仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

カテゴリ:歴史

白松がモナカは旅館業だった

2015/11/2

青葉区木町通一丁目、仙台市立木町通小学校の裏側(西側)の通りに晩翠亭いこい荘という旅館がある。なんでもミシュランジャポンに載ったそうです。
他の人から見ればうちもそうかもしれないが、 なんでこんなところに旅館があるのかあるのか不思議で仕方がなかった。
旅館などの立地は温泉などの観光地あるという一般的なイメージ。街なかでアクセスも便利ですが特に観光地が近くにあるわけではない。(でも見るものはたくさんありますよ)
ここだけではない、仙台市内でもなんでこんなところに旅館がと思うところはよくあります。


話は変わりますが、
白松がモナカの大学病院前店が白松がモナカの第一号店と聞いています。
ではなぜなぜこんな場所に始めたのか?
店名の通りすぐ近くには東北大学の付属病院(通称:大学病院)があり、
お見舞いに行く人がそこでモナカを買って持っていくということを見込んでということは
簡単に察しがつきます。


下の写真2枚は道路拡張前の白松がモナカ大学病院前店です。
おかちゃんさんのブログよりお借りしました。


詳しく白松がモナカの社長に尋ねたところ、戦後初めての店はやはり大学病院前店(現在より北にひとつずれたところ、北四番丁大衡町線の道路拡張のため現在の位置に移動)で、
それ以前は、同じ場所で下宿屋を購入して旅館として営んでいたそうです。

実は昔は、いこい荘 の近くに森末旅館がありました。ここは森公美子さんの実家でのちにホテルニューモリスエ、そしてホテルセントキャッスルと名前を変え現在ではマンションが建っています。
その他にも本田旅館(確か小学生の頃まであったと思います) や、
大盛館などの旅館が数軒ありました。

真ん中のマンションが元森末旅館の場所

この昭和20年代~30年代の木町通商店街の地図を見るとそれぞれの位置がわかります。ちなみにいこい荘は掲載されていませんが、創業昭和39年ということなので現在の場所からみると福寿荘の後に建てられたものと思われます。
遠正文具店(赤下線)は現在、大学病院向かいの角のビル1階にあります。
大林商店(赤下線)はダイリンと読んでいわゆる10円駄菓子屋さんで、小学生の当時は大変お世話になりました。

昔は交通の便が悪いく、遠方からの患者等は時間をかけてやってきて遅い時間に着き、その晩は病院の近くで泊まり次の日朝早く病院に向かう人が多かったということです。

つまり大学病院周辺の旅館はみな、遠方からの患者等が仙台に来て次の日の朝早く診察を受けるために泊まるための施設だったのです。

いこい荘はその当時からではありませんが、大きな流れとしてその名残りと言えるのではないでしょうか。
そして今では仙台中心部へのアクセスも活かしながら丁寧で細かなサービスを提供することによりいこい荘はミシュランジャポンに載ることができたのでしょう。


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柏木ふれあいまつりでへくり沢の研究発表

2015/10/10

柏木市民センターで「柏木ふれあいまつり」が10月4日に開催され、外では屋台で飲食ができ、体育館ではステージで踊りや中学生の琴の演奏などがありました。
また館内では各サークルの発表に混じり、へくり沢の地形模型とジオラマも展示されました。










柏木市民センターは元仙台高校跡地にある市民センターです。体育館は街の中ではけっこう広いのではないでしょうか。会議室も十分な広さがあり、そこでへくり沢を中心とした昭和33年の地図をもとに作成した地形模型と八幡小学校界隈とへくり沢の昭和12年ころのジオラマ模型を展示しました。







地形模型は2014年の2月から有志8名ほどで半年かけて作ったものです。厚さ3mmのスチレンボードに昭和33の仙台の地図を写したものを数十枚用意し地道にカッターで切り、重ねていったものです。これでより立体的に地図を見ることができ、へくり沢の崖の深さを目で確認することができます。

ジオラマ模型はさらに対象地域をクローズアップし八幡町の春日神社入り口にある今野氏の昭和12年ころの記憶をもとに描いた絵を参考に作成しました。模型は単に地形ばかりでなく当時の建物により近づけて作りました。また田んぼや畑、その他の木々も記憶をもとに細かく再現いたしました。
当時を知る人にとってこの模型はとても懐かしいものなったでしょう。


このジオラマは地形模型完成後に着手し、これも半年くらいかかり2015年の春に完成しました。最初市電は複線で作製したのですが、この年はまだ単線だったとの意見から複線から単線へ付け替えたりして細かいところまでこだわっています。

作製に関わった受講生の我々は素人ながらに今まで学んできたことを活かして来場者に解説・説明をしました。

熊谷屋ブログも参考として並べさせていただきました。




こちらは蒲生の地形模型で宮城野区中央市民センターのみなさんが作成したものです。 




我々は単にこれらのものを作ってきただけではなく、それの前には3回の講義と1回の現調をしてへくり沢について学び調べてきました。
講師の方のお話だけではなく、今野氏の昔の記憶や受講生メンバーで地元の方の記憶の話や地質に詳しい先生などの話も交えてとても貴重な事柄を知ることができました。これは講座に参加したり本で調べたりするだけでは知り得ない貴重な情報でした。 


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跡付丁と跡付丁公園  春日神社には昔 参道があった

2015/7/10

春日町の裏通り、法務局の裏辺りに小さな公園があります。いつもなにげなく通っていましたがその名前は跡付丁公園というそうです。



近くの辻票に跡付丁/北材木町とあったのでその跡付丁から名前がきているのだろう。



木町通一丁目の通りに東西に交差する道の角に辻票が建っていたのでその東西の道が跡付丁なのだろう。

しかし近所に住む知り合いに聞くと実は現在の場所と違うんだそうです。

実は現在の場所より少し南にずれて木町通一丁目の通りにある須藤紙屋さんの向かいから東に延びる道が昔の跡付丁で、それは国分町の通りまで突っ切っていました。(現在は西公園の通りから跡付丁公園まで)。



現在の表具屋さんの裏の辺りが昔の通りで春日神社のすぐ真裏を通っていたことになる。



では春日神社は後ろも前も道に挟まれた薄い土地だったのか?



これも実は現在の道とは若干違い今より少し南に道が位置していました。
現在の春日神社の正面はすぐ道路なのに対し大正元年の地図を見ると、参道の印が表記されています。




これらは戦後の区画整理で土地が区画し直され、周囲に分配してどうしても余ったところが跡付丁公園になったそうです。

大正元年の地図を見てわかる通り現市役所の南側の通り(表小路)と北材木町の通りを直結させるためにずらしたのですね。

ちなみに大正元年の地図には跡付町とありますが丁と町とちらが正しいのでしょうか。
【跡付町】(ここでのよみは 「あとつけ*ちょう」 と呼んでいる)
跡付(あとつけ)とは幇間(たいこもち)の異名で、即ち遊客の機嫌を取り、酒興を助けることを仕事とした男衆のことである。…住んでいた所からこの町名が生まれたと思われる。
三代藩主綱宗が隠居した万治三年(一六六〇)に本弓の町・二日町・天神下などの遊郭屋が禁止されたとか、当時国分町に外人屋(諸国各藩などから来た人々の宿泊所)がこの附近に置かれたことなどを思い合せてみると、二日町や国分町に隣接するこの裏横丁に、跡付町のような性格の町の存在が想像される…。
(仙台地名考より)


コメント (1件)

  1. ごとう よしこ より:

    ブログを拝見しました。今年も春日町内でお祭りが行われます。昔の写真を集めて皆さんに見て頂く機会を作っていただきました。是非こちらのブログもそのまま掲示させていただきたいのですが、いかがでしょうか?お店のpdfにして印刷と考えています。お店の名前もそのまま出ることになります。ご了承頂けたら、印刷(A4)し掲示物を作りたいとおもいます。使用は来月6月9、10日です。ご検討よろしくお願いいたします。

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北山 寂光寺の参道はここにあった

2015/6/11

北山羽黒神社の別当寺は青葉山 寂光寺だったという話は(「北山の羽黒神社と青葉山の名の由来」)以前にしましたが、その参道の名残りがわりと最近まであったとう話を輪王寺の斜め向かいに店を構える横田やのご主人に教えてもらいました。寂光寺自体は明治元年に廃寺となりました。横田やのご主人が北山に住む90代のおばあさんに若い頃はその参道の名残りがまだあったと教えてもらったそうです。
実際その場所に立ってみると予想以上に広い参道でした。
それだけ大きなお寺だったのでしょうか。境内は羽黒神社の東側で北山霊園より南側あたりではないかと推測します。
左側細い路地がその先クランクになっており羽黒神社へとつながる。この道より右(東側)からピンク色のマンションが建っている位置までが参道の幅です。
地図上で確認。(地図をクリックで詳細)この地域は根白石街道と秀衡街道に挟まれたところである。
ちなみに現在の羽黒神社境内にある愛宕神社がもとあった場所は北山霊園の真ん中南側あたりだそうで現在も参道の一部が残っています。
この階段は壁で左に曲がりその先は北山霊園の管理事務所の裏にたどり着くが、実際当時はどうだったのか。壁の先に階段があったのか?
反対側から見るとちょうど壁のうらは駐車場?になっており開けている。ここら辺が愛宕神社の境内だったのか?
北山霊園内にの駐車場のど真ん中にどうどうとある松の木。
これも昔からのものなのか。こういう邪魔なところにある大きな木は大概そうだろう。
そういう木とそれを残そうとした配慮はとてもすてきだと思います。


コメント (7件)

  1. バッケ より:

    進展あったら書き込みしようといましたら大分日が空いてしまって失礼します。
    この旧街道の先、枯木橋の傍らに、(確か)「月山大権現 羽黒山大権現 湯殿山大権現」と刻まれた石碑があり、その繋がりと田中様のように思っておりました。
    せめて碑がある地に昔あった物がどのようにあったか知りたく、図書館で古地図を見ようとしたものの自力で探せずじまい、これ以上辿れずにいました。
    久しぶりに碑の前を通ったついでに再度碑を見ました。すると、日が射してきて前には見えなかった文字を確認。
    「金峯山 行者」
    名前の隣に細く刻まれておりました。
    脇に日付と講中立之の文字。

    話は飛びますが。鉄門海上人についてネットで読んでいたところ、下記の表記がありました。

    『上人の足跡が、北は北海道から関東にまで及び、庄内地方をはじめ上人の徳を称える頌徳碑がいたるところに建立しています。 主な石碑を一覧表にまとめましたが、現在も調査中です。 皆様の近くに『湯殿山 鉄門海』などと刻まれた石碑がありましたらお知らせ頂けると幸いに存じます。御協力をお願い致します。

    県名 市町村 石碑数 場  所 碑    文 建立年月日

    庄内町 22基 余目連枝 厳島神社 湯殿山行者 鐡門海
    (一部抜粋)』

    このような碑なのかもしれませんね。
    金峯山寺、奈良の吉野に縁のあるお方と思いました。
    遠き昔、このような方がいらっしゃった事、それを残して伝えた事、今、このように気づく事、少ししみじみと思いをはせました。
    どこまで当たってるかわかりませんが、ネタを投げた者としてこれで話がとりあえず締められればすっきりしそうでしたので書き込みいたします。

  2. 田中泉 より:

    石碑「徳音海」についての予想

    各位
    おばんでございます。
    表記の件、思い当たることがあるので書き込み致します。
    「徳音海」の文字がどのように刻まれていたかは存じ上げませんが、
    私には人名の様に思われます。
    では、どこの人間か。
    現在の山形県、出羽三山の湯殿山系統の行者であれば納得できます。
    明治の廃仏毀釈以前、出羽三山は月山と羽黒山が天台宗、
    湯殿山は真言宗での奉仕を行っていました。
    この湯殿山系統の行者には名乗りに特徴があり、
    宗祖空海(湯殿山系統では湯殿山は空海の開山と申し上げる)から
    一字頂戴し、「〇〇海」と名乗ります。
    湯殿山系の即身仏になられた行人様には
    真如海上人、鉄門海上人といずれも「海」が付きます。
    とすると、徳音海上人に世話になった人が供養に建てたのではないかと。
    予想する次第です。胎蔵界大日如来の種子が書いてあれば完璧なんですが。

    羽黒山神社別当が寂光寺は形にはまっていますので
    素直に行けばこれで。

    1. admin より:

      田中さん
      なるほどおもしろい推理ですね。梵字についてはまったくわからないですけど「徳音海」という文字の上に何か梵字が刻まれているようですね。
      胎蔵界大日如来の種子かは私には判別着きませんが…。

      詳しい説明ありがとうございました。

  3. バッケ より:

    石垣のところで行き止まりに見える石段、以前はお寺があったのだろうかと、石段脇にあった石碑に刻まれた文字を頼りに探し始めたもののわからず、結局、廃寺の名前と地名からこちらのブログを見つけました。
    石碑に刻まれた「徳音海」(ネットで検索してわからず)からお寺があったと推測してたのですが、もしかしたら石碑は旧街道に沿ってるからあるのかもしれませんね。
    愛宕神社はあの地にずっと鎮座されてたと思ってました。
    違う視点からの話を読めて面白かったです。
    上れなくて、石段を上った先がどうなってるかわかったのがなによりでした。

    ところで、近場に謎がもう一つあるのです。
    鳥居前にある羽黒神社の案内図にある「帝釈天」。
    とだけ、申しておきます。
    ゆくゆくは境内でどなたかに尋ねようと思ってます。

    1. admin より:

      バッケさん、こんにちは。
      なるほど、北山霊園の下の道にある石段を調べていたらこのブログに辿り着いたのですね。
      羽黒神社にある現在の愛宕神社がその昔、北山霊園あたりにあったという話は横田やさんのご主人にお聞きしました。
      残念ながら石碑の「徳音海」については存じ上げませんでした。

      「帝釈天」に関しましては、現在はありませんが、羽黒神社境内の愛宕神社のとなりに最近までありました。
      しかし神社の建物の後ろに道路を通すためになぜか帝釈天だけが撤去されたそうです。震災の年あたりのことです。

      1. バッケ より:

        ご返信ありがとうございます。
        他の日付で帝釈天についてのお話をされているのを書き込みした後に気づきましてf(^^;)失礼しました。

        帝釈天を奉ってるところを調べたときに仙台では羽黒神社だけでてきたのと、他の方のブログでは帝釈天とその後ろにあったお寺がなくなっているとあったので、移転に期待もしてましたが、そうでしたか。

        境内では春にご神木を仰ぎ見る楽しみがあるのですが、御神木の下が古墳(昔からの自然の地形だと)だったとは思いもよらず。
        住んでる北山の氏神様をようやく知る事もできました。
        他にも興味あるお話があってためになりました。
        ブログ、これからも拝読させていただきますね。 

        1. admin より:

          ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。

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羽黒神社のお祭

2015/6/10

北山羽黒神社は,仙台藩初代藩主伊達政宗が慶長7年(1602)に福島県信夫郡より分祀してきたものと伝える。仙台市登録文化財となっている北山羽黒神社境内社は,かつて当社の拝殿であったが,昭和45年(1970)の新築の際に移築され,境内社として残されたものである。入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺で,桁行(けたゆき)三間,梁間(はりま)二間,三方に縁を廻らし,一間の向拝(こうはい)が付く。江戸時代後期の建立と思われる。(仙台市ホームページより)

IMG_0447
6月6日は北山羽黒神社のお祭りでした。
ここのお祭りはここ最近の仙台市内の神社のお祭りでも珍しく賑わいをみせ、氏子の演芸が盛んです。
まちなかの神社のお祭りとしては賑わっている方なのではないでしょうか。
同日程で行われていた春日神社のお祭りはもっと屋台も人も多いですが、羽黒神社もなかなか面白いなと思いました。
こちらがかつての羽黒神社の社殿です。
現在は立派で頑丈な社殿が建っています。
他にも境内には愛宕神社があり、さらに少し前まではその横に帝釈天がありましたが後ろの道路を通すために撤去したそうです。なんとも悲しい。(写真は当時のもの、木の下に「帝釈天」板看板が見える)
羽黒神社の階段から見る景色。
翌 日曜日にはお神輿があり町内を練り歩いてました。

 


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見事なミニチュアの世界が完成しました。三丁目の夕日的な懐かしい風景

2015/3/3

へくり沢ジオラマ

前回、柏木市民センターにて行われた事業で八幡町を昔流れていたへくり沢(深い沢があったが現在は埋め立てられて暗渠となっている)を中心とした昭和33年の八幡町の地形模型を作製し、当時の土地の高低を再現しました。



それが昨年平成26年の春に完成し、その後の後継事業として八幡小学校を中心とした界隈のジオラマの作製を開始しました。
製作に携わったのは引き続き柏木市民センターの館長さん、マップテクノさんと地形模型作製に参加した有志の方々、そして古くから八幡町の春日神社近くに住む今野氏です 。

前回の地形模型は昭和33年の白地図を等高線に沿って切り貼りして立体化したものに対し、今回のジオラマは八幡町の春日神社あたりから小学校の脇の深い沢を流れるへくり沢と、昭和15年当時の風景を再現しました。

例えば建物、当時の屋根の高さは現在ほど高くない。ここは田んぼだった、畑だった、果樹園だった。この家は四谷用水の水を使って染物屋をやって庭で干していた。木に関してもここは梅の木だった、サルスベリだった、木蓮だった、金木犀、しだれ桜だった…と細かく当時の状態にできるだけ忠実に再現しました。


昭和15年当時の風景といいますのも、現在の春日神社の境内にある昭和15年ごろの周辺の絵とそれを描いた今野さんの当時の記憶をもとに作製したからです。



我々は電気コードの配線を剥いて中の銅線をねじって広げ木を作ったり、食器洗いの色のついたスポンジをハサミで細かく切って木の葉の部分や桜の花の部分を作りました。また、亀の子タワシを切り少量ずつ束にしてグリーンに色付けして田んぼの稲を表わしたり、ほとんどジオラマ用の既製品を使わず本当に手作りで作りました。
建物はプラ板を切って接着剤で固定して、その色付けに関しては全て今野さんにしてもらいました。




製作期間は完成まで約10ヶ月、月1〜3回のペースで集まりました。
と言っても私は参加できない時も多く、ほとんどの作業は他の皆さんの頑張りのおかげです。私は電気の配線の中の銅線の先を広げて木を作くるぐらいしかお手伝いできませんでした。




2月14日の事業発表会(お披露目会)では20人くらいの方々にお集まりいただき、今野さん達のお話を交えながら興味深げに皆さん見ていました。



中には外国人の姿もありました。


 


コメント (3件)

  1. きたろう より:

    返コメントありがとうございます。
    引用先のURL等下記の通りです。
    (引用元の貴ブログのURLは明示しています。)
    宜しくお願い致します。
          記
    ブログ名:SO-NETブログ→きたろう散歩
    ブログタイトル名:ブラタモリ・トレース/仙台・四谷用水(その1) 
    ブログURL:http://hiroshige-kitarou.blog.so-net.ne.jp/2015-11-14

  2. きたろう より:

    はじめまして きたろうと申します。
    先月、四谷用水を辿る散歩会を行い、関連でへくり沢も歩きました。
    この散歩会のレポ・ブログに貴ブログのへくり沢周辺の、立体地図模型の写真を転載させて頂きました。
    事後ですが、ご了承の程、お願い致しますm(__)m

    1. admin より:

      きたろう様
      引用先を掲載してもらえば大丈夫です。
      画像を掲載したブログのURLも教えてください。
      よろしくお願いします。

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仙台のキャバレー  遠く昔の記憶を辿れば…

2015/2/15

先日お寺の新年会があり他の檀家さんとお話しする機会がありました。
私は初めての出席で皆私より大先輩ばかりでしたが、皆さん優しい方でお話にも参加できました。

いろいろな話をしてる中で、昔 貴重な焼物の人形を収集している方がいたという話になり、その収集家の女性が錦町にあったクラウンというキャバレーでNo1の売れっ子でねぇという話を発端に当時のキャバレーの話で(お酒も入っていたので)盛り上がりました。

錦町にあったのは何て店だったか?確かクラウンだな。
二日町にもあったよな。えぇと…なんだっけ、そうそうソシュウって名だった。

私の生まれるずつと前の話だったのでもちろんぜんぜんわからない。ただ聞きながら現在のどこにあったんだろうというのが気になり始めました。
二日町?ソシュウは二日町のどこにあったんですかと聞くと今のパチンコ屋のところだよと。

あそこは私の小学校の頃の記憶だと(キャバレー)ニュージャパンがあったのを覚えています。よく家の窓から見える煌々と光る大きな赤と白のニュージャパンのネオン看板が印象的でした。
蘇州(ソシュウ)があったのはニュージャパンが出来る前のことだったのか…。

他にもニューフロリダとういうキャバレーがあったそうです。

これら以外にへぇー面白いと思ったのがタイガーというキャバレー。
タイガーは現在のメディアテークの場所にあったそうで、現在のメディアテークの前は仙台市のバスの車庫で、さらに前はパチンコ屋。


そのパチンコ屋の名前はタイガー春日町店。
キャバレーをやめてパチンコ屋になったそうです。
その場所にもうパチンコタイガーはありませんが、パチンコタイガーは今でも仙台市内にあります。

国分町にもパチンコタイガーがありますが、ここも昔はキャバレーがあったとかないとか。


 


コメント (2件)

  1. アルサロ天国 より:

    駅前には、アルサロ「天国」があり、パチンコ屋の裏に怪しい「未亡人クラブ」
    がありました。

    クラウンとタイガーが覇権を競っていましたが、
    ニュージャパンの出現で、女性の移動が凄かったです。
    ニュージャパンの女性は、その当時出たばかりの
    ポケベルを持たされていました。吃驚です。
    ホールは野球場の階段状になっており、凄かったです。

    当時は、どこも生バンドがあり、そのバンドをバックに
    歌うのは、とても気持ちの良いものでした。

    空襲で焼けた仙台市長車のエンブレム
    http://blog.goo.ne.jp/mbne230/e/c61d718af840bfbfc8e0cf0794dc9d40
    文化横丁
    http://blog.goo.ne.jp/mbne230/e/6805309eb0157be3e2c4627079b173e1

    1. admin より:

      こんにちは。
      学生時代に仙台で過ごされたんですね。
      この時代をお過ごしになった方のお話はとても参考になります。

      ありがとうございます。

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日本初の近代港は宮城県だった  ~野蒜築港~

2014/12/1

昔、野蒜海岸に港を作る計画がありました。いわゆる野蒜築港です。
(野蒜は日本三景の一つ松島の北側に位置する)

明治初期石巻港が北上川上流からの土砂の堆積により河口港としての機能が低下したため、新しい港の建設が必要となりました。
明治政府による日本初の近代港として着工された東北一大事業が野蒜築港です。
下の写真の新市街地とは野蒜築港事業によって新たにできた、鳴瀬川と新鳴瀬川分流に挟まれた市街地のことです。


事業は明治11年から始まり、明治15年に完成したが、明治17年9月の台風により被災し機能を失い、また修復には多額の費用がかかるため事業は断念されました。

現在でもその遺構は残っています。
当時の新市街地跡から新鳴瀬川に架けられた橋の赤レンガ造りの橋台跡、
(東日本大震災の)津波で上の部分はさらに侵食されたようです。


 



新市街地跡にある記念碑と当時使われたローラー。
ローラーの側面には「土木」の文字が見られる。
記念碑もローラーも一度津波で流されたのを元に戻したようです。


 


野蒜築港に伴い東北初の気象観測所となる測候所設置され、その跡地。



津波で削られたレンガが砂や他の瓦礫とともに散乱している。


津波の後以前の風景とは異なり遺構を探すのに少し苦労しました。





瑞鳳殿の参道の入り口すぐ左手に「鹿児島県人七士の墓」というものがあります。
宮城県監獄署に収監された薩摩藩の西南戦争政治犯たちも人夫として野蒜築港に尽力したそうです。


 


この薩摩の政治犯を率い野蒜築港の煉瓦(レンガ)製造技術を伝え、仙台に煉瓦建築をもたらしたのが煉瓦技師の植木留吉という人物です。

東京から来た留吉は仙台で独立し、仙台初の煉瓦工場を建て、仙台初の煉瓦建築は警察署だったそうです。その他にも裁判所、大学の煉瓦建築に携わったそうです。

この煉瓦会社は当時土樋のあたりにあったそうですが、広瀬川の洪水で会社が流されたのちに北山手前の木町に移転しました。

これが植木瓦店だったのです。→/blog/1950
こんなにも身近なところと野蒜築港が関係していたことを知ってとても驚きました。


 


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神子町に瓦屋の名残はあるのだろうか

2014/11/22

最近までに新坂通に陶八という陶器屋さんがありまして、茶碗などの陶器をお店で販売していました。

陶八は始め神子町で瓦を作っていましたが、のちに焼き物のコンロ、つまり練炭コンロや七輪を窯で焼いて売っていました。
時代が変わり、その後土物卸売(陶器などの卸売)に転業しました。
その後現在の場所に移転。

陶八は松岡家の藤四郎がが庄子家のトワに婿入りしたのが始まりで、松岡家も庄子家も四代藩主伊達綱村公に仕えた瓦師の家でした。
陶八は最初庄子陶器だったが藤四郎の子藤八郎にちなみ陶八と屋号を変えたそうです。
その陶八はその後新坂通に移り、数年前まで陶器屋として店を続けていましたが、その後店を閉め、
現在は建物の上の看板だけが当時の面影を残す。



ではもうこの近辺には瓦屋(もともと神子町で瓦職人をしていた)はないのでしょうか?
探してみると北山トンネルの出口手前に一軒ありました、植木瓦店という瓦屋さんです。
ここも昔神子町から移転してきたのでしょうか?
聞くところによるともともと東京から来た人なんだそうです。
(アパートと蕎麦屋の奥、看板はアパートのベランダに「植木瓦店」とある)


今では瓦を作るところは東北ではほとんどなく、大部分を愛知などのメーカーで作られたものを取り寄せて使用しているそうです。植木瓦店は現在、瓦に限らず屋根全般の施工を請け負っているとのこと。

残念ながら神子町の瓦屋はもうないようです。


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神子町 は瓦の町でした

2014/11/20

神子町(みこまち)は北九番丁にある神子神社のある辺りで、寛文12年(1672)から元禄3年(1690)の間に町割りがされた。つまり開封後しばらくしてから城下町に加わった地域です。
北八番丁から北九番丁(神子町)へ向かう道、通町小学校西側の神子町通が広いのは昔四ッ谷用水が流れていた名残でしょうか。



神子町とういう町名は朝日神子(あさひみこ)が住んでいたことに由来するそうです。
この神子(巫女)は二本杉通りにある朝日神社の神子で町割りをされる以前(寛文年間)の時期に、付近の田野の開墾利水を考えて桜田川と梅田川を開き耕作に便を与えたそうです。村人は朝日神子を崇敬し、のちに伊達氏により祠がこの地に建立されたらしい。
(桜田川がどこかは不明)

(朝日神社について→/blog/619)


この辺は瓦造りに適した土が採れたこともあり、神子町は藩営の瓦場が設けられたくさんの瓦職人たちが住んでいたそうです。
現在でも残っている瓦屋さんはあるんでしょうか。


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