仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

タグ:歴史

へくり沢(1)~土橋通りの土橋ってドコ?

2013/9/26

土橋通とは厚生病院の西側から国道48号線を横切り北西へ続く道。
仙台では○○通とは○○に通ずる道という意味。では土橋とはどこを指すのか?
土橋とは澱橋へ向かう道の尚絅学院高校の少し手前の道を指します。この部分はよく見ると通りの両端が崖のようになっていて、尚絅学院高校の裏へと続いている。東側の下方には住宅がある。
これは昔へくり沢という深い沢があって、それを越えるために昔の人が樋を通し土手を盛って作った橋が土橋なのです。

あぁ なるほど…って
いや待てよ、しかしながら土橋通は厚生病院の西側で北三番丁にぶつかると鋭角なクランクがあってから土橋へと続く。しかも北三番丁からさらに続く道に対し丁字に土橋からの道がぶつかっている。

とても土橋通が土橋へと素直に至る道とは思えません。さすがに無理がありますよねぇ。
そんな折、先日、柏木市民センターで「へくり沢を訪ねて」へくり沢-歴史な話と題して仙台市史編さん室の菅野正道さんを講師に迎えて講座が開かれたので参加して、その中でへくり沢と土橋についてお話を聞く機会がありました。


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仙台で造った貨幣

2013/8/23

たまたま花壇川前丁で見つけた銭形不動尊



堤防の側面にへばりついたように祀ってある不思議な不動尊、説明を読むと…
銭形不動尊について
藩祖政宗公が仙台藩のお金(仙台通宝)をつくるときどんな型にしようと考えていました。そのとき、お不動様が現れてこんな型にした方が良いと教えてくれましたのでその型を石に彫って鋳型を作ったとのことです。
 その後、その鋳型が不要になったので反対側の面にお不動様を彫りました。そして青葉山の見える花壇にお宮をつくって祀りました。大正十年頃までお宮がありましたが、その後、壊れてお宮は川に流され、お不動様は川に落ちてしまいました。
 その後、広瀬川の堤防を作る時、川から引き上げ、花壇川前丁の現在の場所に安置しました。石垣に張りついたようになっているので鋳型は見ることはできません。
 なお、上流の常盤丁の不動尊付近(現市民会館周辺)で水害その他のたびに人命を失うことが多く、反対に銭形不動尊付近では流れ着いた人を救い上げたり、水難者を引き上げるなどが多いことから、銭形不動尊は「人助け不動」と呼ばれ、信心する人が参詣に訪れます。

なるほどこのお不動様の石碑の裏は仙台通宝に使われた鋳型だったのか。
仙台通宝、すなわち熊谷屋の商品としてもある「仙臺鐵銭(せんだいてっせん)」であるので少々調べてみました。

江戸時代初期の貨幣
中国の貨幣(永楽通宝)を輸入使用
寛永13年(1636年)通貨の統一をし、国産の銭貨を鋳造した。
→以後、「寛永通宝」の名称が定着
寛永14年(1637年)銭座(ぜにざ)を拡大
主な鋳造場は3か所 江戸浅草橋場 芝網縄手 近江坂本(大津)
であったが、
標準貨幣となる寛永通宝を増産するため全国8カ所に銭貨の鋳造(ちゅうぞう)が許される
水戸藩 仙台藩 松本藩(信州) 三河吉田藩(愛知)髙田藩(上越市)
岡山藩 長州藩(山口) 岡藩(大分県竹田)
※仙台はこの当時栗原郡三迫で鋳造していたが詳しいことは不明

寛永17年 銭貨がじゅうぶん普及したため銭座をいったん停止した
(しばらく造られていなかった)
◆伊達吉村公の代
四代綱村の改革による財政逼迫を改善するため藩政改革を行う。
その一つとして
享保12年(1727~1730年 享保年間)
領内産、銅貨に限り幕府の許可を得、享保13年(1728年)石巻で鋳造を始める
1739~1742年(元文・寛保年間)銅一文銭
これより石巻の鋳銭場に移り鋳造(水運に恵まれていて原料や燃料を集めやすかったため)
裏面に鋳造した地域を表す「仙」または「千」の文字が入っている(すべてではない)。
当初は銅一文銭だったが、仙台藩で鉄が豊富に産出できたこともあり鉄一文銭に変わる。
石巻の鋳銭場は現在でも地名に残されており、鋳銭場跡としてお堂もある。鋳造に使われた「甑炉型鋳銭釜 (こしきろがたいせんがま)」は現在塩釜神社にある。

◆伊達重村公の代
1764~1772年(明和年間)鉄一文銭
1775~1779年(安永年間)鉄一文銭
1784~1789年(天明年間)
天明の飢饉に際し藩財政の逼迫を立て直すために幕府に再び願い、鋳造の許しを得た。
明和年間に鋳造した銭貨が多すぎたことにより通貨の下落したことをふまえて名称と形を変え領内通用に限られた、5年間の鋳造期限付き。
名称:仙台通宝
形状:鉄一文銭通用銭 四角くて角が丸く中央に四角形の孔が開けられている。
初期のものは大型で次第に小型化した。「大様」「中様」「小様」の三つに分類される。
飢饉救済の名目で造られたが実際は正貨である銅貨を吸い上げ藩政を潤すためであった。
仙台通宝は質が悪く鉄のため錆びやすく、財布や袂がほころんだり、怪我をしたりした。
悪貨なためインフレを招き領外にも流出したため5年の期限を待たずに終了した。
これがいわゆる「仙臺鐵銭(せんだいてっせん)」であるが、悪貨であったとは…。
しかしながら寛永通宝などの丸い形ではなく角の無い四角(撫角銭と呼ばれた)という特徴的な形だけはおもしろいと思う。また「仙台通宝」と地名がはっきり銭貨に刻まれているものも珍しいだろう。
花壇川前丁にある銭形不動尊は残念ながら仙台通宝とは直接関係ないかもしれません、時代が異なりますね、もしかしたら政宗公ではなく重村公のことだったのかも。でも、伝説としてそっとしてあげたいものです。
その後も寛永通宝のみとなるが断続的に明治維新まで造られた。
1838~1841年 鉄一文銭(天保年間)
1859~1869年 鉄一文銭(幕末)
※年号は主に七十七銀行金融史料館「石巻鋳銭場」鋳銭年表より
参考までに鋳銭工程を簡単ではありますが説明します。
種銭引:砂の上に種銭を並べ、鋳型をつくる
形踏:種銭を挟み込んだまま表裏の型枠を合わせ踏み固め、種銭や銅を流すための道となる棹を置き、砂の方に写し取る
湯道切:鋳型に写し取られた銭と棹の間をつなぎ、溶かした銅(湯)が流れる道(湯道)を作る
種籠入:母銭の回収する
火手松篝:出来上がった鋳型を松根油で炙り、鋳型を乾燥させ強化させる
形〆:鋳型が崩れないように表裏を合わせて固定する
甑(こしき):鋳型に流すための銅(湯)を溶かす
湯次:表裏2枚一組の鋳型を立てて固定し、上から溶かした銅を流し込む。堂は湯道を通って、各鋳型へ流れ、しばらくすると冷えて固まる
鋳出銭:鋳型から枝状につながった銭貨を取り出す
台摺:鋳型から取り出した銭貨の側面を削って形を整える
目戸切:銭貨の中の孔の部分の鋳バリを削り取り、四角の穴に整える
床焼:古墨と油で銭を煮る
形打:??
平研:銭貨を並べ、表裏を砥石で磨いて滑らかにする
丸目:側面の周囲を砥石で磨いて滑らかにする
臼踏:梅酢による処理
銭洗:銭貨を水洗いする
露取:乾かして水分を取る
↑この中にある甑(こしき)は塩竈神社に行くと現物を見ることができます。


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コメント (2件)

  1. kumagai-ya より:

    SECRET: 0
    PASS:
    返事が遅くなり申し訳ありません。なにげにこのブログコメント第一号でした!!

    お褒めの言葉とてもうれしく思います。ギリギリ買えてよかったです。
    今後とも熊谷屋のくるみゆべしをよろしくお願いします。(^^)

  2. さなえ88 より:

    SECRET: 0
    PASS:
    仙台空港で数あるゆべしの中から直感で熊谷屋さんのを購入。

    ゆべし好きで今まで色々食べてきましたが同じく大好きな母と「今まで食べたのはゆべしじゃない!もっちり感、くるみの量、適度な甘さや香ばしい醤油の風味が相まって絶品唯一無二のゆべし」と感動しました。

    今回仙台駅に参りましたので帰路に着く前駅で探したのですが見つからず。新幹線時間も迫るしもう無理だと諦めかけたら、エスパル地下にあると親切な市民の方が。
    爆走し本日15個無事に買うことが出来ました。新幹線もギリギリセーフ。
    熊谷屋さんのゆべし素晴らしい味です。丁寧な味づくりを大切にされて下さい。

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どこコレ?–おしえてください昭和のセンダイ

2013/8/10

「どこコレ?–おしえてください昭和のセンダイ」
せんだいメディアテーク7階南側ラウンジで7月20日(土)から8月25日(日)まで展示されている昔の仙台の街の写真。


市民が撮った写真なのですが、ずいぶん昔のことなので撮った本人もその写真がどこを撮ったのかわからなくなっている。貴重な当時の資料ですがどこなのかわからなければ意味がありません。そこで他の市民の記憶を借りて場所を特定しようという試みです。
1月にも行われ今回は第2弾ということで、前回確定したものも展示されています。
あまり特徴の場所の街並みを撮った写真なので、本当に地元(近所)の人しかわからないような写真がほとんど。
熊谷屋からも何枚か写真を提供いたしました。
ぜひ足を運んでお力をお貸しください!


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荒町の魅力

2013/6/21

先日、仙台市歴史民俗資料館主催の『小さな旅 見学「荒町界隈を旅しよう」』に参加してきました。
開始時は雨が降っており移動も傘をさしての移動。

まず最初は「森民酒造」さんへお邪魔しました。(お休みの日にもかかわらずご主人が案内してくれました)


森民酒造さんは勝山さん、天賞さんが郊外へ移転した現在唯一城下町に残る造り酒屋なのだそうです。
それにしてもこんな街中に今もあるということが不思議でしたが、ご主人のお話を聞くととても納得のいくものでした。
もともと荒町は御譜代町の一つで、本荒町(現在の一番町二丁目、元仙台 エクセルホテル東急のあたり)にあったものが現在の場所に移ったそうです。
ちなみに御譜代町とは大町など6町あり、伊達家に従い伊達郡、米沢、岩出山と経由して仙台に移ってきました。
ではなぜ本荒町から現在の荒町へ移ったのかというと、荒町には麹を作る役割があり本荒町という土地は水質が麹を作るのに向かなかったため水質の良い現在の場所へ移ったという説があるそうです。確かに荒町には孫兵衛堀(川村孫兵衛重吉は四ッ谷用水の建設にもかかわった人物)が流れており、また地名にも清水小路とあるように水源が豊富だったことがうかがえます。染師町があるのも納得、昔は孫兵衛堀で染物をしている風景が見れたそうです。
もちろん酒造りには川の水を使うのではなく地下深くより汲み上げた井戸水(この水は山からしみ込んだものが40~50年かかって濾過されたものだそうだ)を使っておいしいお酒を造っているのだそうです。伊達政宗はお酒をこよなく愛していた人ですからね、力の入れ方も相当なものだったでしょう。
森民酒造さんの建物自体は創業前からのものでもともと麹屋さんの建物だったそうでかなり古いそうです。
柱や梁には菌がびっしり着いているのでしょうね。

次に向かったのが森民酒造さんの裏手にある昌傳庵と仏眼時

二つのお寺は荒町公園でつながっており、車通りの激しい表通りから少し奥へ入っただけで何とも静かで緑豊かな別の土地に来た気分になります。(奥に見える緑が生茂っているところは森民酒造さんの酒蔵)

荒町はこのあと訪れる奏心院、満福寺…とけっこうお寺あるんですね。表の通からはなかなかわかりませんが、ちょっと奥に入るとたくさんのお寺があり、荒町はお寺の町でもあるんですね。これも新たな発見でした。
荒町のメインストリートはかつての奥州街道で町人の町、昔の地割(間口6間奥行25間 うちもそうですが)の名残が(写真左側)今でもうかがうことができます。さらには(写真右側)時代とともに半分の3間になった土地も多くあるそうです。

次に向かったのが「佐藤麹味噌醤油店」さん。
先に述べたようにここらへん一帯は麹屋さんがもともと多かった、最近まで2件残っていたそうですが、銭形屋さんが店を閉め、現在残っているのが佐藤麹味噌醤油店さん。
佐藤麹味噌醤油店さんは米沢、岩出山と御譜代町とともに移り住んだところで大変歴史のあるところです。
たくさんの麹屋さんがひしめき合っていた中それぞれが競合しなかったのか?という素朴な疑問。
店ごとに担当の地域を決めていたそうで、佐藤麹味噌醤油店さんの場合は六郷と七郷方面だったそうです。

明治35年に酒税法が施行されると一般の家庭ではお酒を造ることができなくなり、それ以降は麹の需要が減り味噌造りの方に力を入れるようになったとか。
また店舗脇にはレールが敷いてありトロッコに載せ重い材料を60mある奥の工場まで押して運んでいるそうです。

次に訪れたのは仙台箪笥の「門間箪笥店」。
中には入りませんでしたが中庭を見学しました。建物も裏の作業場もとても古く年季の入って箪笥ともどもいい仕事しているなという印象を受けました。現在も若い人から年配の人まで一人前の指物職人目指して頑張っているそうです。

そんな創業当時から変わらぬ場所で商売をしてきた門間箪笥店さんですが、道路整備事業で建物が危機に立たされているそうです。
建物は平成14年国の登録文化財に指定されたのにどうするんだろ。
あの高架の先(手前)が建物の脇に来るのですがさらに高架の脇にスペースを取らなければならず、その範囲に建物一部が重なるそうです。仙台市もなんとかしてほしいものです。

門間箪笥さんから移動して泰心院の前まで来ました。
ここの山門はなんと仙台藩の藩校である養賢堂(現県庁あたり)の門が移築されたものなのです。
屋根の上部には三引両と九曜紋が施されています。初めて見ましたがかなり大きく存在感のあるものです。昔の人はこんな立派なものをよく作ったものだなぁと感心するとともに、それが今なお現存していることに感動しました。

なぜここに移築したのかという記録はまったく残っていないそうです。戊辰戦争のころこの門が払い下げになっていたという事実だけが確認されるとのことで、旧藩の物を保存するという行為があまり公になっては困るということで記録を残さなかったのではないかとも推測されるとか…。
さらに次に向かったのは荒町で忘れてはならない毘沙門堂
ここには北目城から移ってきた毘沙門天が祀られています…ということは知っていたのですが、
ここで相撲が行われていたのは知りませんでした。かの有名な仙台が誇る横綱谷風もここで相撲をとっていたそうです。ちなみに谷風は当時近くの七郷掘りの泥さらいをしていたところ巡業に来ていた相撲部屋にスカウトされたのがきかっけだそうです。堀の掃除をしている姿を見て屈強な青年がいると。
また昔からここは人の往来が多くコミュニケーションをとるのに最適な場所だったようで
「奇縁二天石(きえんにてんせき)」という石碑が建てられました。
よく見ると後ろに「たつぬる方」表に「をしゆる方」と書かれています。
これは尋ねる方が求人の張り紙を貼り、教える方が(こういう人いるよと)情報を貼るといった具合に使っていたそうです。それだけ人の往来が多かったということで、大正時代には仙台で最初の数少ない公衆電話がここに設置されたことからも想像できます。

最後に向かったところは…
七郷掘りから六郷掘りへと分岐するところを見ながら

舟丁にあるしだれ桜の綺麗な駄菓子屋さんへ行きました。

ここでは工場のうらにある史料館を見せていただきました。(ここは一般の方でもお店の人に声をかければ見ることができます。)

その中にある「熊谷屋」

雨も最初だけでだんだん日が差し、終わるころには暑くてたまらないくらいでした。
今回荒町をあるいて荒町の存在自体の歴史がとてもよくわかりました。そして講師をなさって下さった西大立目祥子さんの町の歴史に対する思いもすごく感じ取れとても勉強になりかつ楽しい一日でした。
<参考:西大立目祥子さんの著書>

帰りに、見学したお店のお味噌とお酒を買っていこうかと思いましたが、森民酒造さんは土曜日お休みで閉まってしまいました。でも同じ荒町の通りにあるお酒の種類が充実した及川酒店で購入できましたよ。
今回の荒町さんぽのルート


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盡忠(じんちゅう) 伊達安芸宗重と涌谷要害

2013/6/1

伊達安芸という人物は伊達騒動(寛文事件)の中心的人物で、伊達兵部宗勝と争い最終的に兵部派の原田甲斐の乱心により殺害された。 今回、涌谷町立史料館にて伊達安芸ゆかりの品を5月末まで特別展示しているというので行ってみました。 まずは伊達宗重公祀り神号を赤心猛雄命と称する涌谷神社を拝観。 伊達安芸宗重公胸像 一応、涌谷町立史料館と読みます… 涌谷町立史料館は涌谷伊達家の城跡にある天守閣を模した建物で… 隣には仙台藩に残る貴重な天保4年(1833)建立の鼓楼建築の櫓があります。 あとから知ったのですが、涌谷町立史料館は震災で旧館していて今年4月15日に再開館したばかりだったそうです。 史料館に入り目当てのものは2階にありました。 それは「盡忠」の掛軸と銘舎利容器。 「盡忠」の掛軸は伊達安芸の死後、伊達家四代目綱村が宗重公の忠勤を讃え自らの筆で書いたもの。 写真では見たことありましたが本物を目の前にして何とも言えぬ感動です。 寛文事件の集約がこの二文字に表れているようにすら感じました。 そしてさらにもう一つ、 宗重の分骨した遺灰を収めたとされる香炉および曲げ物の容器。 これは震災の影響で見龍院にある涌谷伊達家墓所の門脇に立つ石造五重塔がずれたため平成24年7月に修復するのに解体したところ内部から偶然発見されたものだそうです。 とても綺麗な状態で保存されています。 その他にも史料館には畳4〜5畳くらいはある当時の領地を記した地図があり、とても見応えのあるもので、現在の仙台市内の地名も当時は村であったことが伺えます。 この地図は仙台藩全領土が描かれており北は岩手県水沢辺りまで載っていました。 そして寛文事件の発端のひとつとなった桃生郡(登米)の伊達式部と遠田郡(涌谷)の伊達安芸が新田開発の際に領地境を争った名鰭(なびれ)沼がその地図で確認できたのが嬉しかった。 ちなみに3階は展望室になっていて見晴らしが良かったですよ。 感動覚めやらぬまま、次はいよいよ伊達安芸の菩提寺である見龍寺へと向かかいました。 こちらが見龍廟の門です。 そして脇にあるこの五重塔の中から遺灰が見つかったのです。 この塔は伊達安芸宗重の三回忌に建立されたそうですが、本塔は両墓制における参り墓のような役割を担ったものらしいです。三回忌に…、ということはそれまで遺灰をそのために取っておいたのかそれとも建立時に霊屋から取り出したものなのか、どっちだったのだろう。 中も是非見たいなぁと思ったのですがあいにく門は閉まっていました。そして住職さんも留守のよう…。 たまたまお墓参り来ていた方に話を伺うと普段は開けていないが住職さんがいれば開けてくれるとのこと。 遥々来たのに見れなくて残念です。 仕方がないので塀の上から写真だけ撮りました。 どれがどれだかはわかりません…。 今度、また見龍寺に来よう。そして次回こそは見れますように! 涌谷はとてもいい町でした、自然もいいし、町もレトロな感じで良さそうなお店がたくさんありました。 今度、ゆっくり見て回りたいですね。 登米も行きたい、原田甲斐のお墓があるので。
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大きな大きな古時計~仙台駅の時計さ~♪

2013/5/2

中央児童館は平成25年3月31日をもちまして閉館しましたので,本館,子ども文庫,遊戯館,駐車場,野外炊飯場等の施設は御利用になれません。児童遊園は引き続き御利用が可能です。
  宮城県中央児童館は昭和33年に設置されました。昭和40年に現在地(仙台市太白区向山)に新築移転し,平成13年4月,組織改編に伴い,子ども総合センターの附属施設となりました。中央児童館のある向山丘陵近辺は,仙台市野草園から八木山動物公園,青葉城址,青葉山,太白山に連なる一角で,四季折々の風情が楽しめる自然環境のすばらしいところです。

(宮城県ホームページより)

調べ物をしていてたまたま天江富弥氏の童謡詩碑がここにあることを知って、宮城県のホームページ内の中央児童館のページを見てみたら、なんと児童館はすでに平成25年3月に閉館になって建物は取り壊される予定らしいです。

そしてさらにその建物には「なかよしの大時計」というものがあり、
 この時計は,昭和24年から仙台駅舎東北新幹線仙台駅建設工事のため取り壊される昭和47年まで駅正面玄関に掲げられていました。仙台鉄道管理局のご好意で,「よい子たち」にプレゼントされたものです。
 新しく時を刻み始めたこの時計を「なかよしの大時計」と名付け,遊園を訪れる子どもたちの仲間としてだいじにされています。
(宮城県ホームページより)
…ということです。
ここは一度来たことがありましたが、時計のことは知りませんでした。そんな素晴らしいものがここにあったなんて…。
それより、ここが壊されるということはこの時計はどうなるんでしょう。
いてもたってもいられず、もう一度見に行ってきました。(内心、もう工事が始まっていたらどうしようと心配しつつ)
幸いまだ建物と時計は健在でした。


近くで見るととても大きいですね。時代を感じます。
そしてギーッと音を立てて長針の針が時を刻んでいました、今でも動いているというのがなんかとても感動でした!
お分かりでしょうか長針が進んでいるのが。

そしてこの時計はこのあとどうなってしまうんでしょうか?
中央児童館閉館したこともニュースで報じられたのかどうか知りませんが、人知れず歴史的なものがなくなるのはとてもさびしいことです。だれか引き取り手がいるといいんですが。
人知れず…といいますと、先の東日本大震災後に人知れず歴史的建造物が壊されてしまいました。
それは通町の検断屋敷です。とても残念なことです。
先日、塩釜の明治初期の建造物「松亀園」の新聞記事を読んでなおさら思いました。


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城下町 白石

2013/4/18

白石城
あまり下調べする時間がなかったので完全にたんなる観光客として行きましたので、会えて歴史には特に触れずお話します。
平成7年に完全復元された白石城天守閣。
行ったのは4月の中旬、天気がよく 桜も満開で、絶好の花見日和でした。
早めに出発し9時過ぎについたのにもう駐車場はけっこう埋まっていました。
駐車場からはお城へと続く道、城来路(シロクロード)が。(笑)


さっそく天守閣に入った。天守閣内の床は和釘※で打たれ、木が割れないように交互に打たれているのだそうだ。


中の階段は天守閣によくあるように急である。

天守閣からの眺めはいいもんですよ。

みんながお花見をしているあたりが元の本丸跡だったようです。



天守閣をあとにしてミュージアム シアターに向かったが上映時間の都合上諦めました。チケット買って失敗した、上映時間のチェックをしておけばよかったです。

天守閣下の神社へ行ったあと、武家屋敷に向かおうとしましたが、場所がよくわからず遠いのかと思い車で移動しました。
武家屋敷は質素な作りが白石の特徴だそうで、だけどなんだか長閑な雰囲気がとても落ち着きます。




結局武家屋敷までは歩いて行ける距離で、道中お堀が流れていてとてもいい景色。
散歩コースにはとてもいいですね。
ちなみに自転車も貸し出しているのでサイクリングしてみるのもいいですね。

こんなお堀が城の周り、街中を通っているなんて不思議な感じ、仙台の四ツ谷用水もこんな感じだったのかなと思いを馳せてみる。
天守閣、ミュージアムシアター、武家屋敷とセット料金で600円とはとてもお得です。お得すぎます‼
ひととおり見たあと帰る途中、寿丸屋敷※を見つけたので入ってみました。
そこでは「八重の人生を変えた戊辰戦争展」が行われてました。

お昼に温麺を食べようと思いましたがどこもすごい行列で入れませんでした∑(゚Д゚)
ですので、お土産に白石温麺を買って帰りましたよ〜。けっこういろんな種類があるんですね、迷いましたぁ。
とてもいいところですね、気に入りました。また行きたいです。
余談
白石駅前に小十郎プラザがありますが、そこの店員さんに聞いた話では小十郎ファンの集いの場ともなって中には2時間もそこでファン同士で盛り上がっているそうです。
和釘※
一本一本手打ちで仕上げる和釘はの場合は、軸全体に微妙な凹凸が付き鉄を真っ赤に焼き鍛えることで和釘表面に酸化被膜が形成される。これにより木材に打ち込まれた後でも錆びにくくなる。
寿丸屋敷※
明治中期に建てられた豪商の町屋建築

 


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  1. 火造りのうちやま 内山立哉 より:

    初めまして、白石の武家屋敷情報ありがとうございます。
    白石城の和釘を製作しました、新潟県三条市の火造りのうちやまと申します。
    白石城再建後現場確認をさせて頂きましたが、時間がなく、武家屋敷までは見ることが出来ませんでした。
    近いうちに再び訪れたいと思います。

    1. admin より:

      コメントありがとうございます。
      職人さんからいただくとは思っていませんでした。

      見学していろいろボランティアさんの説明を聞くと奥深いですね。勉強になります。
      ぜひ武家屋敷も見に来てください。

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地を這う龍の如き臥龍梅

2013/4/13

先日、北六番丁の臥龍梅を紹介しましたが、今週他の二つの臥龍梅も見てきました。
一つは瑞巌寺の境内にある臥龍梅。
現在修復工事中で直接近くには行けませんが、特別公開中の庫裡の建物の中から見ることができました。残念ながらまだ全然咲いてはいませんでしたが、枝っぷりは見事なもので満開になった臥龍梅はとても立派なものだということは容易に想像できました。

もう一つは桜岡大神宮脇にある臥龍梅で、明治8年(1875年)に分植されたもの。


この他にも若林城(現在の宮城刑務所敷地内)と瑞鳳殿の臥龍梅があります。
宮城刑務所のは普段は見ることができませんが、11月に行われる「矯正展」の際に一般公開されます。(公開時間は決まっています)したがって残念ながら梅の花を見ることはできません、また写真も禁止です。
瑞鳳殿のものは昭和54年(1979)、瑞鳳殿再建を記念して植樹されたもの。

ちなみに臥龍梅とは違いますが、近所の木町通小学校校庭内にある梅の木についても少し紹介します。
樹齢はよくわかりませんが小学校創設以来と考えると明治からあるようです。
毎年立派な花を桜の時期に咲かせるので、一瞬桜かと見間違うほどの咲きっぷりです。
老齢なこの梅の木は倒木の危険性があるということで一度伐採の案が出たそうです。しかしながら樹木医に相談したところ適正な処置をすればあと50年は大丈夫だろうとのことで、これからも咲き続けることができそうです。

 


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平成の大修理 瑞巌寺 ~今だから見れるもの

2013/4/12

瑞巌寺
現在平成の大修理中の瑞巌寺、
建物はシートで覆われているので見ることは出来ません。

(ちなみに政宗はこの二本の松の木の間から中秋の名月を眺めたそうです)
しかしながら、逆にこの時期だからこそ、いやこの時期しか見れないものがあります。
瑞巌寺本堂が見れない分、特別公開されているものが三つもあるんです。
まず一つ、庫裡(庫裏)。
「くり」と読み、禅宗寺院の台所で昭和34年に国宝指定されている。
建物に入ると大きな屋根に沢山の梁がはりめぐらされ吹き抜けのようになっていました。

もう一つは大書院。
さらに奥に進み仮本堂に入ると広がる大書院には御本尊、大位牌、三大開山の木像が特別公開されています。

特に大位牌は身長ほどある本当に大きなもので存在感がすごい。
これが政宗の位牌だと思うとなんとも言えない気持ちになる。
(比較対象物が映り込んでいなくていまひとつ大きさが伝えられないのが残念)

そして陽徳院御霊屋。
陽徳院田村愛姫の墓堂で平成20年に創建当初の豪華絢爛な姿に復元された。
これも普段見ることのできないものです。

その他にも宝物館(余談ですがHOMOTUKANと読むんですね、ずっとHOUBUTUKANだと思っていました)では「国宝本堂解体修理展」が開催されており、取り外された欄間が展示されて豪華絢爛な桃山文化を垣間見ることができる。
また降三世明王像は松島五大堂に安置され33年に1度だけ開扉される秘仏で本来次に公開されるのは2039年、それが今見れるのです。
陽徳院御霊屋から宝物館に抜ける岩のトンネルの上に太い根をしっかりはりつけている巨木は欅の木で樹齢800年の夫婦欅だそうだ。
教えてくれたのは雨の中案内誘導していたおじさん。
瑞巌寺の係りのおじさん、警備のおじさん等はとてもとても親しげにいろいろ教えてくれます。



800年…、へぇ〜通りでものすごく太い幹をしているんだ。私のよく見かける欅は背が高く幹もある程度太いがここまでのものは見たことがない。800年前からずっとここの変化を見てきて、最近ではあの津波も見ていたのだな。
ちなみに山門から受付のある門までの参道周辺の杉の林は向かって左手の方が更地になっていた。津波の塩水で被害を受けたらしい。

あいにくその日は土砂降りでしたが、見に来て良かったです。
そして期間中にもう一度行きたい。今度は晴れた日にゆっくりと見たい。
それに隣の円通寺もおもしろそうだ。
今まで松島はだいたい遊覧船に乗っておしまいだったが、また楽しみが増えた。一日居ても飽きないだろう、いや一日じゃ足りないかもしれない。

 


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臥龍梅咲きました

2013/4/2

臥龍梅:
別名「朝鮮梅」とも呼ばれている。地面に伏臥する様態から「臥龍梅」と呼ばれ、伊達政宗が文禄の役(1593)の際に朝鮮から持ち帰り、仙台城に植えさせた後、隠居所であった若林城(現宮城刑務所)に移植した。他に明治8年に分植された西公園のものと慶長14年(1609)、落慶の時に政宗公自ら手植えした松島の瑞巌寺本堂前のものと3本が
有名。

といっても西公園と瑞巌寺のものは知りませんでした(汗)
その臥龍梅が北六番丁黒沢内科さんの庭にも立派に咲いていました。
上記の梅の種からか分稙したかは定かではありませんがおそらく関係してるものと思います。
黒沢家は大番士三百石だった。

「目で見る仙台の歴史」(仙台市市図録編纂委員会)より

「もう一つの廣瀬川」(佐藤昭典)より
今は建て直して昔の建物の名残はありませんが、臥龍梅は約150年間今ももとの場所にあります。






自転車置き場のところの門から一般の方も見れるようになっているので見頃の時期ぜひ行ってみてください。
ご覧になる際は木の根の周囲の土を踏まないよう注意してください。木が老齢のため根が傷みやすいのだそうです。

 


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コメント (2件)

  1. 吾妻 蒼遥 より:

    伊達正宗帰還の折に持ち帰った臥龍梅、とりわけ隠居所に植えられた臥龍梅(宮城刑務所内)はご覧になられたことがありますか?
    瑞巌寺の臥龍梅は取材しており、なかなかスケールがおおきいものです。

    1. admin より:

      矯正展の際に見に行きました。八方に大きく伸びた枝は通路の方まで及んでいました。刑務所の方の話によると天然記念物なので枝の剪定ができないとおっしゃっていましたが、実際剪定をした方が木のためにも良いのではと思いました。

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