仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

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DATE BIKE利用してみました!

2013/4/28

天気が良かったので仙台駅から市役所前までバスで移動のところ自転車で移動しました。
そうです、DATE BIKEを初めて利用してみました。
利用するにはまずwebからの会員登録で、必要なのは携帯電話とクレジットカード。
そうすることでキャッシュレスでスマートにDATE BIKEを利用することができるのです。
登録を終えてから、アエルのポート(駐輪場)で自転車を借りました。

携帯でポート別の自転車の番号を選ぶ画面で予約すると、開錠パスコードが表示されます。(予約完了確認メールも受信)

ハンドルの操作パネルの「開始」ボタンを押してパスコードを入力すると開錠され、これで使うことができます。

乗り心地のほうは最初なんかペダルが重いなぁと思ったら、ギアらしきものが…、回してみると軽くなりましたぁ!
つまりギアで変速ができるので楽です。しばらく走っていてコレなんだろうと操作パネルの左の機械のボタンを押してみたらなんと電動アシストでした。初めて体験しましたがこりゃさらに楽チン♫
緩やかな河岸段丘になっている土地を走るにはとっても楽‼

終着は市役所前のポート。駐輪場に戻し施錠して操作パネルの「終了」ボタンを押して完了。
返却確認メールを受信します。


ちなみに途中コンビニなどに停める時には施錠してまた乗る時に「開始」ボタンを押してパスコードを入力します。
利用料金は60分以内100円。
100円パッ区内を走るもよし、観光に使うもよし。
もっともっとPRしたほうがみんな活用すると思うんですけど。
あとスマホからの画面のボタンが密集しているので押し辛く、また時たまサイトが重くなるのを改善してくれるとさらに使いやすいなぁ。
これから利用者が増えてポートが増えたら嬉しいな。
みなさんもぜひ登録して利用してみてくださいね!

 


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政宗歴史塾

2012/8/4

8月3日
瑞鳳殿にて政宗歴史塾なるものが開催されました。
こういった会はたしか3~4回目で一般者を対象にしたのは今回が初めてだとか。
(これまでは子供たちを対象に歴史に親しんでほしいという趣旨だったようだ)
そして今回は定員30名で抽選の結果ラッキーなことに選考され参加してきました。

10:00から始まり最初の一時間は瑞鳳殿に併設されている旅館 天龍閣で講義を聴き、
残りの一時間は涅槃門から瑞鳳殿まで移動しながらいろいろと説明を聴きました。
講義の題名は
「伊達政宗 最期の日々を追う」と題し、亡くなるまでの約5ヶ月間(寛永13年1月~5月)の行動や言動について紹介しそこから政宗はどんな人物だったのかというのを知りました。
自己の健康管理には人一倍気を遣っていた政宗だったがいよいよもって己の死期が近づいたことを悟ると周囲の家臣をいたわりながらも息子忠宗の代になっても引き続き盛り立ててほしいと頼んでいた。
また徳川家に忠誠をたてる政宗は参勤交代の時期が近付いているが自分の体力が持つうちにと時期を早めて仙台を出発し、死ぬ前に徳川将軍(家光)に別れの挨拶をしたいと望んだ。
参勤交代出発の前にホトトギスの鳴き声を聴こうと経ヶ峯へ来た時に
「自分が亡くなった後はこのあたりにいるのがふさわしい場所である」
と自ら墓所とすべき場所を杖でさした、この場所が今の瑞鳳殿の場所である。
江戸に着き家光に挨拶した後、屋敷で療養していた。
家光が医師を政宗のところに遣わせたり、手厚い対処をしていることもあり多くの諸大名たちが屋敷に見舞いに来た。
病床に伏していた政宗は見舞いに来た客人に対しいちいち着物に着替え身だしなみもきちんとして出迎えた。心配した家光にも無理をするなと言われたが政宗は
「仙台藩主として身分をきちんとまっとうして身分がきちんと続くようにと思っています。将軍様をないがしろにするわけにはいきません。…」と答え、
自分が死んでも仙台藩の地位が変わらないようにと政宗の心遣いが感じられる。
江戸にいる妻の愛姫にも会おうとしなかった。愛姫は弱った政宗のそばにいたいと願ったが政宗は「あなたは仙台藩の主君の母君だから、軽々しくふるまうのは品格がある程度の人までだ。」と武士としての品格と次の藩主を見据えた考えを示してる。
政宗の最後 5月24日
根っからの戦国武将だった政宗は戦で死ぬのが本望、このように床で死ぬのは無念と悔やんでいた。
未明に目をさまし、いよいよ死を悟った政宗は体を起こしてもらい髪を整えてもらい、安座して西の方角に合掌しながら死を待ち、そのまま一時気を失い、そしてハッと目を見開いてそのまま息を引き取ったという。
最期まで武将らしい死に方をした政宗だった。
よく伊達政宗は派手好きだったといいますが、政宗は武士の格式を重んじ徳川家に忠誠を示すことで仙台藩の安泰を願い、家臣たちのこと思うとても優しい方だったとうかがえます。
どうして戦に派手な衣装を着たかということに関してはあとで調べたいと思います。
講義の後は外へ出て瑞鳳殿内をあるきながら説明を聴きました。
もともとここは根岸村といい政宗の死後瑞鳳殿を建ててから城下に入ったそうです。
ここ経ヶ峰は名前より僧が修行する聖なる山だった。
ここの階段は伊達六二万石になぞらえて62段あるそうです。

涅槃門は黒漆が塗ってありには菊の紋章が施されているがこれは天皇の菊の御紋とは違う、
秀吉より拝領したものだという。
他にも伊達家の家紋はおなじみの竹に雀、三引両、九曜紋などいくつもある。

そして門の上には伝説の生き物、麒麟が彫刻されている。これは仙台藩の安泰を祈願したもの。

(ブレてしまいましたが)
ところでいつもこの門は閉じられ、入り口は脇から入るのがなんでか不思議でしたが、
涅槃門をくぐるということは「 煩悩を去って悟りの境界へ入る」という意味なのでわれわれはわきの入り口をくぐって入るのが正しいということである。
そして門をくぐると急な階段がありその両脇には石灯篭がいくつかある。
この石灯篭はのちに家臣より献上されたものであるがその中には片倉小十郎や茂庭周防、奥山大学などがいた。

瑞鳳殿に施されている動物の彫刻などはすべて阿吽の対になっている。
例えば…




獅子

鳳凰

そして有名な竹に雀も実は(逆)阿吽である。

そして瑞鳳殿の両脇には塔がいくつか建っています。

当時の風習として主が無くなると側近の家臣があの世までお仕えしたいと殉死することがありました。
これは宝篋印塔(ほうきょういんとう)と言って、ここには大きいものが15、小さいものが5ありその人たちを奉ったもので小さいものは家臣のさらに家臣、つまりそのものも自分の主とともに殉死したということ。
これは2代目藩主忠宗の時は16名で、綱宗の時には武家諸法度で殉死禁止令が出ていたのでありませんが、断髪でこれに代わる行為としたようです。

一折説明を聴き終え、最後に伊達18代目の泰宗氏よりお話を聞くことができました。
こんな間近で見れるなんてうれしい!

今回初めて参加しましたがとても勉強になり、また興味が湧いてきました。
とても面白かったです。機会があればまた参加したい。


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伊達の御家騒動(仙台市博物館)

2012/5/21

先日の記事で仙台市博物館へ行って「仙台藩の御家騒動 寛文事件を追いかけろ!」という企画展を見てきたことについて書きましたが、御家騒動について少し詳しく述べていきたいと思います。
前記事でもう一度期間中に行きたいと言っていましたが、なんと3回も行ってしまいました。
(一度では見きれませんでした[#IMAGE|S37#])
伊達家御家騒動はいわゆる寛文事件の事をさします。
そしてそれは三代目藩主綱宗の隠居に始まり江戸での刃傷事件で終わります。
今回の企画展のメインの「伊達の黒箱」というものは刃傷事件後の約1ヶ月の事件処理に関する文書が納められた箱の通称。この文書を紐解くことによって真相を究明するという企画展です。
(このなかの文書を見ることによって当時の様子が細かくうかがえます)

寛文事件は綱宗の隠居に始まります。
綱宗は酒や女遊びにふけて放蕩してばかりいたので、家臣より藩政を危ぶむ声が出て
家臣は筑後柳川藩主立花忠茂に相談した。
(立花忠茂は2代目藩主忠宗の娘鍋姫が嫁いだ先だったので伊達藩全体の後見人的な立場だった)
そこで
ダメな藩主を隠居させ次の代の藩主をたてるいわゆる「主君押込め」をした。
(「主君押込め」とは江戸時代の風潮で戦国時代の下剋上のように主君が変わるということはせず藩を守るために次の代に変えるということをしていました。)
幕府に申し立てをして綱宗は病気という建前で隠居させ、
4代目にその息子、亀千代(のちの綱村)をたてることにしました。
しかしながら亀千代はまだ2歳であったため後見人を立てることにしたのです。
その後見人とは伊達兵部宗勝と田村右京宗良のふたり。
兵部は藩祖正宗の十男、右京は2代目忠宗三男。
二人は各々三万石ずつ与えられ内分大名になった。
兵部は一関藩、右京は岩沼藩。
以後、兵部は観察役の目付を重用ししだいに専売をふるうことになった。
その他、伊東七十郎の処刑にみられるように、自分に不利な件に対しては残忍な処罰を与えることが多かった。
このようにして兵部の専売がしだいに藩士からの批判の的になっていった。
一方で伊達一門である伊達安芸(遠田郡)と伊達式部(桃生郡)の間に領地の境界争いが起こり、一時は落ち着いたのだが伊達安芸は納得が行かず、幕府に申し立てをする事になった。
(この時期の領地境界争いは、ちょうど新田開発で土地を切り拓いて田畑を広げていたために起こった争いである。)
この幕府への申し立てを公けにするという事が意味するのは仙台藩に調停能力が無いということを幕府に示すことになり、仙台藩としてはよくないことでありました。
伊達安芸が幕府に申し立てた内容は、
境界争い以外に、
兵部が好き勝手に藩政をとりしきっている、
奉行同士が仲が悪い(ために藩政がうまく機能していない)、
処罰者が増えている(兵部による行きすぎる処罰)、
ということまで訴えています。
(これらの内容はのちに忠義の家臣といわれる所以ですが、裁判に勝つためにいろいろと相手の不利な状況証拠を挙げているようにも思えます。)
裁判の様子(歌舞伎『伽羅先代萩』)

裁判は伊達安芸に有利に進み勝利が決まる寸前(寛文11年3月27日)に原田甲斐が突然乱心して伊達安芸に斬りかかるという刃傷事件が起こった。
その事件で伊達安芸は殺され、同席していた柴田と蜂屋も原田と斬り合いになったが老中酒田家家臣に混乱中三人とも殺された。
同席した中で唯一生き残ったのは古内志摩義如でした。
刃傷事件の様子(歌舞伎『伽羅先代萩』)

その後原田一族は幕府のお膝元で刃傷事件を起こしたということで御家断絶にされ、
兵部は高知へ配流された。
しかし仙台藩主である綱元(綱村)はまだ幼少のため責任は無いとし、
仙台藩自体は御咎め無しとなり
藩は安泰となった。
4月3日にその旨が内諾され、
4月6日に正式に書面にて報告がなされた。
以上、これが伊達の御家騒動になりますが、
この企画展ではそれぞれのその後を追って説明をしていますので興味深いものがあります。
(小学生にもわかりやすく説明したプレートも用意されていました)
6月10日(日)までまだまだ日にちはありますのでぜひ見に行ってみてはいかがでしょうか?
いや仙台人としてはぜひ見るべきだと思います!



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「仙台藩の御家騒動 寛文事件を追いかけろ!」

2012/4/30

先日の土曜日、4月28日に仙台市博物館にて
しろ・まち講座
「仙台藩の御家騒動―「伊達の黒箱」を紐解く」
というものをやっていたので拝聴してきました。
いわゆる伊達家の御家騒動について以前調べてみたのですが、なんか複雑でいまいち理解できませんでしたが、やはり耳で話を聞くのが一番!

13:30からの講演でしたが13時頃に博物館についたら駐車場がほとんど満車でした、
おそらく天気もいいし周辺の桜もきれいなので皆停めているのだろうと思いながらも、なんとか空きスペースを見つけ駐車することが出来ました。
館内に入ると、会場は一階受付向かいにある小さいながらも3~400人は収容できそうなホールで、なんとすでにほぼ満席状態でした。(駐車場が満車なのも納得)
幸いにも前から4列目のD-8(真中はD-10)の席に座ることができました。(ほぼ前列正面)

写真のように早くからほぼ満席で別の会議室も使用したそうです。
見た感じ私よりずっと年配の方がほとんどでしたがその関心の高さには正直びっくりしました。
講師の博物館学芸員、坂田 美咲さんのお話はお若いのにとてもわかりやすく説明してくださりとてもよく理解できました。

伊達家の御家騒動については後日もう一度復習をしてから簡単に当ブログで説明をしたいと思います。
講演後は同館の企画展の「仙台藩の御家騒動 寛文事件を追いかけろ!」の展示を見て回ったのですが、あまりにじっくりと見過ぎて時間が無くなり結局途中で博物館が閉館になってしまいました。(涙)
しかしながらまだ6月10日までやっているので必ずもう一度行くつもりです。
博物館の情報資料センターではいろいろと(図書館までとは行きませんが)郷土史関連のものがいろいろ見れてとても勉強になります。
係りの人に見たい資料を尋ねるととても親切に探してくれました。
博物館なんて正直小学校以来きたことなかったし、あまり興味もなかった。
でも今回久しぶりに来館しとても面白いところだというのを思い知らされました。
毎月通ってもいいぐらいの勢いです(笑)←本当に!
今回なぜ伊達家の御家騒動に興味をもったかというと自分の子供が通っている保育園の隣にある荘厳寺の門、通称逆さ門の由来がそこから来ていたからです。
みなさんも是非、仙台市博物館へ足を運んで郷土について興味を持っていただけたら私もうれしいなと思います。
仙台城三の丸跡にある仙台市博物館




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