仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

カテゴリ:歴史

神子町に瓦屋の名残はあるのだろうか

2014/11/22

最近までに新坂通に陶八という陶器屋さんがありまして、茶碗などの陶器をお店で販売していました。

陶八は始め神子町で瓦を作っていましたが、のちに焼き物のコンロ、つまり練炭コンロや七輪を窯で焼いて売っていました。
時代が変わり、その後土物卸売(陶器などの卸売)に転業しました。
その後現在の場所に移転。

陶八は松岡家の藤四郎がが庄子家のトワに婿入りしたのが始まりで、松岡家も庄子家も四代藩主伊達綱村公に仕えた瓦師の家でした。
陶八は最初庄子陶器だったが藤四郎の子藤八郎にちなみ陶八と屋号を変えたそうです。
その陶八はその後新坂通に移り、数年前まで陶器屋として店を続けていましたが、その後店を閉め、
現在は建物の上の看板だけが当時の面影を残す。



ではもうこの近辺には瓦屋(もともと神子町で瓦職人をしていた)はないのでしょうか?
探してみると北山トンネルの出口手前に一軒ありました、植木瓦店という瓦屋さんです。
ここも昔神子町から移転してきたのでしょうか?
聞くところによるともともと東京から来た人なんだそうです。
(アパートと蕎麦屋の奥、看板はアパートのベランダに「植木瓦店」とある)


今では瓦を作るところは東北ではほとんどなく、大部分を愛知などのメーカーで作られたものを取り寄せて使用しているそうです。植木瓦店は現在、瓦に限らず屋根全般の施工を請け負っているとのこと。

残念ながら神子町の瓦屋はもうないようです。


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神子町 は瓦の町でした

2014/11/20

神子町(みこまち)は北九番丁にある神子神社のある辺りで、寛文12年(1672)から元禄3年(1690)の間に町割りがされた。つまり開封後しばらくしてから城下町に加わった地域です。
北八番丁から北九番丁(神子町)へ向かう道、通町小学校西側の神子町通が広いのは昔四ッ谷用水が流れていた名残でしょうか。



神子町とういう町名は朝日神子(あさひみこ)が住んでいたことに由来するそうです。
この神子(巫女)は二本杉通りにある朝日神社の神子で町割りをされる以前(寛文年間)の時期に、付近の田野の開墾利水を考えて桜田川と梅田川を開き耕作に便を与えたそうです。村人は朝日神子を崇敬し、のちに伊達氏により祠がこの地に建立されたらしい。
(桜田川がどこかは不明)

(朝日神社について→/blog/619)


この辺は瓦造りに適した土が採れたこともあり、神子町は藩営の瓦場が設けられたくさんの瓦職人たちが住んでいたそうです。
現在でも残っている瓦屋さんはあるんでしょうか。

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松島 円通院

2014/10/26

10月の終わりの日曜日、松島の紅葉はどうだろうと出掛けました。

瑞巌寺の隣に位置する円通院はまだ訪れたことがなかったので、紅葉の時期はさぞかし綺麗だろうと期待して訪れました。

松島町指定文化財・円通院本堂は映画「蜩の記」のロケに使われ、もともと仙台二代目藩主忠宗公の子で光宗の江戸での納涼の亭でした。光宗は19才という若さで亡くなり、それを悲しんだ忠宗公が正保4年(1647)、解体し江戸から移築したもので、「大悲亭」と名付けられました。

 




紅葉はまだまだでしたが、緑の苔や竹林がとても素晴らしかった。
この庭は小堀遠州作といわれています。

 

 


途中薔薇園がありましたが、寺院に薔薇園?となんとなく不思議に思いました。
(薔薇園の写真を撮り忘れてしまいました)


庭園の奥には三慧殿(さんけいでん)という御堂がありその中には光宗の御霊屋があります。
この御霊屋は国定指定重要文化財になっていて、大悲亭移築の一年前に建立されましたのですが、これに使われている装飾はとても変わっていて、洋薔薇や、水仙、トランプの4種のマークなどが描かれていました。

 


これはローマを象徴する薔薇、フィレンツェを象徴する水仙など支倉常長の慶長遣欧使節が持ち帰った欧州の文化が描かれていたのです。
しかし、当時鎖国制度が施行されていたため扉を開けることがなかったそうです。
そうしたこともあり、中の装飾の色彩が現在も当時のまま鮮やかに残っているそうです。

また忠宗公も常長の功績、父政宗公の思いたを酌んでいたのかもしれませんね。


これで薔薇園も納得しました。


紅葉のライトアップは11月に行われてるそうです。


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日本初の公共図書館「青柳文庫」は仙台にあります

2014/9/2

先日たまたま一関博物館に行った時に
新一関図書館オープン記念でテーマ展が開かれていて
ちょうど学芸員が説明をしてまわっているところに参加することができました。

テーマ展の内容は「版木と和本の世界」というもので
かの大槻家の旧蔵していた版木を中心に展示されていました。
建部清庵の「民間備荒録」や大槻磐渓の「合衆国小誌」や蘭学の本、
そして田村建顕に関するものまで様々でした。

当時の製本する際の木版が展示され、中でも蘭学や詳しい地形を記したものは見てて気が遠くなるほど細かく彫られていました。もちろん1頁で色別に数種類作られます。これは元の絵を描く人より彫る人の方がすごいのではと思うほど見事なものでした。

学芸員の説明を聞いていると何か聞き覚えのある名称を耳にしました。
それは「青柳文庫」日本で最初の公共図書館です。

どこにあるのかと申しますと現在大きなビルが建っている仙台の一番町4丁目にある東二番丁スクエアの場所です(元仙台中央警察署)。


ここには看板と本の形をした碑があります。


一関に来て仙台のしかも近所の話を聞くとは思っていませんでしたので驚きました。
実は青柳文庫を作った青柳文蔵という人物は松川村(現一関東山町松川)出身だったのです。松川村は一関藩と仙台藩の境目で彼は仙台藩の人間で医業を営む家に生まれました。医師の勉強のため江戸へ行きましたが生活費などを稼ぐために仕事が忙しく、また本を買うお金もなく志半ばで医業の道を諦めざるを得ませんでした。しかしその後公事師(弁護士)になり、かたわら金融業で財をなすこととなりました。
お金がなく学問を諦めなければならなかった過去を悔やみ、これまで買い求めて来た書物を千部余り献上して文庫を創設しました。

当時の青柳文庫の建物(東二番丁スクエア建設の際展示されていたもの)
入り口のひさしは東山図書館の入り口に再現されています。
http://www.library.city.ichinoseki.iwate.jp/guide/higashiyama/index.html



過去に閲覧できる書庫はありましたが、みな城内や学内など限られた人しか借りることはできませんでした。
青柳文庫は仙台藩の医学校構内に創設されたものの身分に分け隔てなく学問を志すもは誰でも借りることができ、これが公共図書館の始まりとされています。(明治維新まで存続)

私は場所こそは知っていましたがどこの誰がどういういきさつで建てたのかまでは知りませんでした。公共のものだから公共の機関が建てたのだろうぐらいにしか考えていませんでした。
天保二年に創設され文蔵は天保十年に亡くなったので晩年のことでこれまでの悔しい想いが果たされたことでしょう。


しかし本来であれば文蔵の願いは郷里松川村に青柳文庫を創設したかったと。
文政十二年9月27日に仙台藩に提出された伺書にその旨が書かれていたことが大槻文彦によって記録されています。しかしながら藩に却下され仙台城下に変更になった。
文蔵は文庫の創設と同じ年に松川村に、凶作に備えた籾倉(もみぐら)である「青柳倉」を設けています。これは東山の百姓のうち困窮している者に低利で貸し付け、秋に収穫した物で返済し倉庫に蓄えることで、図書館の費用にあてたそうです。また万が一飢饉の際は百姓を救うためにそれらを使用することとしている。文蔵の郷里への想いがわかります。
ここでおもしろいのは「(飢饉の際は…)但し、一関藩領は除く」とあるところで、松川村は一関藩領と仙台藩領が混在しているところからそのようになっているそうです。

上記の願いを書にしたためた伺書は先に述べたとおりですが、この時一関博物館に展示されていた物は同じ内容で伺書より以前に書かれたと思われる内容のもので一関藩の留守居役を勤めていた須藤家に伝わる屏風の下貼から発見されものでした。
「乍恐以書付奉願候(おそそれながら かきつけをもって ねがいたてまつりそうろう)」
東日本大震災で建物を解体するにあたり一関博物館に屏風が寄贈され、痛みが激しかったため解体したところ中から出てきて見つかったそうです。
しかしながらいつ書かれたものか、文蔵の直筆なのか、なぜ一関藩の留守居役が持っていたのかはこれから調べて行くそうです。

いずれにせよ、たまたま行った博物館で震災で偶然見つかった資料をたまたま説明を受け、それが偶然近所の話で、仙台と一関がつながって…そんな一日でした。


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仙台の街中(まちなか)に村と村の境があるの? (荒巻村)

2014/7/22

二日町の裏の方にある公園内に小さな祠がある。
その名も村境榎稲荷明神。
村境って街中のこんなところが村境だったの?
どことどこの村境なの?

 



祠の傍にある石碑をみると
もともと荒巻村と小田原村の境にあった明神だったとか。
それが現在の仙台市役所の北東に祀られそこには大きな榎(えのき)があったそうです。そして当時 そこは荒巻村と仙台との境になっていたそうです。

仙台地名考によると
荒巻は荒牧とも呼ばれ北東は東照宮の小田原から東六番丁沿いに南は現在の荒町、芭蕉の辻を中心に米ヶ袋・川内、国見、現在の荒巻本沢〜杉山(台原)ということですからかなりの範囲だったのでしょう。
現在でも荒巻の地名が残っているところがあります。
北山の奥の荒巻本沢 荒巻中央 荒巻神明町の他
国見の 荒巻西雷神 荒巻仁田谷地 荒巻坊主門、
そして青葉山一帯の荒巻青葉。

仙臺開府の際荒巻村の一部を取り入れ、現在の仙台市役所の北東が村境になったという。

最初の荒巻の範囲を上記の説明に沿ってだいたいの範囲を描いてみると以下のようになるのか?(大雑把なので間違いもあるだろう)


荒牧は粗蒔(あらまき)で自然に生い茂った草原、なので荒巻は完全な当て字と言えます。字からも想像できるように荒牧は広大で良質の牧草地帯だった。
ここで陸奥の良馬が育ったのだろう。


話は戻り、榎の木は一里塚としても利用された木で、大きく葉もモコモコとしていて遠くからも確認できるからだろう。現在の仙台市役所の北東にあった榎も大きく御神木とされたのだろう。
村境には田畑や水利の権利をめぐり争いが起こるので道祖神などを建てて厄除けをするのが風習だったようで、この村境榎稲荷明神もそのような経緯で建てられたのだろう。
今もなおひっそりと佇み、商売繁盛の神様として町内会有志で毎年7月の最終日曜日に祭礼が行われている。

また、通町にある熊野神社は宮城郡荒巻村総鎮守。


以前の場所は不明ですが寛文7年にここに移されたそうです。
鎌倉時代からあるとうことなので
仙台でもそうとう古い神社だと言えます。
現在の社殿は享保7年(1722年)に建てられたらしい。
通町熊野神社神楽は仙台市の無形民俗文化財に指定されている。


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仙台の赤線の歴史

2014/6/19

東照宮より東六番丁を南下して45号線までの途中、中ほどに比較的広い道が丁字路でつながっている。そこを左手に曲がると西友小田原店がある。
その曲がった先には他にドラッグストアや小さな飲食店や商店がいくつも立ち並びちょっとした商店街をなしている。



しかし、この周辺では細い横道ばかりで他に商店街らしきものはなく、突如として現れたように感じる。
なぜここだけ急にお店が多いのか。メインストリートの東六番丁通りにあるなら納得がいくのですが…。

さらに西友小田原店の先を曲がったところの道幅がそこだけ妙に広くなっていて、200mほど行くと突き当たり右に折れる細い道となる。
以前からこの場所が不思議でなりませんでした。
↓西友の脇の通り




調べてみると昔この辺りは実は遊郭があったということです。なんとも中心部から離れた場所になぜ?
仙台の遊郭の歴史について大まかに見ていきましょう。
宿場町として栄えた国分町に明治2年仙台城にやってきた官軍の要請で遊郭ができました。
仙台城二の丸の官軍が仙台鎮台なってからはより近くの常盤丁へと遊郭が移転した(明治11年)。この常盤丁は現在の仙台市民会館がある辺り。

しかし常盤丁の南側に隣接したところに陸軍の将校クラブである偕行社が設置されると場所柄ふさわしくないということで、明治27年に現在の小田原六丁目あたり(常盤丁)へ移されました。
この地域はもともと江戸時代から蜂屋敷と呼ばれ二代藩主忠宗公より養蜂を始めた場所だったため、その名がついたということです。養蜂場は嵐で崩壊してしまいましたが、地名のみが残りました。


近くに昔から住む方に聞いたところ、東六番丁から小田原六丁目へ入る入口に大きな門があったそうです。通称 大門(おおもん)と呼ばれ、夜定時になると門を閉じ、人の出入りをできなくするためだったそうです。常盤丁の周囲も道が細くなったり曲がりくねってたりして袋小路に近い形状でした。

大門をくぐった通りの北側に遊郭がありました。
遊郭があった地域は新たに常盤丁と呼ばれて、市民会館の辺りは元常盤丁と呼ばれるようになりました。遊郭街のメインストリートは現在の西友の先を曲がった通りで道幅が広くなっています。
↓東六番丁から小田原六丁目に入る入り口



現在は遊郭の面影はほとんど残っていません。
強いていうのなら、「コーポラスあさかや」という集合住宅が突き当たりにあるが、これはもともと「安積屋」という遊郭だった。ここら辺でも大きな建物で木造5階建だったとか。



遊郭の南西の外れには十二軒長屋(じゅうにけんながや)と呼ばれる長屋があり通称 やり手ババアの住居があった。

 

やり手ババアとは当時 客引きをする年配の女性のことをそう呼び、彼女らの仕事は建物の格子窓から手を出しての客引きでした。なぜ表に出なかったのかというと、公道での客引きは禁止されていたためで、建物を敷地から少し下げたところに建て、そのスペースに客を立たせて建物の中から交渉していたのです。


↑上の写真の千登勢屋は旅館ですが、当時の建物のつくりの名残なのか、少し建物が敷地より下がっていて格子窓もある。

また遊郭は遊ぶ建物と宿泊施設と別棟になっていました。例えば通りを挟んで別棟が宿泊施設。

遊郭には質屋もセットで存在していた。遊郭で遊ぶためのお金を作るために質屋に行ってお金を借りた。そのため質に入れたものをしまう蔵もあり、それに使われていた蔵は今でも残っている。



メインストリート突き当たり西側に神社があった。現在はないがおそらくこの辺りのあんぜんと商売繁盛を祈願したものではないか。 また男客で気に入った女性がいて連れていきたい場合はこの神社で 遊郭と縁を切る儀式を執り行ったそうです。参道には桜並木が並んでいたそうです。現在の駐車場。



また遊郭に遊びに行くことを隠語のようなものですが「草餅屋に行く」と言ったそうです。

遊郭は華やかな場所でもあり、影がある場所でもあります。
売れっ子の遊女がいる一方落ちぶれた遊女は東八番丁や塩釜へと場所を移し仕事を求めたそうです。
またいわゆるヤクザもいくつか同時に存在して 守料(もりりょう)や ショバ代をもらうことによって、
いざこざが起こらぬよう秩序を維持していたそうです。
遊郭では職業柄特別な病気にかかることも多くいわば専属の病院がありました。場所はメインストリートの突き当りにありました。



昭和33年売春防止法によって赤線が廃止され、その後はその建物を活かして旅館や下宿屋に転用され、地名も旅籠町となった。
現在西友がある場所もあけぼの荘(遊郭:五城郭)だったところです。
先に述べたコーポラスあさかもしかりです。
唯一旅籠町の名残を今も残しているのはユースホステル千登勢屋だけです。
当時は相撲の巡業や野球選手などいろいろな有名人が泊まったそうです。
今の風景からはまったく想像もつきませんね。
余談ではありますが常盤町は仙台で初めて電話ボックスが設置された場所の一つでまさもあります。それだけ人の往来が多かったことを物語っています。
また仙台市内では毎年市内中心部以外にも七夕飾りが各地で飾られますが小田原で飾られるのもそんな繁華街であった歴史があるんですね。

旅籠町の名は今も公園の名称として残っているが常盤丁の名はどこにも残っていない。


しかし電柱を見上げるとかろうじてその名が確認できるのだ。


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へくり沢事業報告

2014/5/9

5回の作製作業を経て、ついに完成したへくり沢の模型。
3月29日に内々でお披露目会が行われました。
マップテクノの安斎さんと
作製に携わった有志のみなさんが集まり、完成した地図を近くから、もしくは全体的に、はたまた広瀬川から山側からといろいろな角度で眺めてはここはどうだと議論をしたり説明をしたり話が大変盛り上がりました。

 

 


現段階では完成したもののまだ仕上げが残っている状態でこのあとこの上からニスを塗ったり、橋を(立体的に)かけたりされます。ここから先はマップテクノさんにお任せですが。




そして4月26日には柏木市民センターにて事業報告会が行なわれました。
まずは岡崎修子館長さんがご挨拶と昨年の9月より開始されたへくり沢事業の報告がなされました。
第一回目の仙台市博物館市史編纂室長の菅野正道氏の講座から~東北文化学園大学準教授八十川淳氏~東京スリバチ学会会長の皆川典久氏の現地調査までを説明。

マップテクノさんや有志のみなさんの他にも興味がある方が参加し、またみちのく博物学団の方2名がオブザーバーとして参加。

そして東北大学の地学ゼミナールの学生さん二人が彼らの観点からスライド(自分たちでへくり沢をあるいて撮った写真)を交えてへくり沢について説明や見解を述べてくれました。

 




河川争奪など学生ならではの見解なども聞けてとても興味深かったです。
・八幡小学校の裏辺りは昔深い沢だったが現在ではまったく形跡がわからない(実はこれは戦後の瓦礫処理で埋め立てられたため高低差が無くなった)
・へくり沢なんて知らなければ存在自体気づくことはむずかしいだろう。
・春日神社辺りでは沢は浅く下流に行くほど深くなるのは上町段丘の地層が硬いものだったからではないか。
・実際の歴史を知ることもおもしろいが、自分なりに仮説を立てて想像するのもおもしろいと思う。だから合っているか間違っているかの前にそれがたのしいのだと。

特に最後の考え方が共感を覚えました。まさにその通りだと思います。楽しさはそこにあると思います。
へくり沢の河口


橋が架けられました。


今年度の事業は本当のへくり沢のジオラマを造ります。
今野喜一さんの描いた「昭和15年頃の春日神社周辺の様子」(春日神社境内に設置)をもとに本物のジオラマを作製いていきます。興味のある方は柏木市民センターへお問合せください。


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地域の地図模型(宮城野区)

2014/5/6

「あなたのオモイ
それぞれのカタチ」という震災復興交流事業が3月1日から9日間、宮城野区文化センターでありましたので行ってきました。
震災復興についてまちづくりについて考えるというものですが、その一環としてその地域の地図模型も展示されていました。

今回の目的は榴ヶ岡と原町周囲の地形模型を見ることでした。
その時柏木市民センターでも似たようなのを製作していたので参考までに見に行きました。
大きさは柏木市民センターで製作しているものの1.5倍くらいで
思ったより起伏に飛んだ地形でした。
榴ヶ岡(丘)というくらいですから当然かもしれませんね。
DSC_0017
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地図は柏木市民センターと同じく昭和33年地形図をもとに製作されていました。
尺度は3000分の1。
等高線の間隔は1m。←ここは柏木市民センターで使用した地図はは2mですね。
DSC_0021

これもマップテクノ仙台さん指導なので同じような感じで作られています。
ただ等高線の間隔が1mなのでサイズが大きいのでしょう。

そこで配られたチラシに地図の楽しみ方が書いてあったので紹介します。

☆場所を見つけてみましょう!
①仙台駅(懐かしい、列車のターンテーブル(転車台)が残っています!)
②丸光デパート(現在の「さくら野百貨店」までの変遷は、全部言えますか?)
③X橋(その遺構としての価値が、現在高まりつつあります!)
④キリンビール工場(テニスクラブなどの名残は、現在も残っていますが…)
⑤三島学園(現在は虹の丘に移転)
⑥仙台赤十字病院(現在は南目館に移転)
⑦宮城県自動車運転者試験場(現在は、七北田に移転)
⑨仙台精密材料研究所(他にも、製紙工場や研究所が集まっていたようです!)
⑩榴ヶ岡遊園地(遊覧電車の軌道が記されていますが、正式名称は?)

その他にも☆地形を感じてみましょう!ということで立体地図模型から感じ取られる今と異なる地形のポイントなども記されていました。

事業イベント開催中は他にも別な事業で作製された立体地図模型が展示されていました。
『江戸時代に描かれた「野初絵図」の山並みを再現!』
DSC_0024

「岩切城跡地形図」
DSC_0027

榴ヶ岡周辺ジオラマの模型は普段でも展示してあるということらしいので時間のある方は見てみると面白いでしょう。
※展示されているかは事前に宮城野区文化センターに確認してから行ってください。


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「ふしぎ!発掘!発見! 不思議な地形をジオラマにしよう」 その2

2014/4/3

「ふしぎ!発掘!発見!
不思議な地形をジオラマにしよう」と題して行われた作業ですが柏木市民センターの館長さんいわく今作っているのは最終的なジオラマではなく地形模型であると。
これが完成した後、へくり沢周辺のジオラマ(プラモデルの背景にあるような感じのイメージのもの)を造りたいそうです。
まだまだ道のりは長い!
今回の模型は昭和33年の仙台の
地図で1/3000のものです。
ここまで現在のような正確な測量が行われた地図でもっとも古いものだそうです。
1月の末からほぼ毎週土曜日に集まり約2時間ほどずつ作業をして4回の予定が間に合わず計5回集まりました。

2月15日は前の週に続く記録的な豪雪のなかみなさん集まって作業をしました。

ゲジゲジに見える部分も太線が引かれていますのでカッターで切っていきます。とても細く、のちに使われるパーツなのかどうかわかりませんが、途中で折れてしまわないように切り出します。

なんとか切り出しました。新坂通のあたりの部分ですね。

ブルーシートの上の地図はおそらく一番下の土台から二番目の地図でしょう。切られている部分が少ないので。28mはそのパーツの標高の数字です。

4回目以降の作業は主に切り終えたパーツを重ねて貼り合わせる作業でした。
各自担当し、切り離し終えた地図が広げられている。元は同じ昭和33年の地図(現在の宮城一高あたりを中心とし北は北山あたり西は国見あたりまで)で、標高によって切る場所が異なり一枚で5つの高さを切り分ける。
地図の下に敷いている段ボールに書かれている数字は等高線の数字でそれを目安に各地図から等高線に準じたパーツを探して貼り合わせます。


20m間隔の等高線を一枚から切り出す。それらを2mごとに重ね合わせていく。
指示する人、各パーツを集める人、貼り合わせる人に分かれ作業は進む。パーツを集めるのはまるでトランプの神経衰弱をやっているような気分です。


裏側から見ると下の方に隙間があるのがわかります。これは1枚の地図から複数の等高線のパーツを切り出したのでこのようになっています。

最後の回は時間の関係で完成を見ずに退席したのが残念でしたが、だんだんカタチになっていく様子を見てると楽しみになってきました。


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へくり沢「ふしぎ!発掘!発見! 不思議な地形をジオラマにしよう」 その1

2014/2/28

柏木市民センターで昨年4回に渡り「へくり沢」についての講座が開かれましたが、その集大成として「へくり沢」のジオラマ模型を作ります。

※「へくり沢」とは昔、国見の辺りを水源とし八幡町を縦断する深い沢のことを言い、現在は広瀬川へとそそぐ暗渠となっている。この深い沢のため仙台藩開府当初は町の中心部と八幡方面が寸断され土橋ができるまではかなりの遠回りを強いられていた。







昨年の講座はたくさんの方が出席しましたが、ジオラマ作業は約8人と有志の方々で行われました。





我々の他には柏木市民センターの館長さん等2人、そして今回指導してくださるのが仙台マップの安斎信行先生です。



ジオラマ作製は4回に分けて1月の25日からほぼ毎週土曜日の午後2時間余りずつ行われました。



初日は安斎先生の方から作業について簡単な説明をいただきましたが、何せ私も含めみんな初めての体験なのでなかなかイメージを浮かべるのが難しいようでした。



昭和33年の地図をもとに作るわけですが、その地図を800mm四方厚さ3mmのスチレンボードに貼り合わせ、同じものを60枚くらい用意します。(もとの地図は25枚で、そこから60の標高を取り出す)



それらのボードを一定の間隔の等高線で切っていきます。それぞれのカットしたパーツを重ねていき完成させるのですが、これが大変なようです。



<模型製作仕様書>より

8、操作手順

1、等高線のトレース

高い方から重ねる地図

1図 140m、120m、100m、80m、60m、

2図 138m、118m、98m、78m、58m、

3図 136m、116m、96m、76m、56m、

4図 134m、114m、94m、74m、54m、

5図 132m、112m、92m、72m、52m、

6図 130m、110m、90m、70m、

7図 128m、108m、88m、68m、

8図 126m、106m、86m、66m、

9図 124m、104m、84m、64m、

10図122m、102m、82m、62m、



低い方から重ねる地図

11図 22m、12図 24m、13図 26m、14図 28m、15図 30m、

16図 32m、17図 34m、18図 36m、19図 38m、20図 40m、

21図 42m、22図 44m、23図 46m、24図 48m、25図 50m



意味の分からない数字が並んでいますが、10図から順に上に見ていくと122、124、126…と2mずつ増えているのがおわかりになると思います。そして高い方から重ねる地図では4~5つの標高を切り出していきます。

(今はわかっているから言えますが、最初は説明を聞いてもちんぷんかんぷんでした)



簡単にイメージを説明しますと、例えば富士山のジオラマを作ろうとすれば裾野の方からカットしたパーツを順に重ねていけばできると思うのですが、材料を節約するために1枚のボードから幾つかの等高線のパーツを取り出します。つまり裾野の部分をとるボードで上部分もとることになり、少ない枚数でより多くのパーツを切り出しそれらを重ねると富士山の内部が空洞になるのです。



これは事前に作成した簡易的縮小版。



一通り説明を受けたあと早速作業開始。各ボードには切るためのガイドライン(指定の等高線に沿って少し太めの実線)が引いてありますが、たくさんある等高線の中で密集してるところでは多少見づらい感はあります。



ペン型のカッターを手に切り込みを入れるが垂直に切るのが難しい。また切ったつもりでも下まで貫通していなかったり。





一回目は初めてだったので慣らしということで終了。でも次回からはカットするパーツの大きさは小さくなりますからと言われた。本当に難しいのは今回だけであとは比較的楽なのかと一安心。





しかし二回目は単純ではないのです。

次のパーツは起伏が多いので、つまり山がたくさんありその間に窪地もある、全てがなだらかな傾斜とは限らないのです。

また比較的直線に近いライン・滑らかなラインは比較的カットしやすいのですが、そもそも自然の地形なのでそういうものはほんのわずか。細かくうねうねとしたラインをひたすらカットしてい作業を強いられます。ゴミみたいな小さなものもパーツです。



その日は貼り付け積み上げ作業も同時に行われました。カット作業の合間に積み重ねられたものを見ると少しずつ実感がわきます。



作業にも熱が入り真剣です。完成するのが楽しみになりました。


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