仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

仙台の偉人、菅克復って人 知ってます?

2013/2/5

うちの息子は現在小学4年生なのですが、先日こう聞かれました。
「お父さん、菅克復っていう人知ってる?」
その名前を聞いてドキッとしました、それと同時に何とも言えない高揚感をおぼえました。

菅克復という人物は天保八年に一関・田村家の家臣の家に生まれた。その後 伊達茂村(もちむら)側近に抜擢され仙台藩士となりました。
維新後、困窮した生活をしいられていた旧藩士たちをみて、救済すべく当時注目されていた紡績業を始めた。私財をなげうって機械をを購入し自らの屋敷(北三番丁:詳細な場所は不明)で明治七年家内工業として士族の子女たちを雇った。
その後明治政府は殖産振興のため十二機の紡績機を導入し、そのうちの一機が東北に配置された。
それが、のちに北三番丁より水力を動力とするために三居沢に移転した宮城紡績会社だったのです。
ここでいくつか私なりの疑問が生じました。
1.現在の水力発電を行っている水源は広瀬川の郷六の方より長い隧道を作って水を引いていますが、当時機織りだけのために最初からそのような距離の設備工事がわざわざ行われたのか?
2.三居沢水力発電所の脇にある不動尊の裏手の大滝は水力発電の水源と関係あるのか?不動尊内には最古の石碑として寛永十一年というから時代が合わない。
3.現在使われている大きなパイプの隣に旧隧道出口と書かれたレンガ造りの穴があるが、位置がかなりおかしいのではないか。
そこで「三居沢電気百年館」に足を運び、入り口にいた係りの方(館長さん?)にダメもとで話をお伺いしたところとても親切に詳しく説明してくれました。
1.三居沢に紡績会社が移転した当時、場所は仙台市交通局川内営業所内の奥の場所だったそうです。
そして、広瀬川から引いた隧道はちょうどすぐ山の裏側でさほど距離は無かったそうです。
←こちらが当時の工場を描いた絵ですが、入り口の門の辺りにある松の木が今でも一本だけ残っているそうで、それが下の写真です。

2.よくよく地図を見たら全く違う水源でした(汗)
3.三居沢電気百年館の裏手に回ると山から駆け降りるパイプがよく見えるのですがちょうど百年館の真裏に明治三十三年当時隧道出口があり向きも現在の発電機の方向とは全く違う向きなのです。係りの方に話を聞くと先ほどの仙台市交通局の場所から規模を大きくするために移転したそうです。そしてその場所が現在の三居沢百年館がある場所。そして館内には日本で第一号となる水力発電機のレプリカが展示されています。当時の場所に置いてあるというのも何か感慨深いものがあります。
その後洪水に遭い工場は流されてしまい、電力の需要増加も伴い現在の場所に第二号を創ったそうです。
現在も現役で稼働しているなんてすごいですよね。
旧隧道

第一号機 (三吉電機製)

三居沢電気百年館

なるほど、謎は解けた!すっきり(´∀`)
菅克復は先見の明があり地域振興に尽力し、県会議員、仙台市議会議長など就任し行政にも活躍された偉人でございます。
知る人ぞ知るという人物ではありますが、仙台の偉人としてこれを機に知っていただければと思いまた仙台の誇りにしてほしいです。
またこうやっていろいろ調べてから三居沢百年館などの施設に行くと百倍楽しめますので、ぜひ参考にしていただきたい。
発電所を造るまでの経緯は…
仙台に鉄道が開通後の明治二十二年二月、料亭「挹翠館」(ゆうすいかん:のち仙台市民会館の前身となる)にて経済人たちがあつまり仙台の電気事業について話し合われた。その後すぐ東京へ赴き電気会社の調査を行い、当時の日銀総裁であった富田鐵之助の助言を求めました。しかし富田は東京でも事業は始まったばかりで不測の事態も起こりかねないので時期尚早と助言をした。
しかしながら
調査に参加したうちの一人菅克復は自分の工場だけでも電灯をともし暗くなっても働けるようにしたいと、東京で小型の発電機と電灯をなんとか購入した。そして明治二十二年六月二十八日に機械が取り付けら、七月一日に東北で初めて明かりがともされた。
あたり一面真っ暗な中 烏崎山頂から工場内までぼんやりと明かりの点がいくつも見え、当時は狐火と思われたそうです。
冒頭の話に戻りますが、
実は、ついこの2~3日前に私も「菅克復」という名前を知ったばかりだったのです。
先日三居沢の大滝を見に行ったあと気になって三居沢発電所について調べていました。
その際に出てきたのが「菅克復」という人物。
詳しく息子に聞いてみると、学校で担任の先生ではなく算数と社会に限ってさらに精通した先生に教わっているそうです。そして、そこで教わるのは教科書には書いてあるもの以外に郷土史もなのだそうで、その中で三居沢の宮城紡績会社を設立した「菅克復」について学んだようです。
「菅克復」なんて仙台の人でも知っている人はほどんどいないと言っても過言ではないと思います。菅克復氏のお孫さん、申し訳ありません。(汗)
さらには「富田鐵之助」「一力健治郎」についても教わっているそうです。
こういう郷土史を教えてくれる先生っていいですね。また息子もそういう機会に恵まれ素晴らしいと思います。

 


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コメント (1件)

  1. admin より:

    菅克復さんのお孫さんがお店にいらして、菅克復の菅と管の間違いを指摘してくださいました。
    残念ながらその時私はお会いできなかったのでもしこのコメントをご覧になりましたら、ご連絡をいただくかまたお越しいただきたいと願っています。いろいろお話を聞きたいのでよろしくお願いします。

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三居沢不動尊 冬の大滝

2013/1/28

今季の冬は昨年12月より度々の雪で降っては積もり雪かきしてはまた積もり、例年にない雪の多い年となった。
逆にいえば、ここ数年は暖冬で雪はほとんど積もることはなかった。せいぜい2月〜3月にある程度降るぐらいだ。(仙台市内)ドカ雪とも言えないほどの量の雪。これに慣れてしまったのか、今年みたいのが正常なのか。
それはさておき、三居沢にある不動尊裏の大滝が凍っていると聞いたので行ってみた。市内で見れる凍った滝はここだけだろうか。水量が多くてもここまで凍ることはなく、また少なすぎても綺麗さに欠ける。絶妙なな水量がこのような芸術を作り上げたのでしょう。

この大滝は大きく湾曲した断崖から流れ 落ちるさまはは全国的にも珍しいといわれているが、見た感じでは確かに湾曲しているようだが、珍しいのかどうか私にはよくわからないです。


別な日に違う角度から見たら実は滝が二段になっていたんですねぇ、一度少し落ちたところが湾曲して窪んでいてそこからさらに十数メートル落ちていっているんですね、おそらくこの形状が珍しいのかと…。
三居沢は日本初の水力発電、東北初の発電所で、しかも現役で稼働しているという素晴らしい施設があります。


また、子供たちが交通ルールを学ぶための交通公園があり、春には桜並木がとても綺麗です。
書きたいことはたくさんあるのですが、どれもすごすぎてたくさん盛り込むと中途半端になるのでまたの機会に取り上げたいと思います。


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梅に鶯、本当はメジロのことだったの!?

2013/1/23

熊谷屋では春に先駆け今、うぐいす餅を販売していますが、うぐいす餅はその鮮やかな緑のきな粉が特徴です。

さて、みなさんは本物のうぐいすってすぐにイメージできますか?
羽は鮮やかな黄緑がかった緑色で春に♫ホーホキェキョーと啼く…
そんなイメージをもたれてるのではないでしょうか。
実はうぐいすって見た目がけっこう地味なんですよね、鮮やかとはほど遠いくすんだ色をしているんです。

うぐいすでちょっと調べてみたところ、「梅に鶯」という言葉がありますが、この鶯とは実はメジロの間違いだったという説がありました。メジロは目の周りが白いのを除いてはまさにみなさんが浮かべるイメージにぴったりなのです。だから間違えても仕方がないとも解釈できます。
また、花札に描かれているうぐいすもメジロの色に似ています。
しかしながら、はたして本当に単なる間違いなのでしょうか?
いくつかの説を照らし合わせて自分なりに解釈すると、そんな簡単に間違うものか?と思います。
メジロは「ホーホキェキョー」とは啼きません、また、花札のうぐいすは目が赤いです。花札に描かれているうぐいすは恐らく実際の色では派手さに欠けるので装飾しているのでしょう。
日本絵画で「梅に鶯」と題される作品を見ると確かに鮮やかな色をしたものもありますが、恐らく手をくわえたもので、ほとんどのものが写実的な色で表現されているのがわかります。
そもそも「梅に鶯」の言葉の意味は「梅と鶯は取り合わせがよい」ことです。
だから、この「梅に鶯」という言葉のうぐいすはメジロではなくうぐいすなのです!
と言い切りたいところですが、さらに調べてみると梅に蜜を吸いに来るのはメジロであって、藪の中で昆虫を食べるうぐいすは梅の木で見ることはほとんどない…らしい。
実際、梅の木にとまっているかどうかは別として、春になると庭先でうぐいすの啼き声が聞こえ春を感じるのも確かだ。我が家には梅の木はないが梅の盆栽はあるので家の中でその啼き声を聞きながら梅の木にうぐいすがとまっている姿を勝手に想像するのであった。
ともあれ、うぐいすは春告鳥とも呼ばれ、啼き声を聞くと春が来たのだなぁと感じるものだ。
「梅に鶯」
それでいいじゃないか。

 


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平成25年出初式

2013/1/11

平成25年1月6日に仙台市の出初式が行われました。
今年は6日が日曜日だったため朝から寒い中、見に行くことができました。
市民広場へ到着するとすでに式は始まっており、ちょうど観覧行進が行われていて各消防団、各隊員等の行進、それから30台の消防車両の行列、そして空にはヘリコプター。
春日町の方から順番を待つ消防車両は市役所前を通り県庁方面へと走っていきましたが、
その際スムーズに車を流すために信号を青のままにしてたようです。


乱入してきたわけじゃありません、バイク隊です


消防音楽隊

春日町方面よりぞくぞくと消防車両が

県庁方面へと抜けていきます


その後は仙台市長の式辞、表彰、祝辞とが続き、
消防音楽隊とカラーガード隊のドリル演技が披露されました。
(余談ですがカラーガードっていうんですね旗を振って舞うの。それとドリルという言葉初めてしりました。楽隊と演舞が交わるからドリルなんですかね…)


そしていよいよ待ってました、伝統階子乗り!
(またしても余談ですが「はしご」と普通にキーボードで打つと「梯子」と変換されますが「階子」と表記するのはなにかこだわりがあるんでしょうね)
階子の下方、上段・中段・下段に分かれてそれぞれの隊員たちが鉤のついた道具で支える。
たったこれだけで階子の上でのさまざまな動きを支えているなんてすごい!


見事なポーズ!



火の用心

市役所に戻り、建物の上からレスキュー隊員の訓練の一環としてのロープで上階から降りてくるところを披露。
シャッターチャンスを狙ってのんびり構えていたら、あっというまに下までスルスルッと降りてしまいました(笑)

そして圧巻の放水車と隊員による一斉放水!
(やっぱり写真で見るのと目の前で見るのとでは迫力が違いますねぇ)

(気が付いたら写真213枚も撮っていました!)

出初式の由来

 明治27年5月、明治10年以来の町火消が生まれ変わり、新しい組織として180人の公設消防組織が仙台に設置されました。
 翌年1月4日、宮城県庁前において、消防組員の心意気を示すと同時に、士気を鼓舞し、一年間の安全と奮闘を誓い合う目的で、仙台消防組出初式が初めて行われました。
 その後、ある時は広瀬川両岸で、青葉通あるいは定禅寺通で、西公園でと場所を変更して行われましたが、昭和40年代に入ってからは市役所前で行われることが恒例となり、現在に至っています。

<補足>
しかしながら伝統階子乗りは後継者不足を理由に一時期途絶えてしまいました。そして再び昔の古き伝統を復活させようという気運が高まり、ちょうど青葉祭りが再開された昭和60年頃から伝統階子乗りも同じく再開されたそうです。
やはり実際見て感じましたが良いものは残していくべきだと思いました。写真や映像では伝わらない心意気が感じられます。

 


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DATE FM デリラジに出ました

2013/1/8

1月8日、友人の匠一級建築士事務所の鹿志村君より紹介を受けてDATE FMのJ-SIDE STATION内、デリラジ(外からの中継)に出ました。
その中の「ひととひとをつなぐ宮城探訪」というコーナー(PM3時頃)で、これは宮城県内の人を紹介制で次々とつないでいくというものです。
レポーターの庄子久子さんはほんわかした感じで話しやすかったのですが、いざ本番となると緊張してしまい自分でも何を言ってるのかあたふたしてしまいました(笑)
お店の中でお話をさせてもらったあと、お店の前でうちの子を交えて庄子さんと一緒に記念写真を撮りました。

私が次につなげるのは福田町にあるお米を扱う岡部商店さんの岡部君です!
聞いてくださった皆さんありがとうございます。
事前に告知しようかとも思いましたが、なんとなく恥ずかしくって…、すみませんでした。


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伝統的な門松

2013/1/2

あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いします
さてお正月飾りの一つと言えば門松ですが、よく見かけるのお正月の門松は下の方に松があって真ん中にど〜んと竹が立っているのが普通ですね。たまに梅があったりして…。
そしてその竹は斜めに切られて節が見え、ちょうどそこが笑ったように見える。
この竹は寸胴型で真横に切ったものもある。
斜めに切ったものは「そぎ」と呼ばれ徳川家康が始めたもの。三方ケ原の戦いで家康が敗北後、この次は武田信玄を斬ってやるという意味を込めて作らせたとか。
ということは昔の門松はどういうものだったのか?
江戸では竹の部分が根元からそのまま先端まで挿してあり建物の二階くらいまでの高さだったそうです。
またこれは地域によっても多少異なる形をしていたのでしょう。
仙台は伊達の門松はどういうものだったのでしょうか。
今年はこれが文学館と瑞鳳殿、そしてレプリカを博物館、榴岡の歴史民俗資料館で見ることができるんです。
私は一足先に年末に文学館に行って見て来ました。

シンプルですが迫力を感じられます。
ちなみに瑞鳳殿のはもう少し高さがありそうです。

しめ縄の部分

土台の部分

わかりづらいですが栗の木を軸にしていて、そこに大きな松の枝と3mほどの竹笹を結わえてあります。

1960年辺りまではわずかにこのような門松が残っていたそうです。
これらの材料は泉区根白石の農家8軒が毎年献上していたとのことだ。
瑞鳳殿の門松(読売新聞より)

 


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仙台の大晦日は年取り魚にナメタガレイを食べる

2012/12/29

仙台では大晦日の夜に子孫繁栄に縁起が良いと子持ちのナメタガレイの煮つけを食べる風習があります。
ナメタガレイは北海道ではババガレイと呼ばれ、南の方ではインドガレイとも呼ばれるそうです。
昔から大晦日になると食卓に出ていたので、そう不思議にも思わなかったのですが、他の地方の方から見ると不思議に映るようです。
とは言っても地方によってはまた異なる年取り魚があるみたいです。
仙台人としてはあたりまえのナメタガレイ、ではいつごろから食べられるようになったのでしょうか?
実は江戸時代から戦前にかけて、仙台の正月の魚(年取り魚)はタラだったのです。
意外でした!
正月に向けてタラが出回らないことを心配し、調査を命じた伊達政宗の手紙が残っているそうです。
また、戦前の仙台の年中行事に関して「正月にタラ汁は欠かせない」と記した文献も残っているそうです。
(仙台城下「町人列伝」参照)
それではなぜタラからナメタガレイに変わったのでしょうか?
明治三陸地震(1896年-明治29年)の影響で、ナメタガレイが大量に取れるようになり、庶民が食べる年取り魚として定着した。商家では大みそかは忙しくて魚を焼いている余裕はないので、冷めてもおいしいナメタの煮魚が重宝されるようになった(朝日新聞より)ということだそうだ。
ふ~ん、意外と最近なんだぁ!?
それともう一つ、正月の御雑煮に欠かせないのが焼きハゼの出汁。
これも明治以降に広まったそうです、とはいえ江戸時代の仙台城では食されていたようで他に干し鮑や干し海鼠、伊勢海老と豪華な食材を使用した雑煮だったようです。
当然庶民にはまねのできないことで、せめて焼きハゼの出汁だけでもということで少しずつ広まっていったのかも知れませんね。
いずれにせよ、風習は歴史とともに変化していくんですね。
ナメタガレイも焼きハゼもじゅうぶん歴史はあります、このような風習は続けていきたいですね。
そしてなぜそうなのかを知るのも大事だと思います。

 


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北山の羽黒神社と青葉山の名の由来

2012/12/10

伊達政宗が築城した仙台城のある青葉山。
青葉山という名は実は現在北山にある羽黒神社と関係しているのです。
お話に入る前に言葉の意味を確認しておきましょう。
別当寺(べっとうじ):神社を管理するために置かれた寺のこと。
神社と寺がセットなんて変ですね、これは神仏習合が許されていた、つまり土着の信仰と仏教の良いところをとって新たに作り上げた信仰が一般的だった時代の話です。
政宗が仙台城を築城の際、
慶長七年(1602)残月亭の南脇、本丸と二の丸の間(植物園内)に、羽黒神社と別当寺(青葉山)・寂光寺(じゃっこうじ)が建立された。
慶長5年(1600)の松川の戦いにて上杉景勝と伊達政宗が戦った際、福島の信夫山(しのぶやま)にて寂光寺の法印慶印が劣勢に立たされた政宗を寺にかくまい、夜半に裏手から仙台に帰えらせたといわれている。
その後寺は焼き払われ、山伏や宮人は政宗とともに仙台へ移り住んだ、
このとき、仙台城の前身地に青葉山寂光院・羽黒大権現を移したのです。
この「青葉山」は「せいようざん」と読み寂光寺の山号であった、この山号より名をとって
「青葉山(あおばやま)」と称すようになったと言われてい
ます。

その後寛永15年(1638)二の丸が造営されるころまでその地にあり、羽黒神社とともに北山に移転した。
北山に寂光寺が移転したのは慶長7年という記載が多いが寛永15年あたりのほうが年数的にも妥当と筆者は考える
昔の地図にある(北山移転後の)寂光寺。右端は輪王寺でその脇の古海道は中山街道または秀衡街道と呼ばれ現在の北四番丁大衡線の一部分です。

現在の地図(寂光寺があった場所:詳細はわからないので想像です)

(クリックして拡大)
現在では羽黒神社のみ残っています。

 


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  1. 横田や・横田 より:

    「寂光寺」検索していましたら出会いました。
    最近、寂光寺の参道がわかりました。横田や斜め向かいのピンク色のマンションが建っているところ。その北側に現在細い道がありますが(羽黒神社の脇までクランクして登る)その東側に立っている住宅1件分が元参道だったところと、むかしから参道わきに住んでいた方(90歳ぐらい)に1昨年聞きました。
    私も、今のクランクした道が参道の一部と思い込んでいましたが、まったくその東側だったとは・・。そう聞いてから見ると確かに今立っている住宅は、参道の上に立っているように見えてきます。

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仙台市内で鮭の遡上が見れるんですか?

2012/12/1

先日KHBの「ナマイキTV」で放送されていましたが、牛越橋の上から鮭の遡上が見れるんです! 私も12月1日(土)に見てきました。 うわぁー!いるいる‼ ↓拡大 岸の方には力尽きた鮭の屍もある。 なぜかこんなところに卵を発見! よくここまで頑張って戻ってきてくれたね。 (左上のは死んだ鮭です、川の中をよ~く見るとたくさんの鮭が並んで泳いでいるのが見えます) 私も以前参加したことありますが、ここからもう少し上流、賢淵手前あたりから鮭の稚魚を毎年放流しているのです。 何も考えずに放流したけど実際こんな街中の川に戻ってきた鮭を見て感動しますね。
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定義山で発見!

2012/11/25

先日の日曜日、定義山へ行ってきました。 何気に天気よかったですが、紅葉は完全に終わっていました。 旧本堂にお参りしてから、普段行かない裏側に行ってみました。 見ると「天皇塚 連理のケヤキ」という立て看板が立っていて階段を上っていくと大きな切株が祀られていました。 今まであまり考えたことなかったですが、定義如来の開祖は肥後守平貞能公という方で平重盛公の重臣だったそうです。 平家が、壇ノ浦の戦いに敗れた後、平重盛公より託された阿弥陀如来の御霊像をまもり、源氏の追討をのがれて、この地に隠れたのが始まりのようです。 そしてこれまで護持してきた安徳天皇の遺品を埋め、その目印に2本のケヤキを植え、その菩提を弔ったのが「天皇塚 連理のケヤキ」だそうです。 連理木(れんりぼく、れんりぎ)とは、2本の樹木の枝、あるいは1本の樹木の一旦分かれた枝が癒着結合したもの。自然界においては少なからず見られるが、一つの枝が他の枝と連なって理(木目)が通じた様が吉兆とされ、「縁結び」「夫婦和合」などの象徴として信仰の対象ともなっている。(Wikipediaより) それにしてもデカい! その後下に降り旧本堂脇の庭に出ると池に鯉が泳いでいました。 そしてその中になんとも珍しい鯉がいました! 色は白で、ヒレがすごいこれはまさにジュディ・オングの「魅せれらて」のあの衣装にそっくり!! なので、 愛称をジュディと言うそうです。(笑) もう一つ目にとまったのが定義如来の紋章。 変わった形ですね、蝶? これは平家の御紋章の揚羽蝶(アゲハチョウ)だそうです。 こちらの幕にも もちろん定義山と言えば三角油揚げなんど食べてもおいしいですね! やっぱり揚げたて最高!ここで食べるのが一番おいしいですね! ←ポチッと押してください!
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