仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

タグ:歴史

市電開業90周年

2016/10/29

東北工業大学の一番町ロビーにて市電の当時の写真展があるというので行ってきました。

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私も幼い頃のかすかな記憶を辿って懐かしく写真を見ました。
当時の行動範囲はとても狭く家からの数百メートルほどの範囲しか記憶にほとんど残っていません。
長町の駅や原町の駅などは見てもわかりませんが想像を膨らまして見ていました。

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2階ではスライドを見ながら説明と座談会があるというのでそちらも参加しました。
開業90周年の節目の講演は宮城野区で印章店を経営する庄子喜隆さん。
面白いエピソードのたくさん聞けました。

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座談会は庄子さんに加え仙台市博物館仙台市史編室長の菅野正道さんらを交え行われました。

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「柏木市民センターふれあいまつり」でへくり沢の紹介とパネル展示

2016/10/8

10月2日(日)に柏木市民センターで
ふれあいまつりが行われました。

我々へくり沢研究会(?)もこれまでの成果を地域の人たちに知ってもらういい機会です。

我々は4日前に会場の設営準備をしました。
今年の場所は大会議室の脇の奥の小会議室です。ちょっと奥まってしまったので人が来るか不安でした。

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通路の壁にはこれまでの活動として、立体地図模型からジオラマ、公募した市民とのへくり沢探索などを紹介するために私の書いたブログを展示してもらいました。

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小会議室の中にも様々な資料が置かれ、どれも興味深いものです。

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当日はたくさんの人がおまつりに訪れへくり沢のコーナーにも来ていただきました。
へくり沢の説明をするのみなさん興味深かげに聞いて下さいます。
設営側としてはそれが一番の喜びでした。

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へくり沢探索ツアー

2016/6/4

3年前から柏木市民センターではへくり沢について講座が行われてきました。
最初は3〜4回に分けて講師を呼んで講座がありまして、私はへくり沢に興味があったのですべての講座に参加しました。

【へくり沢おさらい】
仙台城下町の北西に位置する深い沢、現在の八幡町あたり。
そこにかかる橋を土橋といい、そこに通ずる道を土橋通りと呼んだ。
へくり沢はどこなのか、土橋はどこなのか、なぜ土橋通りと呼ぶのか、幾つかの疑問を持っていたところにちょうどこの講座があったので参加しました。
その後講座を受けた人の中から有志で昭和33年の仙台市の地形模型を製作し、翌年には今野さんの描いた絵を参考に八幡町界隈のジオラマを作製。いずれもへくり沢の地形が詳しくわかるものでした。

この事業は4年間と決まっているそうで、今年がラストイヤー。その集大成で完成直後まずは一般の方を迎え事業報告会、そして翌年の柏木市民センター祭りで来場者への披露及び説明、
さらに実際にへくり沢跡を受講者たちが今までの知識を元に市民(まち歩き参加者を募り)に説明しながら歩く事業を行いました。
すでに去年の11月に2度行っており、今回は3度目。

今回のスタッフメンバーは柏木市民センター小野館長と山内さん、有志メンバーより私の他、北波さん、三品さん、鹿戸さん、付き添いで青葉区中央市民センターのお二人。その他、春日神社待機組が今野さんと皆川さんです。

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今回6月4日に行われ、この日はとても天気が良く、良すぎて日焼けしてしまうほどでした。
前回の集合場所は柏木市民センターでしたが今回は知事公館です。

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ここはすぐ下に新坂という坂があります。新坂というからには新しい坂です。そしてそこへ向かう道を新坂通りと呼びます。
現在の新坂通りはそこから大学病院を越して北側に位置します。そこは新坂町がありますがそこから南には大学病院に突き当たります。
しかし本来なら大学病院ができる前は道があり、さきほどの新坂まで繋がっていたのです。
ちなみに大学病院ができて寸断された時は西側脇に新新坂通りが作られました。

新坂は新しい坂と申しましたが、これはへくり沢を渡るために元禄年間頃に新しく作られた坂という意味です。

館長さんの挨拶と北波さんの解説。

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まずは15人ほど参加者が集まり2班に分かれて出発しました。
最初は知事公館よりすぐ下にある東北で最古の板碑、澱橋不動尊。

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それについて一通り説明が終わると何やら隣の民家に移動してここには大砲の弾があると説明してくれました。
説明してくれたのはそこに住む方でした。何やら集まっているのを見てせっかくだからと庭の敷地に入れていただきました。他人の家なので本当は入っていけないのですがご主人自ら説明してもらい、思わぬ偶然にラッキーでした。この砲弾はロシア戦争の時のものらしいです。

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そこからへくり沢の河口にあたる地域を歩きました、ここは暗渠で現在、住宅地になっています。ちょうど尚絅女学院の裏の崖です。

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上の写真は下の写真の住宅の真ん中を通る道路を歩いているところです。

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とても深い崖になっていますが、普通河口でしたら浅く広がりをみせています。しかしその昔へくり沢と広瀬川は平行して流れていて、流れの速い広瀬川にその一部を取られてしまったのです。いわゆる河川争奪で途中からもぎ取られたため本来の河口部分が無くなり深い沢からいきなり広瀬川に流れるような形になったのです。

集落を抜けると壁にぶち当たります、この壁こそが土橋なのです。よく見るとジグザグにつたって上に登る道があります。国道48号戦から尚絅女学院へ向かう途中両側を見ると両側は深い崖のようになっています。つまり沢を横切るように道が走っているのです。

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土橋に上がってから疱瘡神を見学。
これは一見何でもないような石ですが、ここを工事した時に掘り起こされ、その後、実はたいへん古いものだと判明しこの場所に祀られたそうです。

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我々がここから移動しようとした際にここの町内会長さんが声をかけてきて疱瘡神について当時の事を話してくれました。掘り起こされ時は単なる石と思われ捨てられたのですが後から貴重な歴史的石だということがわかって一生懸命探したそうです。誰も見向きもしない石を一生懸命見ている人達がいたので声をかけたそうです。
当時の話を当事者から聞くのはとても貴重でした。

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土橋の反対側に周り、急な斜面を下りて行きました。ここもへくり沢の深い崖です。
その昔、戦前ここには旧制ニ高のアイスホッケーのリンクがあったそうです。
当時リンクを管理していた庄子さんのご子息がそこに住んでいてお話を聞くことができました。

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現在は建物が建っていますがそこにリンクがありそこに張った水はへくり沢の水ではなくもともとは四谷用水の水だったのだそうです。四谷用水とへくり沢が交差する春日神社の掛樋から12月の5日間朝の8時から夕方の5時までへくり沢へと解放したのです。そしてリンク使用中、へくり沢はリンクの下を流れていたらしいです。

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なぜここにリンクを作ったか?ここはスペースがあり深い沢で日陰なので氷がなかなか溶けにくいことが理由にあげられます。
大きさは30m×60m、これらのことは尚歯会の文献に残っているそうです。

このあとへくり沢の暗渠に沿って遡り石切橋まで移動しました。

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ここまでくるとへくり沢はある程度細く浅く、渡りやすくなりこの橋を通って昔の人は西側と東側の往来をしていました。
逆に言えばここしか橋が渡せず、中島丁の侍もみな遠回りをしてここを通ることになります。
ここは昔の欄干の名残があります。

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春日神社に移動して待機していた今野さんが説明をしてくださいました。
社殿の中に掛けられた今野さんが子供の頃の昭和15年頃の記憶をもとに本人の描いた八幡小学校界隈の絵図を見ながら、説明を受けました。質問も多く出てなかなか終わらなかったようです。

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春日神社の社殿より参道入り口の鳥居までいくつか段差があり、その途中を四谷用水が横切っています。神社より東へ30mほど行くと昔四谷用水の水を使って洗い物をしていた洗い場跡があります。

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今回はへくり沢がメインなのでいったん戻り、いわゆる赤道(あかみち)となった暗渠を辿ります。この赤道は春日神社脇の四谷用水と交差するところから国見小学校あたりまで続く遊歩道になっています。

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交差の場所はあの「プラタモリ」でタモリさんも訪れたところ。

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赤道をしばらく進み、道は更に続くのですがタコ公園のところで右折して土橋通りに出て柏木市民センターへと向かいました。
市民センターに着いて総括をしたところで解散。

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ひっそりと佇む弁財天と梅田川の源流

2016/6/3

4月22日に国見ヶ丘にある弁財天でお祭りがあるということで、
普段閉まっているお堂の中が見れるかもと思い行ってみました。
時間の都合上、朝早い時間に訪れたところ
幸いにもすでに祭りの準備は整っておりお堂も御開帳されていました。

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中には綺麗な観音様とその両隣には歴代の僧侶のリアルな像が2体安置されていました。

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ここは仙台市の有形文化財に指定されており、臨済院敷地の奥は公園として整備されています。その中には歴代僧侶のお墓もあります。

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立看板内容によると

「仙台市指定有形文化財(昭和62年9月11日指定)
臨済院は、元禄14年(1701)に仙台藩四代藩主伊達綱村により開基された黄檗宗寺院である。この弁財天堂は、三間四方の宝形造で頂上に露盤、伏鉢、宝珠を載せ、向拝部には虹梁など江戸中期の様式的特徴が認められる素木造の簡素な建物である。堂内には、
彩色の弁財天座像を安置している。
かつては大寺院であったが、現在はこの堂のみが残り、茅葺であった屋根を昭和63年の解体修理工事の際に銅板葺とした。解体時に屋根裏から「宝永」と記された棟札とみられるものが発見されたことから、建築年代は宝永年間(1704-1711)と考えられる。
周辺は、歴史公園臨済院公園として整備されている。
平成11年2月 仙台市教育委員会」

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黄檗宗に傾倒した第4代仙台藩主伊達綱村公が元禄14年に角五郎丁に作らせたのが始まりで、その後第5代藩主伊達吉村公により正徳5年に吉成へ移されたそうです。
吉成という地名がいつからあったのか、ここの国見ヶ丘のことを指しているのかはわかりませんが。
明治に入り廃仏毀釈でそれまで寺領と藩の保護を受けてきた臨済院は檀家を持たないため廃寺となってしまいました。

その後、弁財天堂のみが残り地元の人達に守られてきました。

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そしてお祭りは毎年4月22日に行われているそうです。
なぜ4月22日にお祭りかと地元の人に尋ねたら由来はわからないがずっと昔から曜日にかかわらず決まってその日に行われてきたそうです。

弁財天はもともと弁才天だったのが財と音が似ていたことから財宝神として現在のように弁財天と書かれるようになったとか。



弁財天堂の周りには小さなお堀のようになっており水が張っています。また裏側には小さな池があります。
水は赤く鉄が錆びたような色です。

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実は七北田川に合流し海に流れている梅田川の源流がここなのです。
北仙台駅の北側の堤町は昔堤(池)がありここから採れる土を使い堤焼を作っていました。
赤茶けた色はこれと共通しているのではないかと思います。
また、中山のうどう沼公園の奥の湿地帯も同じよな赤い土、赤い水なので直接川で流されて下流に行ったのではなく同じ土の層なのでしょう。

ちなみに私なりに弁財天より梅田川の開渠となっているところまでどのようになっているのか辿ってみました。
あくまでも推測ですが。
【写真奥が弁財天】

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そのまま手前に進むとサンクスの脇に出る(傾斜的にも妥当なのかなと)

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そこからさらに道路を横断して向かいのクリーニング店の脇を進む

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【この下を流れているのかと思わせるマンホール】

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そして福祉大の敷地へ入る

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と思いましたが、やはり国見ケ丘2号緑地を経由して梅田川へ流れるのが順当なのか、
分水嶺は実際歩いてみないとわからない。

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コメント (2件)

  1. バッケ より:

    この記事を見つけて感動しました。
    時折、巳の日に参拝してて、案内文にある「彩色の」を目にしてからは、いつかお目にかかりたいと、御開帳の日があれば知りたいといました。
    1度、いらしたご近所らしき方に尋ねたときは祭りが近くなるとのぼりが立つとのお話で機会を探っていましたが、今年は既に過ぎた模様。
    でも、画像をあげてくださって、願いがかないました。
    お祭りの日もわかることができました。

    お手水場には小さい竹ざるがあり、前はなかったので水面の汚れとりと思いましたが、後から違うのに気づきました。
    手に取って銭洗いをする者に便利です。
    ご厚意で置いてくださって地域の方々のお心を感じられる場です。

    余談ですが、弁財天様は近場で探した事があって、新坂通りの交差点角の荘厳寺を訪れた事があります。本堂後ろにお堂がありました。

    梅田川は貝ヶ森小学校近くの橋のところが人の手が入らずにあり一番好きな眺めです。
    山手町の辺りでは流れに沿って遊歩道があり、歩いてると飛石がありました。
    七十七銀行の近くでは魚が泳いでたことがありました。
    水源を辿ると弁財天堂から先がわからなくてここなのかなで終わってました。
    やはりそうでしたか。

    1. admin より:

      バッケさん
      御開帳の日は私もたまたまネットで見つけて、当日を待って足を運びました。

      梅田川は北山トンネルから出たところの橋の下には今も大きな鯉が泳いでいますよ。

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良縁を求め遥々と~ ” まぼろしの島田飴”

2015/12/7

黒川郡大和町吉岡に島田飴というものあり。祭でこれを手に入れることができたら良縁に恵まれるという縁起物。

宮床の北側に昔、宿場町で栄えた吉岡という町があります。そこにある吉岡八幡神社での毎年12月14日に行われるお祭りで花嫁行列があり、島田飴という変わった形の飴が売られます。
その島田飴を買い求めようと前日の夜8時から並び始め夜中には50人にもなるほど各地から人々がやってきます。
毎年売切れ、今年は2400個作るそうです。

さらに今年の12月14日お祭り当日はNHKの「あさイチ」が生中継で入るそうです。

島田飴の形は花嫁の髷(島田髷)をかたどったもので、縁結びの縁起物として喜ばれています。その大きさはハンドボールくらいの大きさとでもいいましょうか。



先日11月28日に河北新報でもちょうどとりあげられましたが、
今回その島田飴の製造過程を見学させていただきました。

ボランティアの方々で作られているということで、それらを仕切って切り盛りしているのが島田飴祭実行委員長の児玉金兵衛さんです。
島田飴はもともと「白酒屋」という菓子屋で作られていましたが菓子業やめてその歴史が終わりかけた時、児玉さんがその火を絶やすものかと「白酒屋」の職人さんに特別に弟子入りをして工場の一角を借りて作ってきました。その後も場所を変え職人さんに手伝ってもらいながらも飴作りを続けて来ました。
そしてその職人さんも高齢になり一緒に作ることができなくなり、いよいよ児玉さんへの肩の荷が重くなります。

児玉さんの自宅、児玉金兵衛商店は宿場町時代から酒屋を営む歴史のあるお店です。その蔵は平成27年NHKのドラマ『独眼竜花嫁道中』の舞台にもなりました。


朝早めに飴の仕込みを済ませ10時頃からボランティアのお手伝いの方々が来て飴作りの始まりです。

まずは髷の小さなパーツを形作っていきます。

次に土台となる大きな部分を作ります。型となる石に漆を塗ったものを使用して一つ一つ手作業で形作ります。
形ができたものは同じ型に移し替え冷まします。整形する際、飴の温度が熱くてもだれてしまい、冷め過ぎても伸びにくく難しいもので、力のいる作業です。飴に関わらず菓子作りは作業しやすい硬さでは製品としてうまくないのです。



昔使っていた型は木製です。



次に冷めた土台に赤い飴を巻きつけます。これも温度が大切です。温かすぎると内側の接着部分が剥がれてきます。


続いて赤い飴でもう一つパーツを作ります。これができたところでお昼休憩。




午後からは仕上げに入ります。午前中に作った二つのパーツを本体に取り付けます。この時も赤い飴を上から取り付けて接着剤の代わりをします。またこの赤い飴の温度が高すぎると他のパーツが垂れてしまいます。
赤の角のような部分が上に向かい、白い部分が左右に水平に伸びる、これが理想的な形です。

これまでの作業の中で見ていて一番苦労するところだと思いました。
みなさん一つ一つ思いを込めて真剣な表情で作業しています。

一通り出来上がったら最後はラッピングと箱詰めです。せっかく出来てもここで終わらせては飴が湿気ってしまいます。

最後に吉岡八幡神社に寄って行きました。隣には古い武道館があり現役で使用されているようでした。
みなさん良縁に恵まれるといいですね。


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仙台北法人会青年部会のメンバーが四ッ谷用水について学びました

2015/11/27

経営者の集まりの団体という仙台北法人会青年部会の事業で「四ッ谷用水を辿る会」を実施ました。 青年部会は特に30〜40代のメンバーが多い中で仙台郷土の歴史に興味はあれど触れることはなかなかないので今回の事業はとてもいい機会だったのではないでしょうか。 講師に「仙台・水の文化史研究会」の会長を務める柴田さんを始め3人の方にお願いしました、我々メンバーは二つの班に分かれて説明をしていただきながら四ッ谷用水の暗渠を歩きました。
スタートは大崎八幡宮のちょうど二之鳥居をくぐってすぐの太鼓橋からで、ゴールは北六番丁の茶室「六幽庵」までの四ッ谷用水の暗渠を辿りました。 太鼓橋の下も四ッ谷用水がが流れています。 私は以前にも何度か四ッ谷用水を歩き、ある程度知っているつもりでしたが、青年部会メンバーと一緒に歩くことができて、また新鮮でした。
フェンスの向こう側が四ッ谷用水です。現在は仙塩工業用水道導水路として使われています。
下の写真の歩いている左側が暗渠になります。
正面の緑の柵の左側の歩道が暗渠です。不自然な道幅になっています。
正面の建物はブラタモリにも出たところです。
上の写真の正面のアパートの向こう側から下の道に降りました。 ここ石切町にある瀬田谷不動尊は石切職人の神社でここで職人たちが踊った踊りが雀踊りの由来となったそうです。
石切町はその昔仙台城の石垣を造った石垣衆の屋敷があったところで、今も小梨石材店などがあります。
ちなみに写真の小梨石材店は盛岡から来たそうで、比較的新しい石屋さんなのだそうです。(もちろんかなり古くからあります)
築城当時から残っている石材店は48号線沿いにある黒田石材店だそうです。
春日神社の参道にある昭和15年ころ当時を思い出して近所に住む今野氏が描いたこの付近の絵です。 これをもとにジオラマかした模型が柏木市民センターに展示されていますので興味のある方はぜひご覧ください。
この先の春日神社の前を四ッ谷用水が横切っています。
上の写真の鳥居をくぐり階段を上ると境内との境目に四ッ谷用水が流れていて、その暗渠の上を歩くことができます。これを東に少し移動したのが下の写真。
これが四ッ谷用水へ降りる階段跡になります。住居の土地から四ッ谷用水までの高さが少し伺えます。ここで洗い物をしたのでしょうか?
春日神社から階段跡の途中に南に向かう第一支流跡がありました。この塀の向こうの直線的な通路がそうです。
土橋通に第二支流がちょうど歩道のあたりに流れていました。
写真は土橋通に面する宮城県看護協会で、ここがその昔伊達綱村公のお飼鳥屋敷跡でした。最近まで当時の松が現存していましたが今は病気で切られ切株のみがあります。(グーグルマップのストリートビューでさかのぼると松の木が確認できます。https://goo.gl/VZucW4
ここから東へ向かい北六番丁を歩くわけですが、四ッ谷用水はまだ道路の少し上を流れています。 下の写真の奥に見えるのは林宅寺へ用水を渡る石橋です。この写真を撮った辺りが(北六番丁の)通りの高さのピークでそれを過ぎたところ(となりの建物)で北六番丁通りへと降りてきます。
林宅寺となりの建物前の部分を通り道路へと合流します。
ここが合流地点。
ここは支倉堀と言って東北大学構内にあり、一部保存されています。四ッ谷用水はだいたい南側の仙台中心部へと支流から流れていくのですが、ここは珍しく北側へと流れていきます。
最後六幽庵に到着して、せっかくなので庭園を一周見て回りました。 六幽庵は仙台市の茶室ですがさまざまな用途で借りることができます。
もともと仙台市内の建設会社の橋本店から仙台市に旧橋本邸離座敷を「茂ケ崎荘」とともに寄贈されたもので、昭和33年(橋本店ホームページより)仙台市立第二中学校の北側の仙台市長の官舎脇に移築されました。
しかしながら残念なことにさほど使われることなく建物も朽ちて、また官舎に市長も住むことがなくなってしまったので平成に入り解体されたそうです。 そして平成3年に新しく生まれ変わって市民の憩いの場として建てられました。仙台市管理のもと市民に貸し出しがなされましたが、これもまた残念ながら存在があまり知られていないために十分に活用されていなかったようです。 そこで最近になり第3木曜日を一般無料公開日として利用を広めるよう力を入れています。 街なかにひっそりと佇む空間として心が落ち着きます。ぜひ足を運んでみてください。
お抹茶と菓子をいただき一息ついたところで柴田さんの貴重なご講話をみんなで聞きました。
立礼室(りゅうれいしつ)という外履きを履いたまま入れる部屋で行いました。
参加したメンバーは初めての体験でとても満足していたようです。
これからは街を歩いていても見る場所がきっと違ってくると思います。
最後にご協力いただいた「仙台・水の文化史研究会」の皆様大変ありがとうございました。 感謝申し上げます。

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見事なミニチュアの世界が完成しました。三丁目の夕日的な懐かしい風景

2015/3/3

へくり沢ジオラマ

前回、柏木市民センターにて行われた事業で八幡町を昔流れていたへくり沢(深い沢があったが現在は埋め立てられて暗渠となっている)を中心とした昭和33年の八幡町の地形模型を作製し、当時の土地の高低を再現しました。



それが昨年平成26年の春に完成し、その後の後継事業として八幡小学校を中心とした界隈のジオラマの作製を開始しました。
製作に携わったのは引き続き柏木市民センターの館長さん、マップテクノさんと地形模型作製に参加した有志の方々、そして古くから八幡町の春日神社近くに住む今野氏です 。

前回の地形模型は昭和33年の白地図を等高線に沿って切り貼りして立体化したものに対し、今回のジオラマは八幡町の春日神社あたりから小学校の脇の深い沢を流れるへくり沢と、昭和15年当時の風景を再現しました。

例えば建物、当時の屋根の高さは現在ほど高くない。ここは田んぼだった、畑だった、果樹園だった。この家は四谷用水の水を使って染物屋をやって庭で干していた。木に関してもここは梅の木だった、サルスベリだった、木蓮だった、金木犀、しだれ桜だった…と細かく当時の状態にできるだけ忠実に再現しました。


昭和15年当時の風景といいますのも、現在の春日神社の境内にある昭和15年ごろの周辺の絵とそれを描いた今野さんの当時の記憶をもとに作製したからです。



我々は電気コードの配線を剥いて中の銅線をねじって広げ木を作ったり、食器洗いの色のついたスポンジをハサミで細かく切って木の葉の部分や桜の花の部分を作りました。また、亀の子タワシを切り少量ずつ束にしてグリーンに色付けして田んぼの稲を表わしたり、ほとんどジオラマ用の既製品を使わず本当に手作りで作りました。
建物はプラ板を切って接着剤で固定して、その色付けに関しては全て今野さんにしてもらいました。




製作期間は完成まで約10ヶ月、月1〜3回のペースで集まりました。
と言っても私は参加できない時も多く、ほとんどの作業は他の皆さんの頑張りのおかげです。私は電気の配線の中の銅線の先を広げて木を作くるぐらいしかお手伝いできませんでした。




2月14日の事業発表会(お披露目会)では20人くらいの方々にお集まりいただき、今野さん達のお話を交えながら興味深げに皆さん見ていました。



中には外国人の姿もありました。

 


コメント (3件)

  1. きたろう より:

    返コメントありがとうございます。
    引用先のURL等下記の通りです。
    (引用元の貴ブログのURLは明示しています。)
    宜しくお願い致します。
          記
    ブログ名:SO-NETブログ→きたろう散歩
    ブログタイトル名:ブラタモリ・トレース/仙台・四谷用水(その1) 
    ブログURL:http://hiroshige-kitarou.blog.so-net.ne.jp/2015-11-14

  2. きたろう より:

    はじめまして きたろうと申します。
    先月、四谷用水を辿る散歩会を行い、関連でへくり沢も歩きました。
    この散歩会のレポ・ブログに貴ブログのへくり沢周辺の、立体地図模型の写真を転載させて頂きました。
    事後ですが、ご了承の程、お願い致しますm(__)m

    1. admin より:

      きたろう様
      引用先を掲載してもらえば大丈夫です。
      画像を掲載したブログのURLも教えてください。
      よろしくお願いします。

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仙台のキャバレー  遠く昔の記憶を辿れば…

2015/2/15

先日お寺の新年会があり他の檀家さんとお話しする機会がありました。
私は初めての出席で皆私より大先輩ばかりでしたが、皆さん優しい方でお話にも参加できました。

いろいろな話をしてる中で、昔 貴重な焼物の人形を収集している方がいたという話になり、その収集家の女性が錦町にあったクラウンというキャバレーでNo1の売れっ子でねぇという話を発端に当時のキャバレーの話で(お酒も入っていたので)盛り上がりました。

錦町にあったのは何て店だったか?確かクラウンだな。
二日町にもあったよな。えぇと…なんだっけ、そうそうソシュウって名だった。

私の生まれるずつと前の話だったのでもちろんぜんぜんわからない。ただ聞きながら現在のどこにあったんだろうというのが気になり始めました。
二日町?ソシュウは二日町のどこにあったんですかと聞くと今のパチンコ屋のところだよと。

あそこは私の小学校の頃の記憶だと(キャバレー)ニュージャパンがあったのを覚えています。よく家の窓から見える煌々と光る大きな赤と白のニュージャパンのネオン看板が印象的でした。
蘇州(ソシュウ)があったのはニュージャパンが出来る前のことだったのか…。

他にもニューフロリダとういうキャバレーがあったそうです。

これら以外にへぇー面白いと思ったのがタイガーというキャバレー。
タイガーは現在のメディアテークの場所にあったそうで、現在のメディアテークの前は仙台市のバスの車庫で、さらに前はパチンコ屋。


そのパチンコ屋の名前はタイガー春日町店。
キャバレーをやめてパチンコ屋になったそうです。
その場所にもうパチンコタイガーはありませんが、パチンコタイガーは今でも仙台市内にあります。

国分町にもパチンコタイガーがありますが、ここも昔はキャバレーがあったとかないとか。

 


コメント (18件)

  1. 佐々木一雄 より:

    子供の頃、家の近くにGI相手のダンスホール蘇州がありました。向かいは錦映画館で、10年以上もたった頃、クラウンと言う名に変わり、さらに10年もして二日町に、ニューソシュウと言うディスコができてました。湾曲したメタルな壁で、向かいの家は反射で大変だったとか!

    1. admin より:

      貴重な情報ありがとうございます。蘇州は錦町にあったのですね、それがクラウンの前進(?)
      二日町はニューソシュウというディスコだったのですね。
      ダンスホールとディスコをキャバレーの類に入るのか私にはわからないので、引き続き情報があれば知りたいですね。

      ちなみに39年の地図で二日町を見ると現在パチンコのパラディソがある場所は「宮城木材KK」と表記されており、この年はまだ存在しなかったのかと思われます。
      その後のニュージャパンは、ニューソシュウの「ニュー」を継承しているのかと勝手に想像します。
      ニュージャパンのネオンも煌々として不夜城の如くだったことを思い出します。

  2. 宇宙大好き爺 より:

    昔話を聞いて頂き嬉しいです。
    ソシュウを閉めた後、ゲームセンターが同居したボウリング場を始め、ボウリングが下火になって、キャバレーニュージャパンを始めました。その当時は、まだパチンコは本気でやってるようには感じませんでした。まっ私の印象ですが。はや半世紀も前の事です。

  3. 井上研一郎 より:

    学生時代、熊谷屋さんの向かいの晩翠荘に一年半ほど住んでいた者です。ソシュウのことはボンヤリ覚えています。今のパラディソの向かいあたりにあったと思います。通りの東側でした。

    1. イソイソ より:

      ソシュウの8周年の花瓶が我が家に有ります!

      1. admin より:

        素晴らしいです。できたら写真みたいですね。

        1. 宇宙大好き爺 より:

          今年64才になる仙台在住の爺です。
          ソシュウは今のシャンボール二日町の所にありました。私の母が勤めてました。
          ソシュウを閉めてから、今のパラディソ二日町の所にボウリング場を扇屋商事は作りました。フェニックス66という当時東北最大でした。その後ニュージャパンに変えました。
          1階はパチンコでした。
          ボウリング場です高校1年の私がアルバイトしていたので間違いないです。
          懐かしい記憶がよみがえりました。

          1. admin より:

            今のシャンボール二日町の所とは市役所寄りのレンガ調壁面の建物でしょうか。扇屋商事の表札があるので事務所が今でもあるのでしょう。
            ずっと、パラディソの向かい辺りかと思っておりました。教えていただきありがとうございます。
            ソシュウとニュージャパンは系列店だったということなんですか。

        2. イソイソ より:

          写真を送るのはやり方がわからないので携帯のアドレス書いておきます 
          興味がありましたらメール下さい、メールには添付出来ます!当時の写真から判断すると蘇州は私の父がマネージャーだったと思います

          1. 田中弘美 より:

            私の父が写っているか、わかりませんが、写真欲しいです。当時は写真が高く、数枚しかありません。バンドメンバーも、ほとんど記憶にあります。写真が凄く欲しい。どうぞ、よろしくお願いします。

          2. 田中弘美 より:

            ソシュウのドラムの娘です。あまりにも懐かしくコメントしました。小柳るみ子さんがソシュウに来たとき、小学生だったので、リハーサルをみせてもらいました。父はかっこよかったです。享年51歳で、かっこいいままなくなりました。

    2. admin より:

      コメントありがとうございます。
      もしかしたら現在駐車場になっているところ当たりなのかもしれませんね。

  4. 蛇 頭 より:

    コメント、失礼します。
    昔、「ニュージャパン」ってキャバレーに通ってました。

    その当時の事が気にかかり、ググってましたら、
    こちらにたどり着きました。

    私、現在55歳でして、
    当時は、19~20歳でした。
    当時は、自衛隊に勤務してました。

    その後、東京で「ホテル、ニュージャパン」の火事で、
    地元にUターンして、ニュージャパンを懐かしく思い出して、はや、35年。
    当時のネタ、あれば調べたいです。

    1. admin より:

      コメントありがとうございます。
      ニュージャパンがいつまであったかという正確な記憶はありませんが、「ホテルニュージャパン」の火事のニュースがあった当時、同系列のホテルなのかなぁと小学生の私は思っていましたが、
      実はキャバレーたったということはかなり後から知りました。
      1階はゲームセンターだったことは覚えてます。

      なかなか調べようにも資料が無いですね。当時を覚えているからお話を聞くしか…。

      1. 蛇 頭 より:

        管理人さん、わざわざ返信下さいまして、有難うございます。
        私の、遠い記憶の思い出話しに付き合って下さいまして、嬉しいです。
        ちょっとだけ、話しさせて下さい。

        話しの舞台は、昭和58〜60年になります。
        まだ、18〜20歳までの年齢です。
        私は、高校を卒業して多賀城の自衛隊に入隊しました。
        出身は、宮城県の隣県です。

        普段から、柵に囲まれた生活をしてまして、唯一の楽しみと言えば、週末の外出です。
        東北の繁華街、仙台市の国分町でした。
        しかし、ニュージャパンは、国分町から離れた場所でした。
        確か「木町」「二日町」のどちらかでしたね?

        宮城県民会館を目印にして、ずっと奥の方に行きました。
        白い建物で、真っ赤なデカいネオン看板に、
        「世界の社交場、ニュージャパン」
        と、あった記憶があります。

        管理人さんの仰る通り、1Fはゲームセンターでしたね。
        長い一本のエスカレーターが有り、昇ると「ニュージャパン」でしたよ。

        書いてると、少しづつ思い出して来ました。
        長くなるので、また、来ます。
        よろしくお願いします。

        1. admin より:

          煌々と光るネオン看板を毎晩、部屋の窓から見ていました。(自宅が目と鼻の先なので)
          けっこう芸能人も来たと聞いています。

  5. アルサロ天国 より:

    駅前には、アルサロ「天国」があり、パチンコ屋の裏に怪しい「未亡人クラブ」
    がありました。

    クラウンとタイガーが覇権を競っていましたが、
    ニュージャパンの出現で、女性の移動が凄かったです。
    ニュージャパンの女性は、その当時出たばかりの
    ポケベルを持たされていました。吃驚です。
    ホールは野球場の階段状になっており、凄かったです。

    当時は、どこも生バンドがあり、そのバンドをバックに
    歌うのは、とても気持ちの良いものでした。

    空襲で焼けた仙台市長車のエンブレム
    http://blog.goo.ne.jp/mbne230/e/c61d718af840bfbfc8e0cf0794dc9d40
    文化横丁
    http://blog.goo.ne.jp/mbne230/e/6805309eb0157be3e2c4627079b173e1

    1. admin より:

      こんにちは。
      学生時代に仙台で過ごされたんですね。
      この時代をお過ごしになった方のお話はとても参考になります。

      ありがとうございます。

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日本初の近代港は宮城県だった  ~野蒜築港~

2014/12/1

昔、野蒜海岸に港を作る計画がありました。いわゆる野蒜築港です。
(野蒜は日本三景の一つ松島の北側に位置する)

明治初期石巻港が北上川上流からの土砂の堆積により河口港としての機能が低下したため、新しい港の建設が必要となりました。
明治政府による日本初の近代港として着工された東北一大事業が野蒜築港です。
下の写真の新市街地とは野蒜築港事業によって新たにできた、鳴瀬川と新鳴瀬川分流に挟まれた市街地のことです。


事業は明治11年から始まり、明治15年に完成したが、明治17年9月の台風により被災し機能を失い、また修復には多額の費用がかかるため事業は断念されました。

現在でもその遺構は残っています。
当時の新市街地跡から新鳴瀬川に架けられた橋の赤レンガ造りの橋台跡、
(東日本大震災の)津波で上の部分はさらに侵食されたようです。

 



新市街地跡にある記念碑と当時使われたローラー。
ローラーの側面には「土木」の文字が見られる。
記念碑もローラーも一度津波で流されたのを元に戻したようです。

 


野蒜築港に伴い東北初の気象観測所となる測候所設置され、その跡地。



津波で削られたレンガが砂や他の瓦礫とともに散乱している。


津波の後以前の風景とは異なり遺構を探すのに少し苦労しました。





瑞鳳殿の参道の入り口すぐ左手に「鹿児島県人七士の墓」というものがあります。
宮城県監獄署に収監された薩摩藩の西南戦争政治犯たちも人夫として野蒜築港に尽力したそうです。

 


この薩摩の政治犯を率い野蒜築港の煉瓦(レンガ)製造技術を伝え、仙台に煉瓦建築をもたらしたのが煉瓦技師の植木留吉という人物です。

東京から来た留吉は仙台で独立し、仙台初の煉瓦工場を建て、仙台初の煉瓦建築は警察署だったそうです。その他にも裁判所、大学の煉瓦建築に携わったそうです。

この煉瓦会社は当時土樋のあたりにあったそうですが、広瀬川の洪水で会社が流されたのちに北山手前の木町に移転しました。


これが植木瓦店だったのです。→/blog/1950
こんなにも身近なところと野蒜築港が関係していたことを知ってとても驚きました。

 


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地元地域の歴史、再確認。

2014/10/23

仙台市立第二中学校の二中会研修交流委員会主催の(二中保護者対象)講座が10月23日に開かれたので参加してきました。

講師はへくり沢でもお世話になっている柏木市民センターの岡崎修子館長。
岡崎さんは以前「城下町仙台を歩く」という歴史的町名のハンドブックの監修に携わりその執筆もなされたそうです。(当書籍は仙台市役所1階の市政情報センターにて購入可)
中学校の視聴覚室を借りて1時間半ほど行なわれました。
参加者9人



内容は「私たちの住むまちの歴史あれこれ」と題しまして仙台藩開府からまちの簡単な変遷とともに学区内を中止に城下町のつくりや昔の町名について話していただきました。
特に現在の町名と違い昔の町名には意味があり、例えば材木町は材木屋の町で木町通は木町(材木町)に通ずる通りという意味など、なるほどと思うことがいろいろあり豆知識が増えました。

お話が終わった後も保護者から様々な質問がありとても有意義で、参加した皆さんはきっと満足して帰られたと思います。
というより好奇心を掻き立てられもっと聞きたいのに時間が足りず、むしろ満足に達しなかったのではないでしょうか。

これをきっかけに、今回の話を家で話したり、知人に話したり、興味を持ってさらに知ろうとしたり、広がっていってほしいと思いました。

自分の子が通っている学校(二中)の周囲には面白い歴史がたくさんあるっていうことを知ることができたはずです。
もちろん、二中に限らず自分の住んでいる地域にはたくさんの興味深い歴史があり、実はそれが教科書に載るような大きな歴史につながるものだったということもあるはずです。

今回参加した保護者の人数は9名という少人数でちょうどよい人数でした。
もし今後もこのような会を開いていただけるのなら、間違いなく参加者の人数もさらに増えると思います。

以前ブログで菅克復のお話をした時、小学校で仙台の偉人について子供達が教わったと書きましたが、小中学生が郷土史を教わるというのはとても大切なことだと思います。
親達についても同じです。昔を知る人から聞いて、また子へ伝えていく。
自分とその土地の関わり、郷土愛が培われる。
技術が進歩したこの世の中、若い人は新しいものだけがいい、昔のものは堅い古くさいという考えをしがちですが、今までの歴史があって今の自分があるということを忘れてはならないと思います。



今回の講義は、今まで私が受けてきたものと違って特に素晴らしいものだと思いました。なぜなら今までのものはもともと興味があり、あるていど知っている方が参加していましたが、今回は興味は無いわけではないがこういった歴史になかなか触れられない方が参加してくださったので大きな意義があると思います。

岡崎館長、二中会研修交流委員会委員長、設えありがとうございました。


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