仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

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日本初の公共図書館「青柳文庫」は仙台にあります

2014/9/2

先日たまたま一関博物館に行った時に
新一関図書館オープン記念でテーマ展が開かれていて
ちょうど学芸員が説明をしてまわっているところに参加することができました。

テーマ展の内容は「版木と和本の世界」というもので
かの大槻家の旧蔵していた版木を中心に展示されていました。
建部清庵の「民間備荒録」や大槻磐渓の「合衆国小誌」や蘭学の本、
そして田村建顕に関するものまで様々でした。

当時の製本する際の木版が展示され、中でも蘭学や詳しい地形を記したものは見てて気が遠くなるほど細かく彫られていました。もちろん1頁で色別に数種類作られます。これは元の絵を描く人より彫る人の方がすごいのではと思うほど見事なものでした。

学芸員の説明を聞いていると何か聞き覚えのある名称を耳にしました。
それは「青柳文庫」日本で最初の公共図書館です。

どこにあるのかと申しますと現在大きなビルが建っている仙台の一番町4丁目にある東二番丁スクエアの場所です(元仙台中央警察署)。


ここには看板と本の形をした碑があります。


一関に来て仙台のしかも近所の話を聞くとは思っていませんでしたので驚きました。
実は青柳文庫を作った青柳文蔵という人物は松川村(現一関東山町松川)出身だったのです。松川村は一関藩と仙台藩の境目で彼は仙台藩の人間で医業を営む家に生まれました。医師の勉強のため江戸へ行きましたが生活費などを稼ぐために仕事が忙しく、また本を買うお金もなく志半ばで医業の道を諦めざるを得ませんでした。しかしその後公事師(弁護士)になり、かたわら金融業で財をなすこととなりました。
お金がなく学問を諦めなければならなかった過去を悔やみ、これまで買い求めて来た書物を千部余り献上して文庫を創設しました。

当時の青柳文庫の建物(東二番丁スクエア建設の際展示されていたもの)
入り口のひさしは東山図書館の入り口に再現されています。
http://www.library.city.ichinoseki.iwate.jp/guide/higashiyama/index.html



過去に閲覧できる書庫はありましたが、みな城内や学内など限られた人しか借りることはできませんでした。
青柳文庫は仙台藩の医学校構内に創設されたものの身分に分け隔てなく学問を志すもは誰でも借りることができ、これが公共図書館の始まりとされています。(明治維新まで存続)

私は場所こそは知っていましたがどこの誰がどういういきさつで建てたのかまでは知りませんでした。公共のものだから公共の機関が建てたのだろうぐらいにしか考えていませんでした。
天保二年に創設され文蔵は天保十年に亡くなったので晩年のことでこれまでの悔しい想いが果たされたことでしょう。


しかし本来であれば文蔵の願いは郷里松川村に青柳文庫を創設したかったと。
文政十二年9月27日に仙台藩に提出された伺書にその旨が書かれていたことが大槻文彦によって記録されています。しかしながら藩に却下され仙台城下に変更になった。
文蔵は文庫の創設と同じ年に松川村に、凶作に備えた籾倉(もみぐら)である「青柳倉」を設けています。これは東山の百姓のうち困窮している者に低利で貸し付け、秋に収穫した物で返済し倉庫に蓄えることで、図書館の費用にあてたそうです。また万が一飢饉の際は百姓を救うためにそれらを使用することとしている。文蔵の郷里への想いがわかります。
ここでおもしろいのは「(飢饉の際は…)但し、一関藩領は除く」とあるところで、松川村は一関藩領と仙台藩領が混在しているところからそのようになっているそうです。

上記の願いを書にしたためた伺書は先に述べたとおりですが、この時一関博物館に展示されていた物は同じ内容で伺書より以前に書かれたと思われる内容のもので一関藩の留守居役を勤めていた須藤家に伝わる屏風の下貼から発見されものでした。
「乍恐以書付奉願候(おそそれながら かきつけをもって ねがいたてまつりそうろう)」
東日本大震災で建物を解体するにあたり一関博物館に屏風が寄贈され、痛みが激しかったため解体したところ中から出てきて見つかったそうです。
しかしながらいつ書かれたものか、文蔵の直筆なのか、なぜ一関藩の留守居役が持っていたのかはこれから調べて行くそうです。

いずれにせよ、たまたま行った博物館で震災で偶然見つかった資料をたまたま説明を受け、それが偶然近所の話で、仙台と一関がつながって…そんな一日でした。


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仙台の街中(まちなか)に村と村の境があるの? (荒巻村)

2014/7/22

二日町の裏の方にある公園内に小さな祠がある。
その名も村境榎稲荷明神。
村境って街中のこんなところが村境だったの?
どことどこの村境なの?

 



祠の傍にある石碑をみると
もともと荒巻村と小田原村の境にあった明神だったとか。
それが現在の仙台市役所の北東に祀られそこには大きな榎(えのき)があったそうです。そして当時 そこは荒巻村と仙台との境になっていたそうです。

仙台地名考によると
荒巻は荒牧とも呼ばれ北東は東照宮の小田原から東六番丁沿いに南は現在の荒町、芭蕉の辻を中心に米ヶ袋・川内、国見、現在の荒巻本沢〜杉山(台原)ということですからかなりの範囲だったのでしょう。
現在でも荒巻の地名が残っているところがあります。
北山の奥の荒巻本沢 荒巻中央 荒巻神明町の他
国見の 荒巻西雷神 荒巻仁田谷地 荒巻坊主門、
そして青葉山一帯の荒巻青葉。

仙臺開府の際荒巻村の一部を取り入れ、現在の仙台市役所の北東が村境になったという。

最初の荒巻の範囲を上記の説明に沿ってだいたいの範囲を描いてみると以下のようになるのか?(大雑把なので間違いもあるだろう)


荒牧は粗蒔(あらまき)で自然に生い茂った草原、なので荒巻は完全な当て字と言えます。字からも想像できるように荒牧は広大で良質の牧草地帯だった。
ここで陸奥の良馬が育ったのだろう。


話は戻り、榎の木は一里塚としても利用された木で、大きく葉もモコモコとしていて遠くからも確認できるからだろう。現在の仙台市役所の北東にあった榎も大きく御神木とされたのだろう。
村境には田畑や水利の権利をめぐり争いが起こるので道祖神などを建てて厄除けをするのが風習だったようで、この村境榎稲荷明神もそのような経緯で建てられたのだろう。
今もなおひっそりと佇み、商売繁盛の神様として町内会有志で毎年7月の最終日曜日に祭礼が行われている。

また、通町にある熊野神社は宮城郡荒巻村総鎮守。


以前の場所は不明ですが寛文7年にここに移されたそうです。
鎌倉時代からあるとうことなので
仙台でもそうとう古い神社だと言えます。
現在の社殿は享保7年(1722年)に建てられたらしい。
通町熊野神社神楽は仙台市の無形民俗文化財に指定されている。


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勉強会

2014/6/29

仙台北法人会 青年部会の勉強会に6月26日行ってまいりました。(エルパーク)

「継続的に売上を上げる組織営業の手法」という題で
講師としてプロセスマネジメント大学仙台校校長であられる沢田元一郎さんがお話をしてくれました。
勉強会には部会員も含め一般の方々もたくさん参加していただけました。

 



仕事を効率化させるためには、
きちっと明確な目標を立て、そこにたどり着くまでにはどのようなプロセスを踏まなくてはならないのか、数字などで具体的に明示し、社員に共有させ行動しやすく、継続的に続けて行くことが大切だということを学びました。

つまり曖昧な目標ではいけないということです。
かなり要約しすぎましたが、ネタバレになるのでこの辺にしておきます。

とにかくお話を聞いてて業種は違えど、わかりやすくとても勉強になりました。

会社を経営されてる方や管理職の方はぜひ聞いてみるととても勉強になると思います。
機会があればぜひ参加してみるといいです。

なお仙台北法人会青年部会ではこのような一般参加型の経営者向けの勉強会などの事業や社会貢献事業を行っております。

興味のある方は入会も随時受け付けています。
事務局はこちらから→http://www.yg88.com/

また今後の一般参加型の事業などもぜひ参加してほしいです。


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「架け橋 きこえなかった3.11」

2014/6/28

宮城県倫理法人会女性委員会の事業である映画上映会に参加してきました。

「架け橋 きこえなかった3.11」というタイトルの映画で監督は今村彩子監督です。

6月24日に仙台メディアテークにて行われたのですが、会場は満席でした!250名入るとのことでかなりの人数でした。

当日、今村監督と撮影に協力した宮城県ろうあ協会の会長をしている小泉さんのお二方がいらしていました。



映画は3.11の震災のドキュメントですが、今まで見たものとは見る視点が違いろう者を中心としたドキュメント映画でした。

実は今村監督もろう者で音の聞こえない者の立場に立って震災を見つめた映画でした。
つまり津波警報が聞こえない、テレビやラジオでは情報を得ることができないなどを様々な困難がありました。

今まで様々な震災のドキュメント番組などを見ましたが、ろう者を中心とした映像はいったいどんなものなのだろう?映像を通してきちんと伝わるのだろうか?という不安もありましたが、見終えた後むしろ今まで見てきたものよりとても素晴らしい作品だと思いました。

障害を持っている方も、しっかり震災から立ち直っているのを見て逆に自分達もしっかりしなければとも感じました。

ここでもちろん詳しく映画の内容を説明することはできませんが、ぜひ見るべきだと思いました。この映画は現在各地で上映されていますが、海外でも上映されるなど幅広く賞賛を得ています。

今後、仙台北法人会青年部会の事業でもこの映画の上映をする予定です。(11月)
その時はぜひみなさん見に来てください!


http://studioaya.com/


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資福寺の紫陽花

2014/6/27

仙台の中心部から少し北に位置する北山には昔からのお寺が多い。
その中に資福寺があります。

資福寺は別名紫陽花寺と呼ばれるほど紫陽花がきれいに咲き誇るお寺として仙台でも有名です。

 



6月末、紫陽花が咲く時期になると境内の小書院にてお抹茶が設けられるのです。


お抹茶(菓子つき)は400円。
中に入ると建物の裏側に通され、座敷を抜けると目の前がすぐ池の外廊下に案内される。
板の間に腰を下ろし池越しに竹林を眺めると心が落ち着きます。



抹茶の美味しさもさることながら
目の前に見える風景、気候、場所、
そして菓子…、この全てが揃ったとき本来の味以上に至福を味わえるのではと感じました。
まさにそんなひと時を過ごすことができました。

 


実は抹茶と一緒に出された菓子は白松さんの最中と熊谷屋のハッカなんです。

資福寺は古いお寺で鎌倉時代に山形の米沢(現在の高畠町)に建立され、のちに伊達家に保護されるようになりました。
その後伊達家とともに岩出山へ移り、
されらに仙台谷地小路(現在の東六番丁)へ。
そして現在の北山へと移ったのです。

資福寺は政宗が幼少の時 梵天丸と名乗っていた当時、学問を学んだ場所。
父輝宗が梵天丸の学問の師とするべく虎哉和尚(こさいおしょう)を甲斐の国(甲州)より招き入れ資福寺の住職とした。

教育係の喜多に梵天丸が「梵天丸もかくありたい」(自分も不動明王のようになりたい)というセリフは有名ですね。



ちなみに紫陽花と時期を同じくして樹齢320年の木蓮の花も咲いているんですよ。
花の大きさは大人の顔ぐらいもあります。

 


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仙台の赤線の歴史

2014/6/19

東照宮より東六番丁を南下して45号線までの途中、中ほどに比較的広い道が丁字路でつながっている。そこを左手に曲がると西友小田原店がある。
その曲がった先には他にドラッグストアや小さな飲食店や商店がいくつも立ち並びちょっとした商店街をなしている。



しかし、この周辺では細い横道ばかりで他に商店街らしきものはなく、突如として現れたように感じる。
なぜここだけ急にお店が多いのか。メインストリートの東六番丁通りにあるなら納得がいくのですが…。

さらに西友小田原店の先を曲がったところの道幅がそこだけ妙に広くなっていて、200mほど行くと突き当たり右に折れる細い道となる。
以前からこの場所が不思議でなりませんでした。
↓西友の脇の通り




調べてみると昔この辺りは実は遊郭があったということです。なんとも中心部から離れた場所になぜ?
仙台の遊郭の歴史について大まかに見ていきましょう。
宿場町として栄えた国分町に明治2年仙台城にやってきた官軍の要請で遊郭ができました。
仙台城二の丸の官軍が仙台鎮台なってからはより近くの常盤丁へと遊郭が移転した(明治11年)。この常盤丁は現在の仙台市民会館がある辺り。

しかし常盤丁の南側に隣接したところに陸軍の将校クラブである偕行社が設置されると場所柄ふさわしくないということで、明治27年に現在の小田原六丁目あたり(常盤丁)へ移されました。
この地域はもともと江戸時代から蜂屋敷と呼ばれ二代藩主忠宗公より養蜂を始めた場所だったため、その名がついたということです。養蜂場は嵐で崩壊してしまいましたが、地名のみが残りました。


近くに昔から住む方に聞いたところ、東六番丁から小田原六丁目へ入る入口に大きな門があったそうです。通称 大門(おおもん)と呼ばれ、夜定時になると門を閉じ、人の出入りをできなくするためだったそうです。常盤丁の周囲も道が細くなったり曲がりくねってたりして袋小路に近い形状でした。

大門をくぐった通りの北側に遊郭がありました。
遊郭があった地域は新たに常盤丁と呼ばれて、市民会館の辺りは元常盤丁と呼ばれるようになりました。遊郭街のメインストリートは現在の西友の先を曲がった通りで道幅が広くなっています。
↓東六番丁から小田原六丁目に入る入り口



現在は遊郭の面影はほとんど残っていません。
強いていうのなら、「コーポラスあさかや」という集合住宅が突き当たりにあるが、これはもともと「安積屋」という遊郭だった。ここら辺でも大きな建物で木造5階建だったとか。



遊郭の南西の外れには十二軒長屋(じゅうにけんながや)と呼ばれる長屋があり通称 やり手ババアの住居があった。

 

やり手ババアとは当時 客引きをする年配の女性のことをそう呼び、彼女らの仕事は建物の格子窓から手を出しての客引きでした。なぜ表に出なかったのかというと、公道での客引きは禁止されていたためで、建物を敷地から少し下げたところに建て、そのスペースに客を立たせて建物の中から交渉していたのです。


↑上の写真の千登勢屋は旅館ですが、当時の建物のつくりの名残なのか、少し建物が敷地より下がっていて格子窓もある。

また遊郭は遊ぶ建物と宿泊施設と別棟になっていました。例えば通りを挟んで別棟が宿泊施設。

遊郭には質屋もセットで存在していた。遊郭で遊ぶためのお金を作るために質屋に行ってお金を借りた。そのため質に入れたものをしまう蔵もあり、それに使われていた蔵は今でも残っている。



メインストリート突き当たり西側に神社があった。現在はないがおそらくこの辺りのあんぜんと商売繁盛を祈願したものではないか。 また男客で気に入った女性がいて連れていきたい場合はこの神社で 遊郭と縁を切る儀式を執り行ったそうです。参道には桜並木が並んでいたそうです。現在の駐車場。



また遊郭に遊びに行くことを隠語のようなものですが「草餅屋に行く」と言ったそうです。

遊郭は華やかな場所でもあり、影がある場所でもあります。
売れっ子の遊女がいる一方落ちぶれた遊女は東八番丁や塩釜へと場所を移し仕事を求めたそうです。
またいわゆるヤクザもいくつか同時に存在して 守料(もりりょう)や ショバ代をもらうことによって、
いざこざが起こらぬよう秩序を維持していたそうです。
遊郭では職業柄特別な病気にかかることも多くいわば専属の病院がありました。場所はメインストリートの突き当りにありました。



昭和33年売春防止法によって赤線が廃止され、その後はその建物を活かして旅館や下宿屋に転用され、地名も旅籠町となった。
現在西友がある場所もあけぼの荘(遊郭:五城郭)だったところです。
先に述べたコーポラスあさかもしかりです。
唯一旅籠町の名残を今も残しているのはユースホステル千登勢屋だけです。
当時は相撲の巡業や野球選手などいろいろな有名人が泊まったそうです。
今の風景からはまったく想像もつきませんね。
余談ではありますが常盤町は仙台で初めて電話ボックスが設置された場所の一つでまさもあります。それだけ人の往来が多かったことを物語っています。
また仙台市内では毎年市内中心部以外にも七夕飾りが各地で飾られますが小田原で飾られるのもそんな繁華街であった歴史があるんですね。

旅籠町の名は今も公園の名称として残っているが常盤丁の名はどこにも残っていない。


しかし電柱を見上げるとかろうじてその名が確認できるのだ。


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タイから遥々と

2014/5/1

タイのテレビ局の取材を受けました。
海外メディアからの取材は初めてです。

この取材の番組はレポーター役が旅をしながら体験を交えてその土地の素晴らしさを視聴者に伝えるという内容です。
タイからの取材班はレポーター役の旅人1人、カメラマン1人、カメラマン&アシスタント1人の3名でした。
さらに通訳のコーディネーターの方1人、仙台市経済局の国際観光部の方1人、近畿日本ツーリストの方1人の3名。

タイの一行は取材当日仙台空港に着いたばかりで先に亘理は山元町のイチゴ農園などを取材してきたあとでこちらには夕方4時頃に到着しました。

レポーター役の方はタイで有名な俳優さんだそうで、レイ・マクドナルドさんという方です。
彼のレポートした映像がアップされているページはこちらです。「第1回アジア旅番組国際グランプリ」でグランプリ賞(北海道知事賞)をとった作品です。
(クリックするとアジア旅番組国際グランプリのサイトになります)
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旅をしているという設定なので彼はリュックを背負ってお店にやってきます。
(暗くてわかりづらいですが左側がカメラマンで表から歩いて入ってくるところを撮っています。ちなみに手前の人は通訳の方です)
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一方的に彼がどんどんレポートを進めていくという形なのでとくに私との絡みはあまりなかったです。話しているタイ語はさっぱりわかりませんでした(笑)

一通り店内での撮影が終わり、今度は工場に移動して駄菓子造りの体験です。
まずは白衣と帽子をかぶるところから撮影開始。(そこから撮るんだぁ)
いろいろしゃべりながら白衣を着て、帽子は斜めにヒップホップ調にかぶって、「どうだい?似合ってる?」という顔をしてこっちを向いてきました。(笑)

体験してもらったのは小荒ねじり造りのねじる作業。これは見た目よりけっこう難しいんですよ。
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造りたては柔らかいので直接手でねじると力ですぐにくずれてしまいます。ですので布に巻いて微妙な力加減でねじっていくのです。

職人の手さばきをまねながらなんとか形を作っていました。
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最後はみんなで記念写真を撮らせてもらいました。
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※ちなみにこの映像は日本では流れません

 


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「ふしぎ!発掘!発見! 不思議な地形をジオラマにしよう」 その2

2014/4/3

「ふしぎ!発掘!発見!
不思議な地形をジオラマにしよう」と題して行われた作業ですが柏木市民センターの館長さんいわく今作っているのは最終的なジオラマではなく地形模型であると。
これが完成した後、へくり沢周辺のジオラマ(プラモデルの背景にあるような感じのイメージのもの)を造りたいそうです。
まだまだ道のりは長い!
今回の模型は昭和33年の仙台の
地図で1/3000のものです。
ここまで現在のような正確な測量が行われた地図でもっとも古いものだそうです。
1月の末からほぼ毎週土曜日に集まり約2時間ほどずつ作業をして4回の予定が間に合わず計5回集まりました。

2月15日は前の週に続く記録的な豪雪のなかみなさん集まって作業をしました。

ゲジゲジに見える部分も太線が引かれていますのでカッターで切っていきます。とても細く、のちに使われるパーツなのかどうかわかりませんが、途中で折れてしまわないように切り出します。

なんとか切り出しました。新坂通のあたりの部分ですね。

ブルーシートの上の地図はおそらく一番下の土台から二番目の地図でしょう。切られている部分が少ないので。28mはそのパーツの標高の数字です。

4回目以降の作業は主に切り終えたパーツを重ねて貼り合わせる作業でした。
各自担当し、切り離し終えた地図が広げられている。元は同じ昭和33年の地図(現在の宮城一高あたりを中心とし北は北山あたり西は国見あたりまで)で、標高によって切る場所が異なり一枚で5つの高さを切り分ける。
地図の下に敷いている段ボールに書かれている数字は等高線の数字でそれを目安に各地図から等高線に準じたパーツを探して貼り合わせます。


20m間隔の等高線を一枚から切り出す。それらを2mごとに重ね合わせていく。
指示する人、各パーツを集める人、貼り合わせる人に分かれ作業は進む。パーツを集めるのはまるでトランプの神経衰弱をやっているような気分です。


裏側から見ると下の方に隙間があるのがわかります。これは1枚の地図から複数の等高線のパーツを切り出したのでこのようになっています。

最後の回は時間の関係で完成を見ずに退席したのが残念でしたが、だんだんカタチになっていく様子を見てると楽しみになってきました。


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ひよんの木

2014/3/20

昭和24年度版復刻JTB仙台市街圖の地図を見ていると大学病院の敷地にヒヨンノ木という表記があった。なんとなく見過ごしてしまうような小さな字ですが、ちょっと待てよ、なんで木の名前がわざわざ地図に載っているのか?と疑問に思いました。何か理由があるはずそして今もあるはずと確信しました。

しかし何度地図のあたりを歩いてもそれらしき木も看板も無い。
もしかしてもう無くなってしまったのか?東北大学に問合せたら教えてくれるのか、などとしばらく考えていました。

東北大学付属病院の脇の通り北四番丁-大衡線の通りは毎日通る道。車からよく見ているはずの木。ふと気が付いてあの木はずいぶん大きな紅葉の木だなぁ、近くから見てみたい。
と思い普段車で素通りするところを車を降りて近くに行ってみました。なるほど立派な木だ。これなら仙台市の保存樹木にでもなってそうなものだ。よく見ると保存樹木の看板が傍に立っていた。やっぱり…。


しかしそこには「紅葉」ではなく「ひよんの木」の文字が記載してありました。まさかこれが 紅葉ではなく「ひよんのき」?
…ではなく、隣の木が「ひよんのき」だったのです。

地図の位置とはずれているので移動したのかもしれませんがおそらくこれがあのひょんの木でしょう。
大学病院の歴史とこの木がどのように関係しているのかはわかりませんが、同じ歴史を刻んできた木であることには間違いありません。

今さらですが、「ひょんの木」という名前は変わった名前ですよね。そもそも変わった名前だからこそ目に止まったのかもしれません。
ひよんの木(ヒョンノキ)は正式名称をマンサク科のイスノスキという植物です。その葉にアブラムシの仲間が作る虫コブがある。虫コブとはアブラムシの仲間が葉に卵を産み幼虫が成長する過程で葉の細胞が異常に膨れできたコブのようなもので成虫になる時に開けられた穴から息を吹き込むとヒューヒューと音がなるのでその名がついたそうです。
ヒューヒュー…ヒョンヒョン…ひよんの木。

追記:
このひよんの木は「要説 宮城の郷土誌(続)」によるともともと西南部、四国、九州が自生地で、仙台で自然生していない植物であると、また栽培できる北限が仙台でこれだけ旺盛に繁茂するのは珍しいそうです。東北大学附属病院は藩政時代、武家屋敷でその家の人がひよんの木を移植したものらしい。元の場所は大学病院構内関口外科〔第二外科。関口→桂→葛西外科〕と産婦人科病室との中間の東端にあったのですが両建物は、昭和 50 年代の初めには新設棟に移り、取毀し撤去されたようなので、恐らく木も工事に伴い移動したと思われます。
なぜ移動までしてひよんの木を残したのかというと東北大学医学部第二外科教室の同門会の名が「瓢木会」といい、先に述べた建物の前にあったひよんの木から名をとったものだったからでしょう。
こういったことから東北大医学部のひよんの木は歴史的にも植物学的にも大変珍しいものでもあるといえるでしょう。

木のある場所の敷地は歩道より高い位置にあって意外といつも通っていても意外と気づきにくいかもしれませんが時間のある時ちょっと立ち止まって見るのもいいと思います。


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  1. 鈴木博 より:

    東北大学第二外科同門会の名称「瓢の木会」の由来ともなった「瓢木」は少なくとも第二外科の開設当初の大正初期より第二外科医局の入り口に立っていたと思われます。昭和30年代末に病棟、医局とも移転しましたが「瓢木」はそのままに保存され、移植など位置の移動はありません。
    隣の紅葉の木のほうが樹勢が盛んで成長も早く、かっては「瓢木」のほうが大きな木でしたが、今では紅葉の木に圧倒されてしまっているような状態です。大学に紅葉の木の枝打ちをお願いして「瓢木」にかかる枝を落としてもらったこともありました。今後とも大切に見守っていきたいと思います。

    1. admin より:

      鈴木様
      コメントありがとうございます。「瓢木」は位置の移動などは無かったのですね。地図上の位置は実際の場所よりかなり西側に位置していますが、これは間違いというか適当な印なのでしょうかね。
      また、当時隣のモミジの木のほうが小さく「瓢木」のほうが大きかった樹齢もすごかったのでそちらのほうが目立っていて、現在では大きさが逆転したということを知りますと、いろいろなことが納得できますね。
      今では少々目立たなくなってはしまいましたが、これからも東北大学病院のシンボルとして大切にしたいですね。

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へくり沢「ふしぎ!発掘!発見! 不思議な地形をジオラマにしよう」 その1

2014/2/28

柏木市民センターで昨年4回に渡り「へくり沢」についての講座が開かれましたが、その集大成として「へくり沢」のジオラマ模型を作ります。

※「へくり沢」とは昔、国見の辺りを水源とし八幡町を縦断する深い沢のことを言い、現在は広瀬川へとそそぐ暗渠となっている。この深い沢のため仙台藩開府当初は町の中心部と八幡方面が寸断され土橋ができるまではかなりの遠回りを強いられていた。







昨年の講座はたくさんの方が出席しましたが、ジオラマ作業は約8人と有志の方々で行われました。





我々の他には柏木市民センターの館長さん等2人、そして今回指導してくださるのが仙台マップの安斎信行先生です。



ジオラマ作製は4回に分けて1月の25日からほぼ毎週土曜日の午後2時間余りずつ行われました。



初日は安斎先生の方から作業について簡単な説明をいただきましたが、何せ私も含めみんな初めての体験なのでなかなかイメージを浮かべるのが難しいようでした。



昭和33年の地図をもとに作るわけですが、その地図を800mm四方厚さ3mmのスチレンボードに貼り合わせ、同じものを60枚くらい用意します。(もとの地図は25枚で、そこから60の標高を取り出す)



それらのボードを一定の間隔の等高線で切っていきます。それぞれのカットしたパーツを重ねていき完成させるのですが、これが大変なようです。



<模型製作仕様書>より

8、操作手順

1、等高線のトレース

高い方から重ねる地図

1図 140m、120m、100m、80m、60m、

2図 138m、118m、98m、78m、58m、

3図 136m、116m、96m、76m、56m、

4図 134m、114m、94m、74m、54m、

5図 132m、112m、92m、72m、52m、

6図 130m、110m、90m、70m、

7図 128m、108m、88m、68m、

8図 126m、106m、86m、66m、

9図 124m、104m、84m、64m、

10図122m、102m、82m、62m、



低い方から重ねる地図

11図 22m、12図 24m、13図 26m、14図 28m、15図 30m、

16図 32m、17図 34m、18図 36m、19図 38m、20図 40m、

21図 42m、22図 44m、23図 46m、24図 48m、25図 50m



意味の分からない数字が並んでいますが、10図から順に上に見ていくと122、124、126…と2mずつ増えているのがおわかりになると思います。そして高い方から重ねる地図では4~5つの標高を切り出していきます。

(今はわかっているから言えますが、最初は説明を聞いてもちんぷんかんぷんでした)



簡単にイメージを説明しますと、例えば富士山のジオラマを作ろうとすれば裾野の方からカットしたパーツを順に重ねていけばできると思うのですが、材料を節約するために1枚のボードから幾つかの等高線のパーツを取り出します。つまり裾野の部分をとるボードで上部分もとることになり、少ない枚数でより多くのパーツを切り出しそれらを重ねると富士山の内部が空洞になるのです。



これは事前に作成した簡易的縮小版。



一通り説明を受けたあと早速作業開始。各ボードには切るためのガイドライン(指定の等高線に沿って少し太めの実線)が引いてありますが、たくさんある等高線の中で密集してるところでは多少見づらい感はあります。



ペン型のカッターを手に切り込みを入れるが垂直に切るのが難しい。また切ったつもりでも下まで貫通していなかったり。





一回目は初めてだったので慣らしということで終了。でも次回からはカットするパーツの大きさは小さくなりますからと言われた。本当に難しいのは今回だけであとは比較的楽なのかと一安心。





しかし二回目は単純ではないのです。

次のパーツは起伏が多いので、つまり山がたくさんありその間に窪地もある、全てがなだらかな傾斜とは限らないのです。

また比較的直線に近いライン・滑らかなラインは比較的カットしやすいのですが、そもそも自然の地形なのでそういうものはほんのわずか。細かくうねうねとしたラインをひたすらカットしてい作業を強いられます。ゴミみたいな小さなものもパーツです。



その日は貼り付け積み上げ作業も同時に行われました。カット作業の合間に積み重ねられたものを見ると少しずつ実感がわきます。



作業にも熱が入り真剣です。完成するのが楽しみになりました。


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