仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

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北山の羽黒神社と青葉山の名の由来

2012/12/10

伊達政宗が築城した仙台城のある青葉山。
青葉山という名は実は現在北山にある羽黒神社と関係しているのです。
お話に入る前に言葉の意味を確認しておきましょう。
別当寺(べっとうじ):神社を管理するために置かれた寺のこと。
神社と寺がセットなんて変ですね、これは神仏習合が許されていた、つまり土着の信仰と仏教の良いところをとって新たに作り上げた信仰が一般的だった時代の話です。
政宗が仙台城を築城の際、
慶長七年(1602)残月亭の南脇、本丸と二の丸の間(植物園内)に、羽黒神社と別当寺(青葉山)・寂光寺(じゃっこうじ)が建立された。
慶長5年(1600)の松川の戦いにて上杉景勝と伊達政宗が戦った際、福島の信夫山(しのぶやま)にて寂光寺の法印慶印が劣勢に立たされた政宗を寺にかくまい、夜半に裏手から仙台に帰えらせたといわれている。
その後寺は焼き払われ、山伏や宮人は政宗とともに仙台へ移り住んだ、
このとき、仙台城の前身地に青葉山寂光院・羽黒大権現を移したのです。
この「青葉山」は「せいようざん」と読み寂光寺の山号であった、この山号より名をとって
「青葉山(あおばやま)」と称すようになったと言われてい
ます。

その後寛永15年(1638)二の丸が造営されるころまでその地にあり、羽黒神社とともに北山に移転した。
北山に寂光寺が移転したのは慶長7年という記載が多いが寛永15年あたりのほうが年数的にも妥当と筆者は考える
昔の地図にある(北山移転後の)寂光寺。右端は輪王寺でその脇の古海道は中山街道または秀衡街道と呼ばれ現在の北四番丁大衡線の一部分です。

現在の地図(寂光寺があった場所:詳細はわからないので想像です)

(クリックして拡大)
現在では羽黒神社のみ残っています。

 


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  1. 横田や・横田 より:

    「寂光寺」検索していましたら出会いました。
    最近、寂光寺の参道がわかりました。横田や斜め向かいのピンク色のマンションが建っているところ。その北側に現在細い道がありますが(羽黒神社の脇までクランクして登る)その東側に立っている住宅1件分が元参道だったところと、むかしから参道わきに住んでいた方(90歳ぐらい)に1昨年聞きました。
    私も、今のクランクした道が参道の一部と思い込んでいましたが、まったくその東側だったとは・・。そう聞いてから見ると確かに今立っている住宅は、参道の上に立っているように見えてきます。

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仙台市内で鮭の遡上が見れるんですか?

2012/12/1

先日KHBの「ナマイキTV」で放送されていましたが、牛越橋の上から鮭の遡上が見れるんです! 私も12月1日(土)に見てきました。 うわぁー!いるいる‼ ↓拡大 岸の方には力尽きた鮭の屍もある。 なぜかこんなところに卵を発見! よくここまで頑張って戻ってきてくれたね。 (左上のは死んだ鮭です、川の中をよ~く見るとたくさんの鮭が並んで泳いでいるのが見えます) 私も以前参加したことありますが、ここからもう少し上流、賢淵手前あたりから鮭の稚魚を毎年放流しているのです。 何も考えずに放流したけど実際こんな街中の川に戻ってきた鮭を見て感動しますね。
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定義山で発見!

2012/11/25

先日の日曜日、定義山へ行ってきました。 何気に天気よかったですが、紅葉は完全に終わっていました。 旧本堂にお参りしてから、普段行かない裏側に行ってみました。 見ると「天皇塚 連理のケヤキ」という立て看板が立っていて階段を上っていくと大きな切株が祀られていました。 今まであまり考えたことなかったですが、定義如来の開祖は肥後守平貞能公という方で平重盛公の重臣だったそうです。 平家が、壇ノ浦の戦いに敗れた後、平重盛公より託された阿弥陀如来の御霊像をまもり、源氏の追討をのがれて、この地に隠れたのが始まりのようです。 そしてこれまで護持してきた安徳天皇の遺品を埋め、その目印に2本のケヤキを植え、その菩提を弔ったのが「天皇塚 連理のケヤキ」だそうです。 連理木(れんりぼく、れんりぎ)とは、2本の樹木の枝、あるいは1本の樹木の一旦分かれた枝が癒着結合したもの。自然界においては少なからず見られるが、一つの枝が他の枝と連なって理(木目)が通じた様が吉兆とされ、「縁結び」「夫婦和合」などの象徴として信仰の対象ともなっている。(Wikipediaより) それにしてもデカい! その後下に降り旧本堂脇の庭に出ると池に鯉が泳いでいました。 そしてその中になんとも珍しい鯉がいました! 色は白で、ヒレがすごいこれはまさにジュディ・オングの「魅せれらて」のあの衣装にそっくり!! なので、 愛称をジュディと言うそうです。(笑) もう一つ目にとまったのが定義如来の紋章。 変わった形ですね、蝶? これは平家の御紋章の揚羽蝶(アゲハチョウ)だそうです。 こちらの幕にも もちろん定義山と言えば三角油揚げなんど食べてもおいしいですね! やっぱり揚げたて最高!ここで食べるのが一番おいしいですね! ←ポチッと押してください!
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緑水庵公開

2012/11/20

良覚院丁庭園 良覚院丁庭園はもと良覚院という寺院の庭園であった所で、現在は仙台市が管理する茶室緑水庵として、その一部が利用されています。 仙台市内では北山輪王寺の庭園と並ぶ池泉回遊式庭園です。  良覚院は修験道の祈祷寺として代々伊達家の祈祷をつかさどっていた格式の高い寺院でしたが、明治初年に廃寺となり、現在ではこの庭園のほかに良覚院丁とういう町名にその名を残すのみです。 (仙台市教育委員会の看板より) 良覚院丁公園に隣接する茶室緑水庵とその庭園が時折公開されているというので見に行ってみました。(公開日は市政だよりなどに記載) 茶室には入りませんでしたが庭園を拝見しました、庭の作りは輪王寺のそれというより北六番丁にある六幽庵の庭園に似ているなぁというのが感想です。 どちらも高い建物に囲まれているのもかかわらず、街の喧騒を忘れさせるような空間です。 ←ポチッと押してください!
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「四ツ谷用水遺構を歩いて辿る会」その5

2012/10/24

今回の最終地点である六幽庵に到着しました。 庭園を初めて拝見しましたがなかなか広いんですね。そりゃそうです、もと島田市長が住んでいたところで、当時二中の校舎から庭が見えてましたから、だいたいの広さはわかっていました。 ここからは六幽庵の建物内に入ります。 中はこのようになっているんですね。 ここで昼食をとり、 そのあと、みんなで四ッ谷用水かるたなるものでかるた大会をしました。 みなさん真剣で早い早い!ほとんど獲れませんでした。(汗) その中の一枚。 北六番丁と通町の交差点あたりの写真で用水の上に交番が建っているという不思議な写真。へぇ~! 写真が横向きで見にくいですが、小さい小屋がそれです。 このあと仙台・水の文化研究会の会長さんのお話と 仙台リバースネット・梅田川の方のお話を聞きました。 今回参加してみて、今まで聞きたかったことを質問することができ、 また新たに知ったこともありましたが、 帰ってきてさらに聞きたいことが増えました。 またこういった催しがあればぜひ参加したいです。 ところで、現在四ッ谷用水は工業用水として使用されていますが、 実は仙台キリンビール工場で使用している水は四ッ谷用水のものだそうです。 その水を浄化してビールを造っているそうです。 知らないうちに私たちは四ッ谷用水とかかわっているのですね。 今回歩いたコース(地図をクリック) 最後に一緒に同行した方も記事を載せていましたので紹介します。 私のと比べるとかなりしっかり書かれていますね(汗) →「たまきさんBlog」


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「四ツ谷用水遺構を歩いて辿る会」その4

2012/10/24

さていよいよ北六番丁通へと入っていきます。 ただまだ四ッ谷用水は通りの上を通っています。 写真がアップ過ぎてどこの場所かわかりにくいですが、林宅寺の山門前の橋の横です。 この先をもう少し行くと、マンションの前でついに北六番丁通りと合流します。 マンション前のコスモスが咲いている場所の下を通っています。 そしてごみ集積所の後ろを通って、自販機の裏を通ってここで合流します。 ここは歯学部の裏にある四ッ谷用水の支流のひとつ支倉掘の遺構が残っているところです。 現在は大学病院の敷地になっていますが、昔は支倉通が通っていました。 そしてこの堀を背にして見るとその先の支倉通へと流れは北上していきます。 ここは珍しく逆方向へ流れていました。 そしてその遺構の名残が今でも確認できます。 左側の塀の下部の石垣が四ッ谷用水のものです。知らなかった! ちなみに第二支流は木町通を南下し、 第三支流は通町から国分町へと流れていました。


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「四ツ谷用水遺構を歩いて辿る会」その3

2012/10/24

春日神社前にある昭和15年当時の絵を見て説明する阿部さん。 ここから四ッ谷用水を先に進むとほどなく 四ッ谷用水の洗い場跡があります。 当時の階段状の石段がはっきりと残っています。 さらに進み土橋通を曲がります。 この通りは第一支流となり、下の本の表紙の写真は当時の同じ場所で右側がそれに当たります。(ちなみに自転車を置いて用水で何かしてる人は刃物の研ぎ屋さんで研いだ刃を濯いでるところだそうです) そしてここ 宮城県看護研修センターの真ん中にある松が当時から唯一残る松の木、一本だそうです。 ちょうどさきほどの昭和15年当時の絵に描かれていた池のある場所です。 【参照】春日神社前にある昭和15年当時の絵 ※先日のNHKの放送で使われたものと絵が違うようなのでもう一つ原画があるのでしょうか、絵はお堂の中に納められてるそうです) 第一支流跡(この先曲がって土橋通を行く) ちなみに土橋通と北六番丁通りの交差点の角にある建物はバイオテクノロジーを扱う立派な会社ですが当時は染織工場があって用水の水を使用していたそうです。


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「四ツ谷用水遺構を歩いて辿る会」その2

2012/10/24

四ッ谷用水の上を歩いていきます。 コンクリートの線が四ッ谷用水です。(赤いジャンバーの人が歩いているところ) 北山丘陵にそって四ッ谷用水が流れているのがわかります。 我々が歩いている道と右のアパートの間の溝を流れています。 電柱脇の白い棒は「四ッ谷の水を街並みに!」市民の会が立てた標柱です。 石切橋近くの瀬田谷不動尊(石尊神社)、この裏を流れています。 この神社では昔 お祭りではねこ踊りというのが踊られていてこれが現在の雀踊りの原点だと言われています。 またここは石職人の町で城の築城はもちろん、四ッ谷用水の建設にも大きくかかわっていると思われます。 この石橋(石切橋)はへくり沢に架かっていた橋です。


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「四ツ谷用水遺構を歩いて辿る会」その1

2012/10/24

10月24日 「四ツ谷用水遺構を歩いて辿る会」というものに参加してきました。 この会のことはたまたま通った六幽庵の前の掲示板で情報を得ました。 さっそく応募しましたが、 なんと定員15名のところ60名ほどの応募があったそうです。 いったいみなさんどうやって知ったのでしょう?先日のNHKで四ッ谷用水を特集したこともあり応募してきた方もいらっしゃいました。 とにかく60名中急きょ増員した21名の一人に選考されました! 朝の10時より15時まで有意義な時間を過ごすことができました。 集合場所の大崎八幡神社の太鼓橋前へと。 さすが晴れ男、昨日の雨が嘘のよう! 60代~70代の方がほとんどでしたね。 四ッ谷用水は伊達政宗が岩出山から仙台へ移った時に城下の人々が生活できるように整備したもので、郷六村の広瀬川から水を引いてきて、その水は城下を駆け巡り梅田川やもとの広瀬川へと流れていきました。 その用水は人々の生活用水として、火消しのため、作物栽培のためなどに使われました。 現在は本流のみが工業用水として今なお使用され、四ッ谷用水はコンクリートで覆われほぼ暗渠となっています。 太鼓橋から見た四ッ谷用水 今回の主催は仙台市ですが、協力として 仙台・水の文化研究会 「四ッ谷用水の水を街並みに!」市民の会 仙台リバースネット・梅田川 水・環境ネット東北 の方々が同伴してくださいました。 人数が多いため3グループ(よグループ、つグループ、やグループ)に分かれ、説明を聴きながら移動しました。 我々の「つ」グループには仙台・水の文化研究会の阿部義明さんがついてくださいました。 それでは出発!


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土井晩翠先生の作詞した校歌をいっしょに歌いましょうの会

2012/10/21

10月19日は土井晩翠の命日で青葉城跡の碑の前で立町小学校の児童らが歌ったそうです。 そして21日(日)に立町小学校にて「土井晩翠先生が作詞した校歌をいっしょに歌いましょうの会」が開かれ立町小学校の児童はもちろん木町通小学校の児童(6年生)や各高校の同窓会の有志の方達が集まり、それぞれの校歌を歌いました。 この会は元立町小学校校長の小野寺さんが発起人で、一時期教科書から「荒城の月」がなくなるかもという時に一生懸命に働きかけ、先生の没後50年ということもあり6年前からこの会が始まったそうです。 ですから今回は第6回、 今までやっていたのは正直知りませんでした。 仙台が誇る偉人、土井晩翠がもっと仙台人、全国の人たちに浸透するためにはこういう会は大切にしたいですね。 この会は一般の人も見ることができるので、時間のある方は一度見に行ってみてはどうでしょう。 来年も同じような時期に開催されると思います。 「土井晩翠先生が作詞した校歌をいっしょに歌いましょうの会」で検索すると何かしらヒットしますよ。 土井晩翠先生は前にも述べたように熊谷屋の向かいに家がありそこから木町通小学校に3年生まで通っていました。 その後父親の商いである質屋の事業拡大にともない大町へ引越し現在の晩翠亭あたりに住み立町小学校へ3年生の時に転校しました。 そして両校とも校歌は土井晩翠先生に作詞していただきました。 ちなみに立町小学校には土井晩翠先生の資料室があるそうです。 (残念ながら見ることはできませんでした) 余談ですが、 木町通小学校卒の方にはわかっていただけると思いますが、わが木町小は卒業してほとんどの児童が仙台市立第二中学校へ行き最初の遠足か何かの際バスの中で各小学校の校歌を歌わされます。 そして木町小の校歌は必ず他小学校の友達に笑われてしまうのです。 「ラララララーン、ラララララーン、 そのあとついて勉めましょう~、 そーの あーと つーいて つーとめましょーおっ! ラララララーン、ラララララーン♫」 (笑) 親戚の叔母に聞いたところ「私の時もそうだったわぁ(恥)」 と、各世代同じ経験をしていたのですね(笑) この日最初の小野寺さんの挨拶の中に 「各校の校歌の中には 壮大なイメージを込めた校歌や、 お酒を飲みながら、筆がすべってしまった校歌などもあるでしょう…」 というお言葉が…。 木町通小学校の校歌の作詞を依頼する際、どぶろく2升でお願いしたという話を聞いたことがあります。 また、 ラララララーンは作曲した福井文彦先生が付け足したもので、 詩が短いのでもう少し長くしてくれと土井先生にお願いしたところ断られたので仕方がなく付け足しという逸話も聞いたことがあります。 とにもかくにもこのようなアップテンポな校歌は他にはないでしょう。 ラララララーン、ラララララーン♫ ←ポチッと押してください!
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コメント (1件)

  1. 佐藤 崇 より:

    校歌を検索していて,このブログにたどり着きました。
    熊谷屋,懐かしいです。
    木町通小学校の校歌のエピソード,楽しく読ませていただきました。
    私は,昭和60年4月から昭和62年の3月まで,木町通小に勤務していました。家内とは,木町通小学校で出会い,今も何とか仲良くやっています。(旧姓 川村 由美です。)
    私が知っている校歌で,校歌の中にランラン・・・が入っているのは,木町通小学校と宮城教育大学附属小学校だけかなと思います。私は,両校に勤務していますので,ランラン・・・に縁があるようです。

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