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伊達の御家騒動(仙台市博物館)

2012/5/21

先日の記事で仙台市博物館へ行って「仙台藩の御家騒動 寛文事件を追いかけろ!」という企画展を見てきたことについて書きましたが、御家騒動について少し詳しく述べていきたいと思います。
前記事でもう一度期間中に行きたいと言っていましたが、なんと3回も行ってしまいました。
(一度では見きれませんでした[#IMAGE|S37#])
伊達家御家騒動はいわゆる寛文事件の事をさします。
そしてそれは三代目藩主綱宗の隠居に始まり江戸での刃傷事件で終わります。
今回の企画展のメインの「伊達の黒箱」というものは刃傷事件後の約1ヶ月の事件処理に関する文書が納められた箱の通称。この文書を紐解くことによって真相を究明するという企画展です。
(このなかの文書を見ることによって当時の様子が細かくうかがえます)

寛文事件は綱宗の隠居に始まります。
綱宗は酒や女遊びにふけて放蕩してばかりいたので、家臣より藩政を危ぶむ声が出て
家臣は筑後柳川藩主立花忠茂に相談した。
(立花忠茂は2代目藩主忠宗の娘鍋姫が嫁いだ先だったので伊達藩全体の後見人的な立場だった)
そこで
ダメな藩主を隠居させ次の代の藩主をたてるいわゆる「主君押込め」をした。
(「主君押込め」とは江戸時代の風潮で戦国時代の下剋上のように主君が変わるということはせず藩を守るために次の代に変えるということをしていました。)
幕府に申し立てをして綱宗は病気という建前で隠居させ、
4代目にその息子、亀千代(のちの綱村)をたてることにしました。
しかしながら亀千代はまだ2歳であったため後見人を立てることにしたのです。
その後見人とは伊達兵部宗勝と田村右京宗良のふたり。
兵部は藩祖正宗の十男、右京は2代目忠宗三男。
二人は各々三万石ずつ与えられ内分大名になった。
兵部は一関藩、右京は岩沼藩。
以後、兵部は観察役の目付を重用ししだいに専売をふるうことになった。
その他、伊東七十郎の処刑にみられるように、自分に不利な件に対しては残忍な処罰を与えることが多かった。
このようにして兵部の専売がしだいに藩士からの批判の的になっていった。
一方で伊達一門である伊達安芸(遠田郡)と伊達式部(桃生郡)の間に領地の境界争いが起こり、一時は落ち着いたのだが伊達安芸は納得が行かず、幕府に申し立てをする事になった。
(この時期の領地境界争いは、ちょうど新田開発で土地を切り拓いて田畑を広げていたために起こった争いである。)
この幕府への申し立てを公けにするという事が意味するのは仙台藩に調停能力が無いということを幕府に示すことになり、仙台藩としてはよくないことでありました。
伊達安芸が幕府に申し立てた内容は、
境界争い以外に、
兵部が好き勝手に藩政をとりしきっている、
奉行同士が仲が悪い(ために藩政がうまく機能していない)、
処罰者が増えている(兵部による行きすぎる処罰)、
ということまで訴えています。
(これらの内容はのちに忠義の家臣といわれる所以ですが、裁判に勝つためにいろいろと相手の不利な状況証拠を挙げているようにも思えます。)
裁判の様子(歌舞伎『伽羅先代萩』)

裁判は伊達安芸に有利に進み勝利が決まる寸前(寛文11年3月27日)に原田甲斐が突然乱心して伊達安芸に斬りかかるという刃傷事件が起こった。
その事件で伊達安芸は殺され、同席していた柴田と蜂屋も原田と斬り合いになったが老中酒田家家臣に混乱中三人とも殺された。
同席した中で唯一生き残ったのは古内志摩義如でした。
刃傷事件の様子(歌舞伎『伽羅先代萩』)

その後原田一族は幕府のお膝元で刃傷事件を起こしたということで御家断絶にされ、
兵部は高知へ配流された。
しかし仙台藩主である綱元(綱村)はまだ幼少のため責任は無いとし、
仙台藩自体は御咎め無しとなり
藩は安泰となった。
4月3日にその旨が内諾され、
4月6日に正式に書面にて報告がなされた。
以上、これが伊達の御家騒動になりますが、
この企画展ではそれぞれのその後を追って説明をしていますので興味深いものがあります。
(小学生にもわかりやすく説明したプレートも用意されていました)
6月10日(日)までまだまだ日にちはありますのでぜひ見に行ってみてはいかがでしょうか?
いや仙台人としてはぜひ見るべきだと思います!



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