも焼きハゼもじゅうぶん歴史はあります、このような風習は続けていきたいですね。
そしてなぜそうなのかを知るのも大事だと思います。

 


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