仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

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特別展「おやつ~今や昔の甘味事情~」

2013/3/27

平成24年11月17日(土)~平成25年4月14日(日)まで仙台歴史民俗資料館にて特別展「おやつ~今や昔の甘味事情~」という展示がされています。
その期間中のイベントとして茶話会「仙台駄菓子のお話~菓子職人さんを囲んで~」が3月23日に行われました。
今回熊谷屋の職人として私が呼ばれたわけですが、なんと参加者の皆さんは20名も来てくださいました。
中には虎屋文庫の方もいらっしゃいまして、びっくりしました。
会は熊谷屋の仙台駄菓子を8種類ほど資料館側で用意していただきそれらをお茶と一緒につまみながら話を聞くスタイルで、私は学芸員の畑井さんと会話形式でお話を進めていきました。
ちなみにその際に出た仙台駄菓子は「うさぎ玉」「うめぼし」「ゆびわ」「ハッカ」「黄金」「こうせん」「黒パン」「しぐれねじり」。
このように皆さんの前で講話をするのは不慣れではありましたが、学芸員の畑井さんの進行のおかげで楽しく過ごすことができました。



途中参加者の方々からいくつか質問もいただき、中には昔購入したささらあめを今も大切に冷凍庫で保管していらっしゃるという方もおられました。大変うれしい限りです。
企画展示物についてはあとでゆっくりと見に行きます。
4月14日まで行われているのでみなさんもぜひ見に行ってください。

 


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仙台の偉人、菅克復って人 知ってます?続き

2013/3/4

以前「仙台の偉人、菅克復って人 知ってます?」というタイトルで書きましたが、
菅克復の屋敷はもともと北三番丁にあったという。
その詳しい場所を三居沢電気百年館の館長さんに尋ねたところ後日電話で教えてくださいました。
そこは現在の青葉区支倉町三丁目、大学病院の近くの仙台市交通局のバスプールがあるところの先の角あたりだったそうです。
ほぉ、そうだったのかぁ。念のためにうちにあったゼンリンの地図(97年版)で確認したら、
なんとそこの場所に「菅節蔵」さんというお名前が!
館長さんによると以前、菅克復さんの子孫であるという方がお見えになられて現在は札幌に住んでいるとか…。
地図は97年版なので現在その場所は大きなマンションが立っています。
もしかしたらこの人が札幌に引っ越したのかなぁ。想像は膨らみます。
市民会館から交通局を通り大学病院に突き当たるこの通りは、市電が開通するまで道は通っていなかったそうです。
写真の地図を見るとその道路を作るために敷地が削られたとして、昔はもっと東西に広い敷地だったのではないでしょうか。だって、自分の屋敷内に家内工業の機織り工場を作っちゃうんですからね。

よく見ると菅アパートなんていうのもありました。もしかしてこれも関係してるのかも…
あくまで想像ですが。

 


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コメント (1件)

  1. admin より:

    菅克復さんのお孫さんがお店にいらして、菅克復の菅と管の間違いを指摘してくださいました。
    残念ながらその時私はお会いできなかったのでもしこのコメントをご覧になりましたら、ご連絡をいただくかまたお越しいただきたいと願っています。いろいろお話を聞きたいのでよろしくお願いします。

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平成25年出初式

2013/1/11

平成25年1月6日に仙台市の出初式が行われました。
今年は6日が日曜日だったため朝から寒い中、見に行くことができました。
市民広場へ到着するとすでに式は始まっており、ちょうど観覧行進が行われていて各消防団、各隊員等の行進、それから30台の消防車両の行列、そして空にはヘリコプター。
春日町の方から順番を待つ消防車両は市役所前を通り県庁方面へと走っていきましたが、
その際スムーズに車を流すために信号を青のままにしてたようです。


乱入してきたわけじゃありません、バイク隊です


消防音楽隊

春日町方面よりぞくぞくと消防車両が

県庁方面へと抜けていきます


その後は仙台市長の式辞、表彰、祝辞とが続き、
消防音楽隊とカラーガード隊のドリル演技が披露されました。
(余談ですがカラーガードっていうんですね旗を振って舞うの。それとドリルという言葉初めてしりました。楽隊と演舞が交わるからドリルなんですかね…)


そしていよいよ待ってました、伝統階子乗り!
(またしても余談ですが「はしご」と普通にキーボードで打つと「梯子」と変換されますが「階子」と表記するのはなにかこだわりがあるんでしょうね)
階子の下方、上段・中段・下段に分かれてそれぞれの隊員たちが鉤のついた道具で支える。
たったこれだけで階子の上でのさまざまな動きを支えているなんてすごい!


見事なポーズ!



火の用心

市役所に戻り、建物の上からレスキュー隊員の訓練の一環としてのロープで上階から降りてくるところを披露。
シャッターチャンスを狙ってのんびり構えていたら、あっというまに下までスルスルッと降りてしまいました(笑)

そして圧巻の放水車と隊員による一斉放水!
(やっぱり写真で見るのと目の前で見るのとでは迫力が違いますねぇ)

(気が付いたら写真213枚も撮っていました!)

出初式の由来

 明治27年5月、明治10年以来の町火消が生まれ変わり、新しい組織として180人の公設消防組織が仙台に設置されました。
 翌年1月4日、宮城県庁前において、消防組員の心意気を示すと同時に、士気を鼓舞し、一年間の安全と奮闘を誓い合う目的で、仙台消防組出初式が初めて行われました。
 その後、ある時は広瀬川両岸で、青葉通あるいは定禅寺通で、西公園でと場所を変更して行われましたが、昭和40年代に入ってからは市役所前で行われることが恒例となり、現在に至っています。

<補足>
しかしながら伝統階子乗りは後継者不足を理由に一時期途絶えてしまいました。そして再び昔の古き伝統を復活させようという気運が高まり、ちょうど青葉祭りが再開された昭和60年頃から伝統階子乗りも同じく再開されたそうです。
やはり実際見て感じましたが良いものは残していくべきだと思いました。写真や映像では伝わらない心意気が感じられます。

 


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伝統的な門松

2013/1/2

あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いします
さてお正月飾りの一つと言えば門松ですが、よく見かけるのお正月の門松は下の方に松があって真ん中にど〜んと竹が立っているのが普通ですね。たまに梅があったりして…。
そしてその竹は斜めに切られて節が見え、ちょうどそこが笑ったように見える。
この竹は寸胴型で真横に切ったものもある。
斜めに切ったものは「そぎ」と呼ばれ徳川家康が始めたもの。三方ケ原の戦いで家康が敗北後、この次は武田信玄を斬ってやるという意味を込めて作らせたとか。
ということは昔の門松はどういうものだったのか?
江戸では竹の部分が根元からそのまま先端まで挿してあり建物の二階くらいまでの高さだったそうです。
またこれは地域によっても多少異なる形をしていたのでしょう。
仙台は伊達の門松はどういうものだったのでしょうか。
今年はこれが文学館と瑞鳳殿、そしてレプリカを博物館、榴岡の歴史民俗資料館で見ることができるんです。
私は一足先に年末に文学館に行って見て来ました。

シンプルですが迫力を感じられます。
ちなみに瑞鳳殿のはもう少し高さがありそうです。

しめ縄の部分

土台の部分

わかりづらいですが栗の木を軸にしていて、そこに大きな松の枝と3mほどの竹笹を結わえてあります。

1960年辺りまではわずかにこのような門松が残っていたそうです。
これらの材料は泉区根白石の農家8軒が毎年献上していたとのことだ。
瑞鳳殿の門松(読売新聞より)

 


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仙台の大晦日は年取り魚にナメタガレイを食べる

2012/12/29

仙台では大晦日の夜に子孫繁栄に縁起が良いと子持ちのナメタガレイの煮つけを食べる風習があります。
ナメタガレイは北海道ではババガレイと呼ばれ、南の方ではインドガレイとも呼ばれるそうです。
昔から大晦日になると食卓に出ていたので、そう不思議にも思わなかったのですが、他の地方の方から見ると不思議に映るようです。
とは言っても地方によってはまた異なる年取り魚があるみたいです。
仙台人としてはあたりまえのナメタガレイ、ではいつごろから食べられるようになったのでしょうか?
実は江戸時代から戦前にかけて、仙台の正月の魚(年取り魚)はタラだったのです。
意外でした!
正月に向けてタラが出回らないことを心配し、調査を命じた伊達政宗の手紙が残っているそうです。
また、戦前の仙台の年中行事に関して「正月にタラ汁は欠かせない」と記した文献も残っているそうです。
(仙台城下「町人列伝」参照)
それではなぜタラからナメタガレイに変わったのでしょうか?
明治三陸地震(1896年-明治29年)の影響で、ナメタガレイが大量に取れるようになり、庶民が食べる年取り魚として定着した。商家では大みそかは忙しくて魚を焼いている余裕はないので、冷めてもおいしいナメタの煮魚が重宝されるようになった(朝日新聞より)ということだそうだ。
ふ~ん、意外と最近なんだぁ!?
それともう一つ、正月の御雑煮に欠かせないのが焼きハゼの出汁。
これも明治以降に広まったそうです、とはいえ江戸時代の仙台城では食されていたようで他に干し鮑や干し海鼠、伊勢海老と豪華な食材を使用した雑煮だったようです。
当然庶民にはまねのできないことで、せめて焼きハゼの出汁だけでもということで少しずつ広まっていったのかも知れませんね。
いずれにせよ、風習は歴史とともに変化していくんですね。
ナメタガレイも焼きハゼもじゅうぶん歴史はあります、このような風習は続けていきたいですね。
そしてなぜそうなのかを知るのも大事だと思います。

 


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北山の羽黒神社と青葉山の名の由来

2012/12/10

伊達政宗が築城した仙台城のある青葉山。
青葉山という名は実は現在北山にある羽黒神社と関係しているのです。
お話に入る前に言葉の意味を確認しておきましょう。
別当寺(べっとうじ):神社を管理するために置かれた寺のこと。
神社と寺がセットなんて変ですね、これは神仏習合が許されていた、つまり土着の信仰と仏教の良いところをとって新たに作り上げた信仰が一般的だった時代の話です。
政宗が仙台城を築城の際、
慶長七年(1602)残月亭の南脇、本丸と二の丸の間(植物園内)に、羽黒神社と別当寺(青葉山)・寂光寺(じゃっこうじ)が建立された。
慶長5年(1600)の松川の戦いにて上杉景勝と伊達政宗が戦った際、福島の信夫山(しのぶやま)にて寂光寺の法印慶印が劣勢に立たされた政宗を寺にかくまい、夜半に裏手から仙台に帰えらせたといわれている。
その後寺は焼き払われ、山伏や宮人は政宗とともに仙台へ移り住んだ、
このとき、仙台城の前身地に青葉山寂光院・羽黒大権現を移したのです。
この「青葉山」は「せいようざん」と読み寂光寺の山号であった、この山号より名をとって
「青葉山(あおばやま)」と称すようになったと言われてい
ます。

その後寛永15年(1638)二の丸が造営されるころまでその地にあり、羽黒神社とともに北山に移転した。
北山に寂光寺が移転したのは慶長7年という記載が多いが寛永15年あたりのほうが年数的にも妥当と筆者は考える
昔の地図にある(北山移転後の)寂光寺。右端は輪王寺でその脇の古海道は中山街道または秀衡街道と呼ばれ現在の北四番丁大衡線の一部分です。

現在の地図(寂光寺があった場所:詳細はわからないので想像です)

(クリックして拡大)
現在では羽黒神社のみ残っています。

 


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  1. 横田や・横田 より:

    「寂光寺」検索していましたら出会いました。
    最近、寂光寺の参道がわかりました。横田や斜め向かいのピンク色のマンションが建っているところ。その北側に現在細い道がありますが(羽黒神社の脇までクランクして登る)その東側に立っている住宅1件分が元参道だったところと、むかしから参道わきに住んでいた方(90歳ぐらい)に1昨年聞きました。
    私も、今のクランクした道が参道の一部と思い込んでいましたが、まったくその東側だったとは・・。そう聞いてから見ると確かに今立っている住宅は、参道の上に立っているように見えてきます。

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「四ツ谷用水遺構を歩いて辿る会」その5

2012/10/24

今回の最終地点である六幽庵に到着しました。 庭園を初めて拝見しましたがなかなか広いんですね。そりゃそうです、もと島田市長が住んでいたところで、当時二中の校舎から庭が見えてましたから、だいたいの広さはわかっていました。 ここからは六幽庵の建物内に入ります。 中はこのようになっているんですね。 ここで昼食をとり、 そのあと、みんなで四ッ谷用水かるたなるものでかるた大会をしました。 みなさん真剣で早い早い!ほとんど獲れませんでした。(汗) その中の一枚。 北六番丁と通町の交差点あたりの写真で用水の上に交番が建っているという不思議な写真。へぇ~! 写真が横向きで見にくいですが、小さい小屋がそれです。 このあと仙台・水の文化研究会の会長さんのお話と 仙台リバースネット・梅田川の方のお話を聞きました。 今回参加してみて、今まで聞きたかったことを質問することができ、 また新たに知ったこともありましたが、 帰ってきてさらに聞きたいことが増えました。 またこういった催しがあればぜひ参加したいです。 ところで、現在四ッ谷用水は工業用水として使用されていますが、 実は仙台キリンビール工場で使用している水は四ッ谷用水のものだそうです。 その水を浄化してビールを造っているそうです。 知らないうちに私たちは四ッ谷用水とかかわっているのですね。 今回歩いたコース(地図をクリック) 最後に一緒に同行した方も記事を載せていましたので紹介します。 私のと比べるとかなりしっかり書かれていますね(汗) →「たまきさんBlog」


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「四ツ谷用水遺構を歩いて辿る会」その4

2012/10/24

さていよいよ北六番丁通へと入っていきます。 ただまだ四ッ谷用水は通りの上を通っています。 写真がアップ過ぎてどこの場所かわかりにくいですが、林宅寺の山門前の橋の横です。 この先をもう少し行くと、マンションの前でついに北六番丁通りと合流します。 マンション前のコスモスが咲いている場所の下を通っています。 そしてごみ集積所の後ろを通って、自販機の裏を通ってここで合流します。 ここは歯学部の裏にある四ッ谷用水の支流のひとつ支倉掘の遺構が残っているところです。 現在は大学病院の敷地になっていますが、昔は支倉通が通っていました。 そしてこの堀を背にして見るとその先の支倉通へと流れは北上していきます。 ここは珍しく逆方向へ流れていました。 そしてその遺構の名残が今でも確認できます。 左側の塀の下部の石垣が四ッ谷用水のものです。知らなかった! ちなみに第二支流は木町通を南下し、 第三支流は通町から国分町へと流れていました。


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「四ツ谷用水遺構を歩いて辿る会」その3

2012/10/24

春日神社前にある昭和15年当時の絵を見て説明する阿部さん。 ここから四ッ谷用水を先に進むとほどなく 四ッ谷用水の洗い場跡があります。 当時の階段状の石段がはっきりと残っています。 さらに進み土橋通を曲がります。 この通りは第一支流となり、下の本の表紙の写真は当時の同じ場所で右側がそれに当たります。(ちなみに自転車を置いて用水で何かしてる人は刃物の研ぎ屋さんで研いだ刃を濯いでるところだそうです) そしてここ 宮城県看護研修センターの真ん中にある松が当時から唯一残る松の木、一本だそうです。 ちょうどさきほどの昭和15年当時の絵に描かれていた池のある場所です。 【参照】春日神社前にある昭和15年当時の絵 ※先日のNHKの放送で使われたものと絵が違うようなのでもう一つ原画があるのでしょうか、絵はお堂の中に納められてるそうです) 第一支流跡(この先曲がって土橋通を行く) ちなみに土橋通と北六番丁通りの交差点の角にある建物はバイオテクノロジーを扱う立派な会社ですが当時は染織工場があって用水の水を使用していたそうです。


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「四ツ谷用水遺構を歩いて辿る会」その2

2012/10/24

四ッ谷用水の上を歩いていきます。 コンクリートの線が四ッ谷用水です。(赤いジャンバーの人が歩いているところ) 北山丘陵にそって四ッ谷用水が流れているのがわかります。 我々が歩いている道と右のアパートの間の溝を流れています。 電柱脇の白い棒は「四ッ谷の水を街並みに!」市民の会が立てた標柱です。 石切橋近くの瀬田谷不動尊(石尊神社)、この裏を流れています。 この神社では昔 お祭りではねこ踊りというのが踊られていてこれが現在の雀踊りの原点だと言われています。 またここは石職人の町で城の築城はもちろん、四ッ谷用水の建設にも大きくかかわっていると思われます。 この石橋(石切橋)はへくり沢に架かっていた橋です。


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