仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

タグ:歴史

へくり沢をたずねて 現地調査

2013/11/28

前回10月24日に柏木市民センターで講座があり講師は東京スリバチ学会の皆川典久氏。この回は土木な話と題して次回の実地の予習的な感じでした。相変わらず、周囲の人は自分よりずっと年配の方がほとんどでした。
そして11月10日にいよいよへくり沢を歩いて辿る。
今回、変わったところと言えば若い人たちがちらほらおりました。学生の男子が二人と、若い女の子3人組。
女の子達に聞くと自分の住んでいる街についてなんか知れるかなと予備知識も特別な興味もなく軽い気持ちで参加したそうです。それでも興味深げに見ていました。
こんな感じで若い人でも参加するととても面白いですよ。普段毎日のように通っている道なのにこんなものがあるなんて知らなかったとか、昔は川だったのかと驚きがあります。
ではでは、簡単に辿ったコースを見て行きましょう。

集合場所は大崎八幡宮の鳥居下。
前回の講座で先生が私は雨男なんですと前もって謝ってましたが、当日は台風も近づき予告通りあいにくの空模様。なんとか終わりまでもってくれればいいなぁと祈りながら歩きました。
途中パラパラと降ってきましたが、フードをかぶるくらいでなんとか大丈夫でした。
八幡神社を出て、龍寶寺へと少し登り途中路地を曲がり先の四ッ谷用水の上を通りながらしばらく先で曲がり西友八幡店の脇から48号線を超えて、八幡杜の館に立ち寄りました。


ここは元造り酒屋の天賞の敷地で杜の館は天賞移転後一部建物を移築したものです。
建物内では展示物がその時によって変わります。

八幡杜の館をあとにして宮城第一高校の前を通って歩くとこんな看板がありました。

ここはよく自転車や車で通るのに初めて気づきました。さらにはその少し先にあるシーアイマンション中島丁の敷地内にある木がすごい。樹齢300年のたぶのき。

よく注意して見てたつもりでしたがわからないものですね。
敷地内には井戸もありました。
あとで知ったのですがここには他に2本も保存樹木あるそうであとでゆっくり見に行きたいと思います。
まっすぐ進むと尚絅女学院だが、手前左手は昔の十二軒丁にあたるそうだ。
尚絅女学院の脇から橋の下へ降り、澱不動尊前を通りながらへくり沢が広瀬川へとそそぐ出口を確認。

そこから沢跡を上に辿り土橋へとぶつかる。ここは細い獣道のような道を行き上へと登って行きます。
傾斜に沿って横に進む道、これは昔の土橋の名残で一段、二段と徐々に高くなったそうです。昔は沢の底まで降りて渡っていた。

土橋の上へ出ると現在の十二軒丁へ曲がり、すぐ脇に下る。
そこは土橋を挟んで橋の反対側の沢跡。

そこから北へ戻って八幡小学校の裏を北上。ここは昔深い沢だったが今は全くおもかげはない。道なりに行くと石切橋に出る。ここは沢こそ見えないが橋の名残がある。

春日神社に移動し、御堂の中を見せてもらうことができました。そこには今野喜一さんが描いた昭和15年ごろの周辺の絵で参道に設置されてるもののオリジナルが納められていて、今野さん本人に貴重なお話を聞くことができました。

四ッ谷用水と交差する地点を見、赤道を辿って寿徳寺方面へ。

最終的に国見児童館がゴール。ここは少し上方より湧き水があり堰き止めて堤を作り、その堤が現在の国見児童館あるところである。国見児童館脇から国見小学校の境の傾斜は堰き止めた名残。

ここからへくり沢は始まっている。
ここで本日の講座は終了なのだが、それを待っていたかのように急に雨足がひどくなった。とにかくギリギリまで天気がもってよかった。
それにしてもかなり歩いたなぁ。
【本日歩いたコース】 ※地図をクリックすると拡大して見れます


コメント (4件)

  1. kumagai-ya より:

    SECRET: 0
    PASS:
    これからもよろしくお願いします。

  2. caz3 より:

    SECRET: 0
    PASS:
    丁寧なご解説を頂き、ありがとうございました。なるほどよくわかりました。
    過去分の記事を読まずにコメントを書いてしまって、すみませんでした(笑) もう以前から詳しく解説されていたのですね。タグをたどって、へくり沢以外の記事も是非読ませていただきます。ありがとうございました。

  3. kumagai-ya より:

    SECRET: 0
    PASS:
    caz3さんコメントありがとうございます。おっしゃるとおり新坂通は南端の新坂に由来する名前です。もともとは新坂に通ずる道ということでその名がつけられました。土橋通も同様に土橋に通ずる道ということでその名がつきました。仙台で○○通というものは○○に通ずる道となりその先に○○があります。「こんな端っこに…合理的ではない」という風に思われるのも当然だと思いますが、先ほど述べたとおりです。ただ本ブログにもあるように「へくり沢(1)~土橋通りの土橋ってドコ?」(http://kumagaiya.exblog.jp/20455975/)の中で土橋までまっすぐ土橋通が直結していないことからどうして土橋通というのか最初疑問でしたが歴史の変遷をみることによって納得できます。

    結論を言うと土橋はへくり沢に架かる橋で四ッ谷用水に架かるものではありません。
    私も最初は四ッ谷用水を越えるところに架けた橋のこと言うのかと思っていましたが先に述べたとおり○○通の○○とはそういうことです。
    へくり沢に関する当ブログ順に読んでいただくとだんだんその変遷や理由がわかってくると思います。
    わたしもそういった疑問から書いたので内容を理解していただけると思っています。

  4. caz3 より:

    SECRET: 0
    PASS:
    はじめまして。楽しく読ませていただきました。
    突然申し訳ございませんが、お尋ねしたいことがあります。
    「土橋通り」の名前の由来についてなのですが、
    一般にはこのへくり沢にかかる土橋が名前の由来、と言われると思います。しかし、こちら http://www.melon.or.jp/melon/contents/Section/Water/wg/profiles/profile031.html には、四谷用水にかかった土橋を元にした地名である、と書かれていますね。どちらが正しいのでしょうか?
    へくり沢の土橋は、長い土橋通りの南端に在るので、こんな端っこに位置する物を元に通り名をつけるのは合理的でないのでは・・・、とも思ったのですが、すぐ近所の新坂通りはまさに通りの南端の坂が名前の由来です。お城から見て通りの入口にあたる南端の地形から通り名をつけた、とも思えます。いかがなものでしょうか。

コメントする 

古城の梅

2013/11/11

去年は時間がなくて見れなかった臥龍梅、今年は見ることができました。
若林にある宮城刑務所の敷地の中にある臥龍梅、11月の矯正祭で見学するとこができます。

さらに今回はちょうど発掘調査をしていたので、それも見ることができてラッキーでした。

大きな門をくぐって最初に目にするのは左右に大きく手を広げたように伸び続ける松。水平に伸びた枝の長さは15m、14mと非常に長い。種類は黒松であるが土井晩翠に「蟠竜の松」と名づけられた。

(「杜の都の名木・古木」より)
その松の先には発掘調査が行われている場所。
ここは政宗公が晩年過ごした若林城でその跡に刑務所が建てられた。老朽化と地震の影響で立て直すことになったが、若林城ゆえ発掘調査が行われたという次第。そこに行くと各作業員が説明してくれました。刑務所の外を流れる六郷堀が城内にも流れていたことを示す痕跡が見つかったとのこと。26日の新聞にも載った。
若林城は仙台藩祖 伊達政宗が仙台城築城後の寛永5年に「仙台屋敷」として造営した城で、晩年の政宗公は若林城を仙台での居所としました。寛永13年に政宗公が死去すると、遺言により城は廃絶され、『伊達治家記録』によると、城内の多くの建物は寛永15年に二代藩主の忠宗公が造営した仙台城二の丸に移築されました。その後、城跡藩が営む薬園となり、明治12年に宮城集治監が置かれました。
城跡の規模は東西420m、南北350mもあり、本丸部分としては他の大名の居城にも匹敵する広さがあります。周囲には高さ5mの土塁と外側には幅約20mの堀跡が巡り、土塁や門の配置から、戦を意識した城とも言われています。
(若林城跡発掘調査 第13次 遺跡見学会資料より)
そのあと受刑者の作業場を見学、ここは家具など木工用品を製作する場所で、なかなか年季のはいった建物だ。大きな体育館のようでもあり、その天井を見ると天井裏は木の板、また、天井から鉄の骨組みのような感じのものがぶら下がっている感じ。
作業場の次はいよいよ臥龍梅。
残念ながら花の時期には見ることはできないが見事なものだった。昭和17年に国の天然記念物に指定されて以来、刑務所の人も手入れをすることができず枝は伸び放題。(写真ではわかりずらいが)柵をかなり超えて枝を広げている。しかしながら老齢で花は年々小さくなっているのだそうだ。

(「杜の都の名木・古木」より)


タグ:, ,

コメント (0件)

コメントする 

四ッ谷用水の上流を訪ねて パート2

2013/11/1

北堰をあとにまたバスで移動して聖沢へ。
ここは聖沢をまたぐために木製の箱樋(水路橋)が架けられた。現在はコンクリート製で上の三つのスリットは降雨などで水量が多くなった際に余分な水を流すための穴。

写真はカーブする旧道を撮ったわけですが、実は昔直角の道だったとか。ガードレールの向こう、人がいるあたりが昔の道でその下を四ッ谷用水が通っている。

上の写真の先にあるのが池の跡。鬱蒼と生茂っているが現在は水はありません。昔の第三隧道出口付近にためられた防火用に使われた溜池。その証として「防火用水」という標柱がある。

「防火用水」という標柱はだいぶ古いもので以前は池の脇に立てられていたものが朽ちて倒れていたそうです。それを近くに住んでいる方が現在の場所に立て直したそうです。「火」という文字は確認できる。

さらに向こう側には隧道を掘る作業用の穴、「ズリ出し口跡」がありましたが、バスが停車することができず写真には撮れませんでした。
そしてさらに向こう側、八幡研修センター(旧文理ランドスケープ園芸専門学校)の敷地が昔の沈砂池だそうです。現在は水はありません。
そして今回いろいろ知った中でおもしろかったもの、それは「四ッ谷用水湧き上り」というものです。
下の方から隧道を通って上へと流れていく、まさに湧き上っているかのような場所です。実際のものはすでに無くなっているので確認することはできませんが、昔を知る方から聞いて書いた想像図を見ると、なんとも不思議な作りです。逆サイフォンの原理とも言われていますが、私にとって謎が多いです。なぜなら四ッ谷用水はそもそも河岸段丘に沿って緩やかな傾斜を利用して仙台の町へ流していたのになぜこのような構造をつくったのか?出口の作りがアーチ型だというので明治時代に造られたらしいが、謎は多い。

イメージ図から場所は賢淵あたりの国道48号線と弘法山の間あたりのようです。


この後は柏木市民センターで昼食ととり、休憩後ワークショップとして四ッ谷用水に対する意見交換をしました。四ッ谷用水の存在を広めるにはどのようにしたらよいかなど。
また、東北大雨宮キャンパス(農学部)が青葉山に移転するにあたりその後の土地活用の一つとしてなんとか四ッ谷用水に関するものができないだろうかなどという話も交わされました。北六番丁を本流とする四ッ谷用水はちょうど農学部のあたりを通っているのです。ぜひ有効利用できたらいいなと思います。
なんだかんだでまた長くなってしまいましたが、
今度は自分でまた行ってみて、じっくり見てきたいと思います。
今回見たところ


コメント (2件)

  1. kumagai-ya より:

    SECRET: 0
    PASS:
    さなえ様 いつもありがとうございます。またお越しの際はよろしくお願いします。

  2. さなえ88 より:

    SECRET: 0
    PASS:
    今日もダッシュでくるみゆべしを15個買いました!只今名古屋への帰路ですが我慢できず一つ食べました(笑)
    相変わらず美味しいです。
    仙台の歴史も楽しく拝見しています。

コメントする 

四ッ谷用水の上流を訪ねて パート1

2013/11/1

「政宗公の用水原点を見る!」と題しまして、「四ッ谷用水の水を街並みに!」市民の会で企画された四ッ谷用水の上流をバスでたどるツアーに参加してきました。
昨年、大崎八幡神社から支倉堀あたりまで歩くツアーに参加してとても勉強になりましたが、今回はその上流編。下流であれば自分でも簡単に見に行くことはできますが、上流となると難しい。県の管理している場所もありますし、…でもこういうツアーだから見れる場所がありました。
今回のバスツアーでいろいろ知ったことがありますが、まだまだ疑問・調べたいことがたくさんあります。なので、あまり深く掘り下げず見てきたことを中心に書きたいと思います。
朝の9時過ぎ霧雨が降る中仙台市役所噴水前に集合。

コースは市役所~郷六(現在の取水堰)~北堰(昔の取水堰)~工業用水沈砂池~聖沢掛樋~柏木市民センター~市役所前
このバスに乗って行きます。

四ッ谷堰に着きました。ここで県の管理している方から説明を受けました。ここに来るころには雨もなんとか止んでくれました。

ここの標高は65m、梅田川合流地点は40m、そこまでの距離は7.2kmなので0.3%の勾配を利用してうまく用水をながしています。
四ッ谷堰は以前はここから800m下流にあったものが時代とともにだんだんと上流に移動し、ここに移ったのは明治10年頃で、昭和30年代に工業用水に使われることなり、ピーク時は毎時4000トンも流していたそうです。震災の影響もあり現在は毎時1500トンほど流れているそうです。
この先は宮城野区大梶にある水道事務所まで約2時間かけて送られ、そこから塩釜市内・パークタウン・仙台港方面の各企業へと送られます。実際のここの操作は遠隔で大梶の事務所から行っているそうです。
ここでの管理は取水量の調整のほか、ゴミの除去、濁度の管理、pHの管理を行なっています。
濁度は10度以下、平均にして4~5度だそうです。
pHは7度に調整され流されます。これは薄くても濃くてもだめで、パイプを傷つけないためでもあります。
一番気を遣うのが油だそうです。上流から流れてくる油。すぐ近くにも生瀬橋(おいせばし)という橋もあり、そういった橋の上で車両事故が起こると車の油が川へ落ちる可能性があるため、事故情報には特に注意を払っているそうです。
これが除塵機。大きな熊手のようなもので落ち葉などのごみをかき上げて上部に集めます。

下から見たところ

ここに塵が集められます。よく見ると奥に大きなもずく蟹が!昔はもっとたくさんいたそうです。

この堰は川に対して斜めに設けられている全国でも珍しい堰だそうです。実は現在、川に対し斜めに堰を設けることは国で許可されないのだそうです。(すみません、理由は忘れました)
橋の下から左へ流れるのが広瀬川本流、本流から脇の水路に堰を利用して水を引き、先ほどの除塵機へ流れていく、そして余計な水は手前のところから本流へと戻してやります。

続いてバスで移動して沈砂池へ。

ここはA型開渠という。入り口から向かって左側には流していません。右側の池に流し込んで砂をとります。
水の入り口は馬蹄形の口で狭くすることで流れのスピードを速くさせ隧道途中で砂が沈まないようにしている。

ここにきて急に広くなるので流れがゆっくりになる。
横一列に並んだ孔の開いた清流壁に水を通すことにより流れるスピードを均一にしている。

さらにそこから歩いて広瀬川の方へと進むと北堰(昔の四ッ谷堰)が見れる。
現在は対岸に取水口があって、三居沢の水力発電へと流れていく。
取水口の向こうには郷六御殿跡が見える。


コメント (0件)

コメントする 

へくり沢 地形(番外編)

2013/10/17

土橋の下、元のへくり沢の底に行って写真を撮っていたら、そこに住んでいる方とたまたまお話ができ貴重な情報を得ることができました。
その方は土橋の真下のアパートの大家さんで、小さい時からそこに住んでいたそうです。
その方のお話によると昔は裏の白く細い建物の辺りから水が流れちょっとした滝のようだったとか。
さらにその流れは現在のアパートの裏を通り少し先の窪みになっているところで蟹子沢(へくり沢)と合流していたそうです。
窪みのところで合流とは…写真で見る妙な窪んだ壁、そこが昔の合流地点だったとか。

そこは暗渠から開渠になった部分でその先も開渠になってて道路沿いに沢があったそうです。
沢が広かった部分は古いアパートの前のところで、沢を渡るのに小さな橋が二か所掛けられていたそうです。
沢の向こう側(オレンジのアパートや住宅がある奥)に家や商店があったそうです。(昭和30年頃)

どおりで入り口の段差が妙な傾斜になっていると思った。
ちなみに先ほどの白く細い建物の辺りから流れ落ちる滝は恐らく四ッ谷用水の支流と関係があるのではないかと思われます。土橋通から南へ突き当たった四ッ谷用水は北三番丁へと折れていきますが、その折れる地点が白い建物のあたりだからです。

また南側にある澱不動尊の裏を昔は馬などが往来していたと町内会長さんがおっしゃっていたそうです。
これは何を意味するか、推測ではありますがへくり沢に沿って河口まで続く道の名残ではないかと私は思います。なぜなら不動尊の背後はちょうど沢の斜面の延長線であるから、可能性はあると思う。そして現在道路になって新坂へ渡るところに板橋が架けられていたのだろう。

今回お話を伺うことができた方は昔からそこに住んでいてお父さんからよく昔の話を聞いていたそうです。
またわりと早くからその地に住んでいたということから、戦前にはすでに住宅があったのかもしれません。
そして、その方も自分が住んでいる場所(蟹小沢)についてもっと知りたいという気持ちがあるようで、これからは地元の歴史に関する市民講座などにも参加してみたいとおっしゃっていました。


コメント (0件)

コメントする 

へくり沢 地形(3)

2013/10/17

土橋の名残り
現在、土橋は北三番丁から十二軒丁に対して丁字にぶつかる形ですが、これまでの話のように、いろいろな変遷を遂げて現在の形になりました。
ではその名残りはまだあるのだろうか?かつて沢だったところは住宅が建ち、沢の名残りはあるものの昔の土橋の名残りなんて考えもしなかった。もちろん今と昔で土橋の位置が異なることを知らなかったのだから当然だ。
現在の土橋の東側に下方へ降りて行くけもの道にも似た径がある。下の住民の近道かな?くらいにしか思っていませんでしたが、その径は下からの登ってきて二手に分かれ土橋の両端へ続く。この二またの径がちょっと不思議には感じてはいました。

実はこの二またの径が昔の土橋なのだとか。(詳しくはわからないので仮説といたしましょう)そうだとすると下へ降りる径はへくり沢沿いに河口まで辿り新坂へ続く径と考えると納得がいく。(仮説)

橋というものは対岸から対岸へ架けられるというイメージ、もしくは古地図上では平面のイメージだが、実際は沢の斜面を少し下って下の方で橋を架けていたようです。
それはおそらく沢の深さもさることながら対岸への距離もあり普通に橋を架けることは困難だったからなのでしょうか。
そして二またの径の北側へ伸びる先は現在の道には合流せずに右にカーブし再び左にカーブして土橋通へと繋がっていた。その左にカーブして土橋通に繋がるところはおそらく現在白い建物が建っているあたりだと思います。建物の沢側はかなりの崖になっていますが、昔、その下にも家があったので建てる際に削って切り立ったのでは。だから以前はもう少し緩やかな傾斜だったのではないかと推測される。


明治26年の仙台測量全図にもまだその跡が載っているのがわかる。

大正元年の地図では土橋通と北三番丁とがぶつかるところで少し突き出ているのが名残か。(現在の道路とほぼ同じ)

現在の同場所(北三番丁から十二軒丁を見た写真)

今回の講座で今と昔のへくり沢周辺についてある程度正確なイメージが掴めたような気がする。
そして今までモヤモヤしていたことがだんだん晴れてきました。


コメント (0件)

コメントする 

へくり沢 地形(2)

2013/10/16

姥ヶ崎
土橋の北側、へくり沢沿いに姥ヶ崎という地名がある。
これは前回話した十二軒丁の辺りのへくり沢に突き出した地形のことを言う。
名前の由来で姥が歩くのに困難なところという意味でつけられたのか?
一方、大崎八幡宮の別当寺であった龍宝寺の敷地内には有巴ヶ崎神社がある。
これは「うばがさき神社」と読むそうだ。
写真ではわかりづらいが「有巴崎正一位稲荷大明神」とある。

へくり沢は地域によって呼び名が違う。蟹子沢とか巴沢とか土橋沢とか。

土橋沢は土橋周辺のことを言うのだろう、蟹子沢はおそらく小さい沢蟹がたくさん獲れたのではないだろうか。
巴沢…、巴(ともえ)というのは渦を巻いているような様をさしているのか、とするとへくり沢は普段は水量が少ないが雨が降った時は水かさが増え渦を巻いていたので、そこから来たのではないか。
実は巴は「へくり」と読むのだそうだ。もともと巴沢(へくり沢)が読み間違って巴沢(ともえ沢)となったのでは?
いろんな説が考えられる。
話は戻って、十二軒丁のあたりは有巴沢町とか姥ヶ崎町とも呼ばれた。つまり姥ヶ崎はもとは有巴ヶ崎だった?巴(へくり)からきた地名。(当て字か?)
有巴ヶ崎神社ももともとこのあたりにあったのかもしれない。
こう考えるとなんだが納得がいくような気がする。


コメント (0件)

コメントする 

へくり沢 地形(1)

2013/10/15

へくり沢第2回の講座がありまた参加してきました。
講師は東北文化学園大学 建設環境学科の八十川淳氏。
今回は「へくり沢-地理な話」
前回の講座で土橋が造られた変遷がよく理解でき、最終的に北三番丁から十二軒丁に対して丁字に土橋がぶつかる現在の形になったわけですが、昔の十二軒丁はどこなのか?現在のそれとは違うのです。
ずっと気になっていましたが今回よくわかりました。
今回は地形的なお話だったのでへくり沢の周辺について、いろいろ時に仮説を交えながらとても興味深かった。
現在の地図で国道48号線を山形方面へむかい八幡町の弥勒院を過ぎた交差点で左に曲がると突き当たってまた左にカーブし、その先に愛宕神社があり、さらに突き当たりは宮城第一高へとぶつかる。(紫の線)

変なところに(裏通りにひっそり)
ある神社だなぁと思っていましたが、昔おもて通りは今と反対で南側だったそうです。ご存知の方も多いかもしれませんが、弥勒院もその昔正面の入り口は今の裏手にあったのです。国道48号線ができた時にそちら側が表になったため入り口の向きが変わったそうです。
そういうことで、河岸段丘の下方の屋敷町から見て上の方にお寺と神社があったのは必然的とも言えます。
弥勒院の山門を横切って、突き当たりが元の十二軒丁でした。寛文4年の地図を見るとそこはまだ大きな屋敷が2軒でしたが、天明6〜寛政元年の地図では2軒の境界に道が敷かれ、12軒の家が建つようになってからいつしか十二軒丁と呼ばれるようになったのです。
ちなみに私のイメージでは 通りに面して十二軒、軒を連ねているのかと思っていました。十二軒のかたまりだったんですね。
【仙台城下絵図寛文4年】


【仙台城下絵図天明6~寛政元年】

ということで現在の十二軒丁より南に位置して、へくり沢に突き出していた場所にあったということがわかりました。さらに十二軒丁の名前の由来もなんとなく納得しました。ただ十二軒あるだけじゃなんとも思わないがある一定の場所に十二軒ごちゃっと塊っているとひとまとめにしたくなりますよね。


コメント (0件)

コメントする 

ヘくり沢(3)~ ヘくり沢と土橋、その周辺の変遷

2013/9/27


*寛文4年(1664)の城下絵図
寛永20年(1643)ヘくり沢に土橋を作り土橋通に繋がる。このことで北三番丁と中島丁が通じた。
明暦2年(1682)土橋から十二軒丁へ通じる道、切通が作られる。

*元禄年間初期(1690年前後)の城下絵図
この地図を見るとさらに中島丁辺りからヘくり沢沿いに南下する道ができている。
元禄8年(1695)土橋から南下する道、そして川内へと渡る橋が架けられる。これが澱橋だが現在のものとはかなり異なる。そして橋の北から東へ曲がる道を作った。(新しくできた坂ということで新坂と名付けられた。新坂通はここへ通ずる道)

*寛政年間初期(1800年頃)の城下絵図(仙台市博物館所蔵)

*明治26年(1893)の地形図
明治10年~20年、土橋と切通を改修して北三番丁と十二軒丁をまっすぐに繋げて、澱橋から土橋に繋がる道をこの道に丁字になるように接続させた。
これがほぼ現在の形になるのです。
ちなみに元禄8年に架けられた澱橋はその後流されたりしながら改修を重ね土橋から中島丁に続く道の延長に架けられた。(明治26年の地形図参照)しかし現在はほぼまっすぐに澱橋へと続いている。(昭和39年「仙台市大鑑」参照)その名残として昔の橋げたが今もあります。


*昭和39年「仙台市大鑑」より
昭和14年(1939)市電を通すために北四番丁を西に伸ばして八幡町と繋げるために、ヘくり沢を暗渠にする工事が始まり、昭和15年に八幡町まで道は繋がった。
第二次世界大戦後、瓦礫を用い土橋付近のヘくり沢を埋め立てて、昭和30年代にはそこに住宅が建てられた。
現在、土橋から土橋通へとまっすぐ道をつなげる工事をしています。これがつながれば正真正銘「土橋通」になりますね。

9月12日に行なわれた講座は無料で定員無しだったこともありかなりの人が集まりました。市民センター側も予想以上だったようで急遽テーブルと椅子を用意しましたが、それでも間に合わず一番後ろは椅子のみで、60人くらいは集まったでしょう。年代は私よりずっと先輩の方がほとんどでした。
約2時間菅野先生のお話を聞けて有意義な時間を過ごせました。また講座後に菅野先生とお話しできてよかった。

↑まだ余裕がありますがこれは30分前です。

菅野正道氏
へくり沢の地図

最後にへくり沢の暗渠を歩いていました
下の画像をクリックすると映像が見れます。


コメント (2件)

  1. 松井秀明 より:

    はじめまして、松井といいます。今年2月27年ぶりに仙台に戻ったものです。朝通勤時に土橋ー澱橋を通るようになり、その道の曲がり、起伏が懐かしく、そして桜の土橋の風景に思わず目を奪われていました。そのたび「きっとここは、江戸時代からの道に違いない!誰か由来を教えてはくれないだろうか・・・」と思っていました。由来が大変よくわかりました。ありがとうございました。
    改めて仙台の町を歩くと、戦災で残った地域の道はとても味わい深く感じています。気になる箇所がいくつかあるので、今度は私も自分で調べてみようと思います。本当にありがとうございました。

    p.s お菓子のほうも食べようと思います。

    1. admin より:

      松井様 コメントありがとうございます。仙台には一見不思議な場所がたくさんありますよね。ちょっと視点を変えるといろいろなことが見えてきます。これからもよろしくお願いします。

コメントする 

へくり沢(2)~ だから土橋通なのです

2013/9/27

現在北四番丁から続く国道48号線は八幡町へと向かい大崎八幡神社を横切りその先へと続いているが、実は以前は土橋通で寸断されいたという。繋がったのはわりと最近(?)で、市電が走る昭和になってから。
へくり沢は仙台開府当時から深い渓谷を成していて、開府当初はそこで城下町が終わっていた(城下町との境界線)可能性が高いということだそうです。
それだけ沢を越えるのには難所だったのです。
へくり沢を越えるには当初は沢の浅い上流の方の覚性院(春日神社辺り)を通っていたそうです。
今も名残として石橋が残っている。

しかしそれでは仙台城へはかなり遠回りだったのでへくり沢に土橋を架けることにしたのです。
さらにその後に土橋から十二軒丁へ通じる道を作った。これは切通と呼ばれる。(切通:切通しとは、山や丘などを掘削し、人馬の交通を行えるようにした道である。Wikipediaより)
しかしこれらの道は現在のそれとは異なっています。
土橋が造られた当初そこへ通じる道は現在のようにクランク状ではなく緩やかなカーブを描きながら現在の土橋通へと繋がる。だから土橋通なのです!

【*寛文4年(1664)の城下絵図】
土橋通や切通、そしてまだこの頃存在しない淀橋など幾つか時代とともに変遷を遂げて現在に至っているのです。
へくり沢が開渠になって広瀬川にそそぐ


コメント (0件)

コメントする 

オンラインショッピング カートの中身を見る