仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

カテゴリ:歴史

仙台の大晦日は年取り魚にナメタガレイを食べる

2012/12/29

仙台では大晦日の夜に子孫繁栄に縁起が良いと子持ちのナメタガレイの煮つけを食べる風習があります。
ナメタガレイは北海道ではババガレイと呼ばれ、南の方ではインドガレイとも呼ばれるそうです。
昔から大晦日になると食卓に出ていたので、そう不思議にも思わなかったのですが、他の地方の方から見ると不思議に映るようです。
とは言っても地方によってはまた異なる年取り魚があるみたいです。
仙台人としてはあたりまえのナメタガレイ、ではいつごろから食べられるようになったのでしょうか?
実は江戸時代から戦前にかけて、仙台の正月の魚(年取り魚)はタラだったのです。
意外でした!
正月に向けてタラが出回らないことを心配し、調査を命じた伊達政宗の手紙が残っているそうです。
また、戦前の仙台の年中行事に関して「正月にタラ汁は欠かせない」と記した文献も残っているそうです。
(仙台城下「町人列伝」参照)
それではなぜタラからナメタガレイに変わったのでしょうか?
明治三陸地震(1896年-明治29年)の影響で、ナメタガレイが大量に取れるようになり、庶民が食べる年取り魚として定着した。商家では大みそかは忙しくて魚を焼いている余裕はないので、冷めてもおいしいナメタの煮魚が重宝されるようになった(朝日新聞より)ということだそうだ。
ふ~ん、意外と最近なんだぁ!?
それともう一つ、正月の御雑煮に欠かせないのが焼きハゼの出汁。
これも明治以降に広まったそうです、とはいえ江戸時代の仙台城では食されていたようで他に干し鮑や干し海鼠、伊勢海老と豪華な食材を使用した雑煮だったようです。
当然庶民にはまねのできないことで、せめて焼きハゼの出汁だけでもということで少しずつ広まっていったのかも知れませんね。
いずれにせよ、風習は歴史とともに変化していくんですね。
ナメタガレイも焼きハゼもじゅうぶん歴史はあります、このような風習は続けていきたいですね。
そしてなぜそうなのかを知るのも大事だと思います。

 


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北山の羽黒神社と青葉山の名の由来

2012/12/10

伊達政宗が築城した仙台城のある青葉山。
青葉山という名は実は現在北山にある羽黒神社と関係しているのです。
お話に入る前に言葉の意味を確認しておきましょう。
別当寺(べっとうじ):神社を管理するために置かれた寺のこと。
神社と寺がセットなんて変ですね、これは神仏習合が許されていた、つまり土着の信仰と仏教の良いところをとって新たに作り上げた信仰が一般的だった時代の話です。
政宗が仙台城を築城の際、
慶長七年(1602)残月亭の南脇、本丸と二の丸の間(植物園内)に、羽黒神社と別当寺(青葉山)・寂光寺(じゃっこうじ)が建立された。
慶長5年(1600)の松川の戦いにて上杉景勝と伊達政宗が戦った際、福島の信夫山(しのぶやま)にて寂光寺の法印慶印が劣勢に立たされた政宗を寺にかくまい、夜半に裏手から仙台に帰えらせたといわれている。
その後寺は焼き払われ、山伏や宮人は政宗とともに仙台へ移り住んだ、
このとき、仙台城の前身地に青葉山寂光院・羽黒大権現を移したのです。
この「青葉山」は「せいようざん」と読み寂光寺の山号であった、この山号より名をとって
「青葉山(あおばやま)」と称すようになったと言われてい
ます。

その後寛永15年(1638)二の丸が造営されるころまでその地にあり、羽黒神社とともに北山に移転した。
北山に寂光寺が移転したのは慶長7年という記載が多いが寛永15年あたりのほうが年数的にも妥当と筆者は考える
昔の地図にある(北山移転後の)寂光寺。右端は輪王寺でその脇の古海道は中山街道または秀衡街道と呼ばれ現在の北四番丁大衡線の一部分です。

現在の地図(寂光寺があった場所:詳細はわからないので想像です)

(クリックして拡大)
現在では羽黒神社のみ残っています。

 


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  1. 横田や・横田 より:

    「寂光寺」検索していましたら出会いました。
    最近、寂光寺の参道がわかりました。横田や斜め向かいのピンク色のマンションが建っているところ。その北側に現在細い道がありますが(羽黒神社の脇までクランクして登る)その東側に立っている住宅1件分が元参道だったところと、むかしから参道わきに住んでいた方(90歳ぐらい)に1昨年聞きました。
    私も、今のクランクした道が参道の一部と思い込んでいましたが、まったくその東側だったとは・・。そう聞いてから見ると確かに今立っている住宅は、参道の上に立っているように見えてきます。

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北目城と北目町

2012/9/1

現在の仙台市太白区郡山にあった北目城。 現在は鬱蒼とした雑草が生い茂っている一部の土地が北目城跡として残っているが、ご覧のとおり外からは何も見えないのが残念だ。(鹿又交差点手前) この城はもともと豪族粟野氏の居城だった。寛正年間に茂ヶ崎城(大年寺山あたり)から移城した。 そして天正19年(1591)伊達政宗に敗れ支配下となった。 この時の北目城攻略の逸話で毘沙門天の話がある。 政宗が兵を送ってもなかなか落ちなかった北目城、粟野大膳が毘沙門天を篤く信仰していてそのご加護のせいだと考え、政宗も毘沙門天に「もし北目城を落とせたなら、城下に毘沙門堂を建てて厚く奉じよう」と願った。 その甲斐あってみごと勝利を収めた政宗は自分も同じように敵から毘沙門天に願をかけられては己が危ういと、約束を反古にして毘沙門天の像を堀に捨ててしまったという。 それを憐れんで町の人たちが毘沙門天を拾って祀ったのが荒町の毘沙門天堂といわれている。 ちなみのそこに祀られている毘沙門天様を拝見するには12年に一度の寅年に行われるお祭りの日しかないのだという。(お祭りは毎年行われている) 残念ながら私がそれを知ったのは寅年が過ぎたばかりであった。しばらく待たなければならないのだ。 北目城はその後伊達政宗が慶弔5年(1600)関ヶ原の戦い前哨戦の白石攻城の際の拠点となり、 そして戦後も岩出山には戻らず北目城にて仙台築城の構想を練った。 その後、村民は仙台城下に移り住み、その場所が現在の北目町だそうだ。
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仙台七夕って旧暦の日程だと思ってたけど違っていたの!?

2012/8/7

七夕の起こりは古くは中国から伝わったといいますが、 最初は棚状に飾り「棚機」などと表記さてたようで、しだいに七日の夕方に行うことから「七夕」となったそうです。 また現在短冊に願い事を書くのが一般的ですが、昔は梶の葉に里芋の葉の露ですった墨で和歌を書いていたそうです。 江戸時代、この風習が五節句の一つとして定めらるようになり民衆にも広まるようになりました。 当時七夕というものは旧暦の7月7日の夕方に七夕飾りを飾り、8日の朝に川に流すというものでした。 ちなみに仙台では広瀬川に流したという文献があるそうです。 明治に入り新暦に変わったことで全国的に七夕が衰退していき、仙台では縮小されながらも存続してきました。 現在の日程の8月の6~8日は新暦と旧暦の間の中歴(新暦の月遅れ)ということでこの期間に仙台では七夕祭りが行なわれるようになりました。  お盆についても同じく中歴ということです。 また七夕の七にちなんで七つの飾り飾られるようになりました。 七つの飾りの意味 紙衣 裁縫の上達や子供の健康祈願 吹き流し  五色の願いの糸が変化 裁縫の上達 巾着  お金に不自由しないように 投網  豊漁 感謝 折鶴  家内安全 延命長寿 短冊  梶の葉に和歌や願い事を各習俗より変化した 屑籠  飾りのくずを入れ、倹約や物を粗末にしないよう戒める


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政宗歴史塾

2012/8/4

8月3日 瑞鳳殿にて政宗歴史塾なるものが開催されました。 こういった会はたしか3~4回目で一般者を対象にしたのは今回が初めてだとか。 (これまでは子供たちを対象に歴史に親しんでほしいという趣旨だったようだ) そして今回は定員30名で抽選の結果ラッキーなことに選考され参加してきました。 10:00から始まり最初の一時間は瑞鳳殿に併設されている旅館 天龍閣で講義を聴き、 残りの一時間は涅槃門から瑞鳳殿まで移動しながらいろいろと説明を聴きました。 講義の題名は 「伊達政宗 最期の日々を追う」と題し、亡くなるまでの約5ヶ月間(寛永13年1月~5月)の行動や言動について紹介しそこから政宗はどんな人物だったのかというのを知りました。 自己の健康管理には人一倍気を遣っていた政宗だったがいよいよもって己の死期が近づいたことを悟ると周囲の家臣をいたわりながらも息子忠宗の代になっても引き続き盛り立ててほしいと頼んでいた。 また徳川家に忠誠をたてる政宗は参勤交代の時期が近付いているが自分の体力が持つうちにと時期を早めて仙台を出発し、死ぬ前に徳川将軍(家光)に別れの挨拶をしたいと望んだ。 参勤交代出発の前にホトトギスの鳴き声を聴こうと経ヶ峯へ来た時に 「自分が亡くなった後はこのあたりにいるのがふさわしい場所である」 と自ら墓所とすべき場所を杖でさした、この場所が今の瑞鳳殿の場所である。 江戸に着き家光に挨拶した後、屋敷で療養していた。 家光が医師を政宗のところに遣わせたり、手厚い対処をしていることもあり多くの諸大名たちが屋敷に見舞いに来た。 病床に伏していた政宗は見舞いに来た客人に対しいちいち着物に着替え身だしなみもきちんとして出迎えた。心配した家光にも無理をするなと言われたが政宗は 「仙台藩主として身分をきちんとまっとうして身分がきちんと続くようにと思っています。将軍様をないがしろにするわけにはいきません。…」と答え、 自分が死んでも仙台藩の地位が変わらないようにと政宗の心遣いが感じられる。 江戸にいる妻の愛姫にも会おうとしなかった。愛姫は弱った政宗のそばにいたいと願ったが政宗は「あなたは仙台藩の主君の母君だから、軽々しくふるまうのは品格がある程度の人までだ。」と武士としての品格と次の藩主を見据えた考えを示してる。 政宗の最後 5月24日 根っからの戦国武将だった政宗は戦で死ぬのが本望、このように床で死ぬのは無念と悔やんでいた。 未明に目をさまし、いよいよ死を悟った政宗は体を起こしてもらい髪を整えてもらい、安座して西の方角に合掌しながら死を待ち、そのまま一時気を失い、そしてハッと目を見開いてそのまま息を引き取ったという。 最期まで武将らしい死に方をした政宗だった。 よく伊達政宗は派手好きだったといいますが、政宗は武士の格式を重んじ徳川家に忠誠を示すことで仙台藩の安泰を願い、家臣たちのこと思うとても優しい方だったとうかがえます。 どうして戦に派手な衣装を着たかということに関してはあとで調べたいと思います。 講義の後は外へ出て瑞鳳殿内をあるきながら説明を聴きました。 もともとここは根岸村といい政宗の死後瑞鳳殿を建ててから城下に入ったそうです。 ここ経ヶ峰は名前より僧が修行する聖なる山だった。 ここの階段は伊達六二万石になぞらえて62段あるそうです。 涅槃門は黒漆が塗ってありには菊の紋章が施されているがこれは天皇の菊の御紋とは違う、 秀吉より拝領したものだという。 他にも伊達家の家紋はおなじみの竹に雀、三引両、九曜紋などいくつもある。 そして門の上には伝説の生き物、麒麟が彫刻されている。これは仙台藩の安泰を祈願したもの。 (ブレてしまいましたが) ところでいつもこの門は閉じられ、入り口は脇から入るのがなんでか不思議でしたが、 涅槃門をくぐるということは「 煩悩を去って悟りの境界へ入る」という意味なのでわれわれはわきの入り口をくぐって入るのが正しいということである。 そして門をくぐると急な階段がありその両脇には石灯篭がいくつかある。 この石灯篭はのちに家臣より献上されたものであるがその中には片倉小十郎や茂庭周防、奥山大学などがいた。 瑞鳳殿に施されている動物の彫刻などはすべて阿吽の対になっている。 例えば… 龍 獅子 鳳凰 そして有名な竹に雀も実は(逆)阿吽である。 そして瑞鳳殿の両脇には塔がいくつか建っています。 当時の風習として主が無くなると側近の家臣があの世までお仕えしたいと殉死することがありました。 これは宝篋印塔(ほうきょういんとう)と言って、ここには大きいものが15、小さいものが5ありその人たちを奉ったもので小さいものは家臣のさらに家臣、つまりそのものも自分の主とともに殉死したということ。 これは2代目藩主忠宗の時は16名で、綱宗の時には武家諸法度で殉死禁止令が出ていたのでありませんが、断髪でこれに代わる行為としたようです。 一折説明を聴き終え、最後に伊達18代目の泰宗氏よりお話を聞くことができました。 こんな間近で見れるなんてうれしい! 今回初めて参加しましたがとても勉強になり、また興味が湧いてきました。 とても面白かったです。機会があればまた参加したい。
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土井晩翠の「土井」って「どい」じゃない?!

2012/7/27

青葉通りに面したところに「晩翠草堂」という建物がある。 ここは土井晩翠が晩年暮らした家で、現在は無料で中を見学することができる。 今まで入ったことはなかったが近くで用があったのと気になっていたのとで足を運んでみた。 屋敷内はさほど広くない、しかし展示してある模型を見ると裏にも建物があるらしく公開してるスペースが手前だけなようだ。

庭はある程度の広さがあり外には出られないもののゆったりとした眺めが楽しめる。 見学できる屋敷内スペースには晩翠が亡くなった当時のベッドと布団がそのまま奥の部屋に置いてあり、 その他は正直これといって展示物はあまりない。

しかし仙台の誇る偉人、もちろん会ったことはないがここに暮らしていたんだぁと思うと感慨深い。
ところで案内してくれたのは60~70代の男性の方でしたが、最初にある程度の説明をしてくれてあとはCDを流して録音の説明(2分ほど)に切り替わり、そのあとは自分でいろいろ展示物を眺めるといった感じでした。 さっと見て帰ろうとしましたが、展示してあった年表に北鍛冶町(現木町通二丁目)の質屋に生まれるとあるのをみつけました。

うちのお店(熊谷屋)は生家の真向いにあり当然、土井晩翠が生まれたところであるということは知っていました。(昔は晩翠荘という古いアパートがあったんですよ) しかしそこがもともと質屋だったとは初めて知りました。
そこで先ほどの案内してくれた方にお話を聞くといろいろな話をしてくれました。
…あそこは北鍛冶町でもともとは鍛冶屋だったのではないか、当時の屋号が鎚屋(つちや)といい、 そのうち苗字になり鎚が土に代わり土屋となり、そして土井と変わっていった。
そもそもいまでこそ「どい晩翠」と言っているが本名は「つちい」読むのだと。 ところが東北弁で訛って「つつい(筒井)さん」と聞こえたり、そのまま字面から「どい」と読まれることが多かったのである時を機に「どい」と読ませるようにしたとか。 しかも名前を変えたのは昭和9年(違う説もあるがあえて)からで生涯のほとんど終わりの方だけだったのです。

現在の晩翠草堂は見たままの広さですが、もともとはとても大きな敷地だったそうです。 隣接するビルはもとより奥州街道を超えてまでも土地はあったそうです。

北鍛冶町で質屋をしていて、ちょうど侍がお金を工面するのに刀や着物を質に入れ無ければならないという時代背景もあり質屋は古物商で潤い、事業を拡大するために大町の辺りに引っ越したそうです。 その際晩翠は現木町通小学校から立町小学校へと3年生の時に転校しました。 その後今の晩翠草堂にあった3階建の旅館を買い取りそこを住居としたそうです。
とても大きな旅館だったらしいですね、 しかしながら戦争で焼けてしまい、その際書物も全部焼けて、何も無くなり晩翠は失意のどん底にいました。 その晩翠を慰めようと、教え子や市民が有志で昭和24年に建てた家が、この「晩翠草堂」。
しかしながら戦後の区画整備でかなりの土地を削られ現在の大きさとなった。 その好意もむなしく前年の昭和23年に妻に先立たれ、亡くなるまでのたった3年間だけほぼ一人で住みそのままここで息を引き取ったという。


今まで他の人より身近に感じながらも土井晩翠=「荒城の月」、木町通小学校の校歌、それと生家が目の前ぐらいしか知りませんでした。 生家がうちの前にあったなんてどのくらいの人が知っているだろう?多分ほとんどが知らないと思う。 あそこに仙台市で碑を建てるべきですよね!と説明してくれた案内の方と同意見!! いろいろお話を聞いてへぇ~と驚くことがたくさんでした。
みなさんもお寄りの際はただ見るだけでなくお話を聞くことをおすすめします! 土井晩翠の生家のあった場所 (薬屋さんから駐車場を挟んで隣の商店までとその奥)  


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  1. 晩翠ファン より:

    兵庫県在住の、城下町などの歴史・地理が好きな還暦男です。
    晩翠草堂や立町小学校の晩翠資料室等で尋ねても、晩翠の生家の正確な場所が分からず、
    別件もあり、今日、市役所の観光課へ出向くと、このブログのコピーをいただき、午後に現地と熊谷屋さんへとたどり着きました。
    (御餅とお菓子、美味しかったです(^○^))
    観光課には、ここに碑を建てるべきと言っておきました(^_^;)。
    晩翠が、小学3年生でなぜ転校するのかも、疑問でしたが、貴殿のブログを拝読し納得できました。
    ありがとうございます。

    1. admin より:

      晩翠ファンさん コメントありがとうございます。観光課の方と同意見で晩翠の生家に碑を建てるべきだと思います。
      現在この辺の地域のまちづくり協議会がまさに始まろうとしておりますので、そこで提言していきたいと考えています。
      今後ともよろしくお願いいたします。

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木町通二丁目について調べてみました

2012/6/29

熊谷屋が所在する場所、木町通二丁目。
店の前の通りは奥州街道、旧町名を北鍛冶町という。
そしてここの近辺には木町という地名と木町通一丁目という地名があります。
二丁目があるのだから一丁目があるのは至極当然、
しかしながら「通」という名が付いているのに二つの地域を貫いている通りは無い、
それが昔からなんか腑に落ちない感じが私にはありました。
地図上で二つの区域を確認すると国道48号線(作並街道)を境に南北にブロックが分かれ
さらに東西に少しずれているのがわかります。

そもそも通とはそこへ通ずる道という意であり、この場合「木町」へ通ずる道なのである。
木町通はもともとあった地名で大町二丁目あたりから北山の覚範寺へ至る通りを「木町通」と呼んでた、
そして「木町」は立町から定禅寺通櫓丁までの間を呼んでいた。
きちんとした名称は材木町で、そこは幕府より木材専売の特許を与えられていた、その後南材木町、北材木町(定禅寺通櫓丁裏)ができ本材木町という名に変遷した。

※現在でこそ大学病院から北山へ伸びる道路はトンネルへと続くが昔は手前で斜めに折れ撹範寺へと突き当たっていた。
これらのことから昔の木町通は現在の一丁目の真ん中寄りを縦断していることから、
二丁目に関しては縦断ではなく端が木町通に接しているということで地名が付けられたようだ。
(もちろん当時他にも新地名の候補があったが)
そして残る現在の「木町」という地名は単に木町通上にある地域だからその名をとっただけでそこがもともとの木町すなわち材木町とは関係ないのだという。


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コメント (2件)

  1. 菅原稔郎 より:

    本日、野蒜築港のことを調べていたら、2014/12/1付け本ブログに辿り着き、
    木町の植木氏(知人です)の祖先のお話や、さらには木町の地名の由来の謎が
    解けました。
    藩政時代、足軽屋敷が多かったあの界隈がなぜ「木町」なのか以前から疑問に
    感じておりました、お陰様でスッキリしました。ありがとうございます。

    1. admin より:

      コメントありがとうございます。疑問がすっきりしてよかったですね。ブログを書いた甲斐があります。

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六丁の目ってへんな地名だね

2012/6/21

仙台には六丁の目という地名があります。
一丁目、二丁目、…六丁目ではありません、れっきとした地名でございます。
へんな地名…、みなさんもそう思うでしょう。
でもちゃんとした地名の謂れがあるんですよ。
『鎌倉時代の中期、時宗(じしゅう)の開祖として名高い一遍上人が、諸国を遊行してこの地に来られ、ここで念仏弘通が行われた時、道ばたの平らな石に六字の名号即ち南無阿弥陀仏の文字を書かれた。ところがこの六字の銘がそのまま石に刻んだように浮かび出たのがこの碑であるということである。地方民はこれを「六字の銘」を読んでいたが、後世訛って「ろくちょうのめ」というようにたった。これがまたそのまま地名となったのが六丁目であるという。』
(仙台地名考 菊地勝之助著より)
※念仏弘通=お念仏を広め唱えること
この石碑は六丁の目コミュニティセンター前に建つ太子堂に祀られています。

南無阿弥陀仏の六字の銘は実際左右逆に書いてあります。


六字の銘が訛って六丁の目っていったいどんな訛り方したんだとお思いでしょうが、
六字の銘を別名、六丁の銘と言っていたそうです。


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遠見塚古墳

2012/6/19

古墳といえば「仁徳陵古墳」などが有名ですが、仙台にも立派な前方後円墳があるんです。 それが若林区にある「遠見塚古墳」です。 国指定史跡 遠見塚古墳 仙台平野の真ん中、南小泉遺跡(弥生・古墳時代の集落跡)の中に造られた全長110mの前方後円墳で、東北地方では第3位の規模をもっている。  古墳の形式、構造、出土遺物から見て、4世紀末~5世紀初めごろの墳墓と考えられ、東北では2番目に古いものである。被葬者は当時、すでに強力な政治、経済力を持ち、畿内との関係を保ちながら、広く仙台平野の王として君臨していたことを示す遺跡である。(史跡説明板より) 石碑の向こうに見える地表のふくらみが古墳で左奥が円形部分で、右手前が方形部分です。 さらに円形部分に上るには階段がありますが、これは当然後から設置したものでしょう。 上から下方を見下ろした写真です。 上空から見るとしっかり鍵穴の形をしてますね。 ここは古墳がど~んとあるだけで他に何があるわけではありませんが、 こうして古墳の土に手を当ててみると4世紀からの壮大な歴史が感じ取られるような気がしてとてもわくわくするのは私だけでしょうか? 実はここに古墳があることは以前から知ってはいましたが、なかなか見に来ることが出来ませんでした、 またみなさんも同じように知ってはいたものの見たことないという方は多いと思います。 でも一度でいいですから、来てみてください、なんか現代の世の中でせわしなくしている自分がとてもちっぽけに思えて、そして約16世紀もの間ここにこの古墳が存在していたことを感じとれるでしょう。 すぐとなりにある遠見塚小学校に続く桜並木もその季節になると綺麗なのでしょうね。 ここの児童がうらましい。(4月初めに撮影)
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伊達の御家騒動(仙台市博物館)

2012/5/21

先日の記事で仙台市博物館へ行って「仙台藩の御家騒動 寛文事件を追いかけろ!」という企画展を見てきたことについて書きましたが、御家騒動について少し詳しく述べていきたいと思います。 前記事でもう一度期間中に行きたいと言っていましたが、なんと3回も行ってしまいました。 (一度では見きれませんでした[#IMAGE|S37#]) 伊達家御家騒動はいわゆる寛文事件の事をさします。 そしてそれは三代目藩主綱宗の隠居に始まり江戸での刃傷事件で終わります。 今回の企画展のメインの「伊達の黒箱」というものは刃傷事件後の約1ヶ月の事件処理に関する文書が納められた箱の通称。この文書を紐解くことによって真相を究明するという企画展です。 (このなかの文書を見ることによって当時の様子が細かくうかがえます) 寛文事件は綱宗の隠居に始まります。 綱宗は酒や女遊びにふけて放蕩してばかりいたので、家臣より藩政を危ぶむ声が出て 家臣は筑後柳川藩主立花忠茂に相談した。 (立花忠茂は2代目藩主忠宗の娘鍋姫が嫁いだ先だったので伊達藩全体の後見人的な立場だった) そこで ダメな藩主を隠居させ次の代の藩主をたてるいわゆる「主君押込め」をした。 (「主君押込め」とは江戸時代の風潮で戦国時代の下剋上のように主君が変わるということはせず藩を守るために次の代に変えるということをしていました。) 幕府に申し立てをして綱宗は病気という建前で隠居させ、 4代目にその息子、亀千代(のちの綱村)をたてることにしました。 しかしながら亀千代はまだ2歳であったため後見人を立てることにしたのです。 その後見人とは伊達兵部宗勝と田村右京宗良のふたり。 兵部は藩祖正宗の十男、右京は2代目忠宗三男。 二人は各々三万石ずつ与えられ内分大名になった。 兵部は一関藩、右京は岩沼藩。 以後、兵部は観察役の目付を重用ししだいに専売をふるうことになった。 その他、伊東七十郎の処刑にみられるように、自分に不利な件に対しては残忍な処罰を与えることが多かった。 このようにして兵部の専売がしだいに藩士からの批判の的になっていった。 一方で伊達一門である伊達安芸(遠田郡)と伊達式部(桃生郡)の間に領地の境界争いが起こり、一時は落ち着いたのだが伊達安芸は納得が行かず、幕府に申し立てをする事になった。 (この時期の領地境界争いは、ちょうど新田開発で土地を切り拓いて田畑を広げていたために起こった争いである。) この幕府への申し立てを公けにするという事が意味するのは仙台藩に調停能力が無いということを幕府に示すことになり、仙台藩としてはよくないことでありました。 伊達安芸が幕府に申し立てた内容は、 境界争い以外に、 兵部が好き勝手に藩政をとりしきっている、 奉行同士が仲が悪い(ために藩政がうまく機能していない)、 処罰者が増えている(兵部による行きすぎる処罰)、 ということまで訴えています。 (これらの内容はのちに忠義の家臣といわれる所以ですが、裁判に勝つためにいろいろと相手の不利な状況証拠を挙げているようにも思えます。) 裁判の様子(歌舞伎『伽羅先代萩』) 裁判は伊達安芸に有利に進み勝利が決まる寸前(寛文11年3月27日)に原田甲斐が突然乱心して伊達安芸に斬りかかるという刃傷事件が起こった。 その事件で伊達安芸は殺され、同席していた柴田と蜂屋も原田と斬り合いになったが老中酒田家家臣に混乱中三人とも殺された。 同席した中で唯一生き残ったのは古内志摩義如でした。 刃傷事件の様子(歌舞伎『伽羅先代萩』) その後原田一族は幕府のお膝元で刃傷事件を起こしたということで御家断絶にされ、 兵部は高知へ配流された。 しかし仙台藩主である綱元(綱村)はまだ幼少のため責任は無いとし、 仙台藩自体は御咎め無しとなり 藩は安泰となった。 4月3日にその旨が内諾され、 4月6日に正式に書面にて報告がなされた。 以上、これが伊達の御家騒動になりますが、 この企画展ではそれぞれのその後を追って説明をしていますので興味深いものがあります。 (小学生にもわかりやすく説明したプレートも用意されていました) 6月10日(日)までまだまだ日にちはありますのでぜひ見に行ってみてはいかがでしょうか? いや仙台人としてはぜひ見るべきだと思います!

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