仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

2013年6月1日のアーカイブ

八重の桜

2013/6/27

仙台に二華高(にかこう)という学校があります。
宮城県仙台二華中学校・高等学校 、2010年に男女共学、中高一貫となり宮城第二女子高等学校から名称を変更したのですが、新しい校名の由来はなんなのか、一見しただけではよくわかりません。
二華校の校舎には「「SEEK TRUTH AND DO GOOD」という文字が刻まれています。

二華校は最初明治37年私立東華女学校として設立、現在のひとつ前の宮城第二女子高等学校の「二」と最初の「華」をとって二華校とつけたそうです。
では東華とは…、(現在仙台市立東華中学校という名前の中学校はありますが)
明治19年に富田鐵之助らによって設立されたミッションスクールの草分け的な学校でした。
富田鐵之助がアメリカ留学中に国際感覚を養う教育の重要性を感じ設立したものであり、
当時の宮城県知事松平正直が万葉歌人大伴家持の「皇家の御代栄えむと東なる 陸奥山に黄金花咲く」の和歌から「東華学校」と名付けた。
(※「花」は「華」ではないかと思うのですが、いろいろ調べても「花」でしたね)
(※後世では花は命の短さの隠喩もあることから、永続的な繁栄を願って県知事が意図して「華」に置き換えたのではないかとも考えられる。←twitterのフォロワーさんに教えていただきました)
場所は清水小路のJT仙台跡地のところでした。
東華学校の校長には同志社の創立者の新島襄が就任。実は新島と富田は同時期にアメリカ留学をしておりその縁もあり同志社設立の際は富田が支援し、また仙台に男子中等普通教育のための英学校を創設したい相談され東華学校の設立に至ったというわけです。(おおまかな流れですが)
東華学校からは一力健治郎など著名な方々を輩出いたしましたが、帝国憲法のもと国粋主義、欧化主義への反動と明治23年の新島襄の死もあり残念ながら設立5年後には閉校となりました。
その後東華学校の生徒や学校設備は宮城県尋常中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)に編入され、名称は私立東華女学校(現在の宮城県仙台二華中学校・高等学校)へと受け継がれていきました。
東華学校の直接的な流れは宮城仙台第一高等学校ですが、名称と先に述べた「SEEK TRUTH AND DO GOOD(真理を求め善をなせ)」という新島の教育理念は宮城県仙台二華中学校・高等学校へも受け継がれているといえるでしょう。
富田鐵之助が新島襄と同時期にアメリカ留学していたということが縁で、新島襄が当時政治経済の面であまり中心的ではなかった東北の仙台に目を付けた、おそらく現在までの仙台の発展に少なからずこの学校が寄与していたのは間違いないと思います。
そして今や大河ドラマでも知っている方も多いと思いますが、その新島襄の婦人こそが八重なのです。新島襄の日誌によると東華学校の開校式には新島八重も仙台に来て同席したそうです。そんなところでタイトルの「八重の桜」と無理矢理こじつけてみました。
現在仙台JTビル前には東華学校遺址(いし)碑がありますが、元々は現在の場所より300m北西にあったそうです。

「富田鐡之助」と「新島襄先生」の文字が刻まれています。

ちなみに現在の東華中学校は直接的にはまったく関係ないのですがその学区に一高とニ華高があり、その名声と伝統とを鑑にしたいとの願いを込めて「東華中学校」と名付けられそうです。


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荒町の魅力

2013/6/21

先日、仙台市歴史民俗資料館主催の『小さな旅 見学「荒町界隈を旅しよう」』に参加してきました。
開始時は雨が降っており移動も傘をさしての移動。

まず最初は「森民酒造」さんへお邪魔しました。(お休みの日にもかかわらずご主人が案内してくれました)


森民酒造さんは勝山さん、天賞さんが郊外へ移転した現在唯一城下町に残る造り酒屋なのだそうです。
それにしてもこんな街中に今もあるということが不思議でしたが、ご主人のお話を聞くととても納得のいくものでした。
もともと荒町は御譜代町の一つで、本荒町(現在の一番町二丁目、元仙台 エクセルホテル東急のあたり)にあったものが現在の場所に移ったそうです。
ちなみに御譜代町とは大町など6町あり、伊達家に従い伊達郡、米沢、岩出山と経由して仙台に移ってきました。
ではなぜ本荒町から現在の荒町へ移ったのかというと、荒町には麹を作る役割があり本荒町という土地は水質が麹を作るのに向かなかったため水質の良い現在の場所へ移ったという説があるそうです。確かに荒町には孫兵衛堀(川村孫兵衛重吉は四ッ谷用水の建設にもかかわった人物)が流れており、また地名にも清水小路とあるように水源が豊富だったことがうかがえます。染師町があるのも納得、昔は孫兵衛堀で染物をしている風景が見れたそうです。
もちろん酒造りには川の水を使うのではなく地下深くより汲み上げた井戸水(この水は山からしみ込んだものが40~50年かかって濾過されたものだそうだ)を使っておいしいお酒を造っているのだそうです。伊達政宗はお酒をこよなく愛していた人ですからね、力の入れ方も相当なものだったでしょう。
森民酒造さんの建物自体は創業前からのものでもともと麹屋さんの建物だったそうでかなり古いそうです。
柱や梁には菌がびっしり着いているのでしょうね。

次に向かったのが森民酒造さんの裏手にある昌傳庵と仏眼時

二つのお寺は荒町公園でつながっており、車通りの激しい表通りから少し奥へ入っただけで何とも静かで緑豊かな別の土地に来た気分になります。(奥に見える緑が生茂っているところは森民酒造さんの酒蔵)

荒町はこのあと訪れる奏心院、満福寺…とけっこうお寺あるんですね。表の通からはなかなかわかりませんが、ちょっと奥に入るとたくさんのお寺があり、荒町はお寺の町でもあるんですね。これも新たな発見でした。
荒町のメインストリートはかつての奥州街道で町人の町、昔の地割(間口6間奥行25間 うちもそうですが)の名残が(写真左側)今でもうかがうことができます。さらには(写真右側)時代とともに半分の3間になった土地も多くあるそうです。

次に向かったのが「佐藤麹味噌醤油店」さん。
先に述べたようにここらへん一帯は麹屋さんがもともと多かった、最近まで2件残っていたそうですが、銭形屋さんが店を閉め、現在残っているのが佐藤麹味噌醤油店さん。
佐藤麹味噌醤油店さんは米沢、岩出山と御譜代町とともに移り住んだところで大変歴史のあるところです。
たくさんの麹屋さんがひしめき合っていた中それぞれが競合しなかったのか?という素朴な疑問。
店ごとに担当の地域を決めていたそうで、佐藤麹味噌醤油店さんの場合は六郷と七郷方面だったそうです。

明治35年に酒税法が施行されると一般の家庭ではお酒を造ることができなくなり、それ以降は麹の需要が減り味噌造りの方に力を入れるようになったとか。
また店舗脇にはレールが敷いてありトロッコに載せ重い材料を60mある奥の工場まで押して運んでいるそうです。

次に訪れたのは仙台箪笥の「門間箪笥店」。
中には入りませんでしたが中庭を見学しました。建物も裏の作業場もとても古く年季の入って箪笥ともどもいい仕事しているなという印象を受けました。現在も若い人から年配の人まで一人前の指物職人目指して頑張っているそうです。

そんな創業当時から変わらぬ場所で商売をしてきた門間箪笥店さんですが、道路整備事業で建物が危機に立たされているそうです。
建物は平成14年国の登録文化財に指定されたのにどうするんだろ。
あの高架の先(手前)が建物の脇に来るのですがさらに高架の脇にスペースを取らなければならず、その範囲に建物一部が重なるそうです。仙台市もなんとかしてほしいものです。

門間箪笥さんから移動して泰心院の前まで来ました。
ここの山門はなんと仙台藩の藩校である養賢堂(現県庁あたり)の門が移築されたものなのです。
屋根の上部には三引両と九曜紋が施されています。初めて見ましたがかなり大きく存在感のあるものです。昔の人はこんな立派なものをよく作ったものだなぁと感心するとともに、それが今なお現存していることに感動しました。

なぜここに移築したのかという記録はまったく残っていないそうです。戊辰戦争のころこの門が払い下げになっていたという事実だけが確認されるとのことで、旧藩の物を保存するという行為があまり公になっては困るということで記録を残さなかったのではないかとも推測されるとか…。
さらに次に向かったのは荒町で忘れてはならない毘沙門堂
ここには北目城から移ってきた毘沙門天が祀られています…ということは知っていたのですが、
ここで相撲が行われていたのは知りませんでした。かの有名な仙台が誇る横綱谷風もここで相撲をとっていたそうです。ちなみに谷風は当時近くの七郷掘りの泥さらいをしていたところ巡業に来ていた相撲部屋にスカウトされたのがきかっけだそうです。堀の掃除をしている姿を見て屈強な青年がいると。
また昔からここは人の往来が多くコミュニケーションをとるのに最適な場所だったようで
「奇縁二天石(きえんにてんせき)」という石碑が建てられました。
よく見ると後ろに「たつぬる方」表に「をしゆる方」と書かれています。
これは尋ねる方が求人の張り紙を貼り、教える方が(こういう人いるよと)情報を貼るといった具合に使っていたそうです。それだけ人の往来が多かったということで、大正時代には仙台で最初の数少ない公衆電話がここに設置されたことからも想像できます。

最後に向かったところは…
七郷掘りから六郷掘りへと分岐するところを見ながら

舟丁にあるしだれ桜の綺麗な駄菓子屋さんへ行きました。

ここでは工場のうらにある史料館を見せていただきました。(ここは一般の方でもお店の人に声をかければ見ることができます。)

その中にある「熊谷屋」

雨も最初だけでだんだん日が差し、終わるころには暑くてたまらないくらいでした。
今回荒町をあるいて荒町の存在自体の歴史がとてもよくわかりました。そして講師をなさって下さった西大立目祥子さんの町の歴史に対する思いもすごく感じ取れとても勉強になりかつ楽しい一日でした。
<参考:西大立目祥子さんの著書>

帰りに、見学したお店のお味噌とお酒を買っていこうかと思いましたが、森民酒造さんは土曜日お休みで閉まってしまいました。でも同じ荒町の通りにあるお酒の種類が充実した及川酒店で購入できましたよ。
今回の荒町さんぽのルート


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仙台が誇る自転車

2013/6/14

「仙台運搬車」
この名称を聞いたことありますか?
私は最近知りました。
私が小さい頃(まだ幼稚園の頃だったろうか、低学年のころっだったろうか)、近所で畳屋をやっている友達の家によく遊びに行っていました。
表の作業場を通って奥の自宅へと入って行くのですが、その際作業場の片隅にあった大きなそして頑丈そうな鉄の塊に見えた自転車がいつも気になっていました。ある時動かしてみようとハンドルに手をやりましたがとてもじゃないけど子供の力では押し倒されそうで無理でしたね。
ハンドルの前に大きな荷台があるこの自転車はどんな重いものを運ぶのだろうと子供心に思っていたのを覚えています。
当時よく見慣れた近所の自転車、その自転車こそが仙台運搬車だったのです。
当時の業務用の自転車は皆ああいうもんなんだなぐらいにしか思っていませんでしたが、仙台が発祥の自転車だったのですね。(仙台の鍛冶屋が改良したのが始まり)
なんだか懐かしく、そして誇らしく感じました。
先日私はこの仙台運搬車が見れるということで鐘崎の笹かま館に行ってきました。こちらのかまぼこ塾というノスタルジックな街並みを再現した場所の片隅に仙台運搬車はありました。

私が子供のころ見たものはもっとフレームやタイヤが太かったと思います。
正式名は「前荷台運搬車」でしょうか。問屋等の重荷の運搬に使われたそうですが現在では製造はされていません。
特徴は
・120kgほどの荷物も楽に積める
・荷台に置くだけで縛らなくても荷物が安定している
・重荷を積んでも後ろ荷台よりハンドルの操縦性がよい
・フレームが頑丈である
・後ろ荷台運搬車より、乗り心地が軽いことが驚異的である
(東京の科学技術館でも「前荷台運搬車(ナトリ号)」として展示されているようです)
どれも、実際乗ってみないことにはわからいことですが、仙台を中心に多く使用され、全国に広まったようです。

また、仙台市内のサイクリングショップ、ファンライド・シクロヤマグチでも展示しています。
興味のある方は一度見て懐かしむのもいいのではないでしょうか。
↓さすが自転車屋さんでもともと売り物だったものなので新品の状態でした。(2階に展示)


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盡忠(じんちゅう) 伊達安芸宗重と涌谷要害

2013/6/1

伊達安芸という人物は伊達騒動(寛文事件)の中心的人物で、伊達兵部宗勝と争い最終的に兵部派の原田甲斐の乱心により殺害された。 今回、涌谷町立史料館にて伊達安芸ゆかりの品を5月末まで特別展示しているというので行ってみました。 まずは伊達宗重公祀り神号を赤心猛雄命と称する涌谷神社を拝観。 伊達安芸宗重公胸像 一応、涌谷町立史料館と読みます… 涌谷町立史料館は涌谷伊達家の城跡にある天守閣を模した建物で… 隣には仙台藩に残る貴重な天保4年(1833)建立の鼓楼建築の櫓があります。 あとから知ったのですが、涌谷町立史料館は震災で旧館していて今年4月15日に再開館したばかりだったそうです。 史料館に入り目当てのものは2階にありました。 それは「盡忠」の掛軸と銘舎利容器。 「盡忠」の掛軸は伊達安芸の死後、伊達家四代目綱村が宗重公の忠勤を讃え自らの筆で書いたもの。 写真では見たことありましたが本物を目の前にして何とも言えぬ感動です。 寛文事件の集約がこの二文字に表れているようにすら感じました。 そしてさらにもう一つ、 宗重の分骨した遺灰を収めたとされる香炉および曲げ物の容器。 これは震災の影響で見龍院にある涌谷伊達家墓所の門脇に立つ石造五重塔がずれたため平成24年7月に修復するのに解体したところ内部から偶然発見されたものだそうです。 とても綺麗な状態で保存されています。 その他にも史料館には畳4〜5畳くらいはある当時の領地を記した地図があり、とても見応えのあるもので、現在の仙台市内の地名も当時は村であったことが伺えます。 この地図は仙台藩全領土が描かれており北は岩手県水沢辺りまで載っていました。 そして寛文事件の発端のひとつとなった桃生郡(登米)の伊達式部と遠田郡(涌谷)の伊達安芸が新田開発の際に領地境を争った名鰭(なびれ)沼がその地図で確認できたのが嬉しかった。 ちなみに3階は展望室になっていて見晴らしが良かったですよ。 感動覚めやらぬまま、次はいよいよ伊達安芸の菩提寺である見龍寺へと向かかいました。 こちらが見龍廟の門です。 そして脇にあるこの五重塔の中から遺灰が見つかったのです。 この塔は伊達安芸宗重の三回忌に建立されたそうですが、本塔は両墓制における参り墓のような役割を担ったものらしいです。三回忌に…、ということはそれまで遺灰をそのために取っておいたのかそれとも建立時に霊屋から取り出したものなのか、どっちだったのだろう。 中も是非見たいなぁと思ったのですがあいにく門は閉まっていました。そして住職さんも留守のよう…。 たまたまお墓参り来ていた方に話を伺うと普段は開けていないが住職さんがいれば開けてくれるとのこと。 遥々来たのに見れなくて残念です。 仕方がないので塀の上から写真だけ撮りました。 どれがどれだかはわかりません…。 今度、また見龍寺に来よう。そして次回こそは見れますように! 涌谷はとてもいい町でした、自然もいいし、町もレトロな感じで良さそうなお店がたくさんありました。 今度、ゆっくり見て回りたいですね。 登米も行きたい、原田甲斐のお墓があるので。
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